人間の土地
高橋あい
今年度は、岐阜県飛騨市の広報物を作る仕事をさせて頂きました。情報誌の「広報ひだ」と同時に配るもので、飛騨市にある地域資源を見つめ直すことを目的に取材をし、二ヶ月に一度発行してきました。
タイトルは「ま結ま(まゆうま)」。去年度、飛騨地域の取材をしている中で、飛騨地域の信仰に「まゆ(お蚕さん)」と「うま(馬)」がよく出てきたことと、間(時間と空間)を結ぶものを残したかったことなどを、タイトルの由来にしました。
第一号は「繭と馬の文化」について、第二号は「戦前・戦中・戦後の娯楽」、第三号は「漬物」、第四号は「木の恵」とテーマを決め、飛騨市の旧二町二村の全ての地区で取材を重ね、記事を書いてきました。そして、飛騨市全9000戸配布されました。
取材を重ねているうちに、サン=テグジュペリの「人間の土地」を思い出していました。
人間のやることは凶暴すぎる。20世紀の初頭に生まれたばかりの飛行機械に、才能と野心と労力と資材を注ぎ込み、失敗にめげず、墜ち、死に、破産し、時に嘲られながら、わずか10年ばかりの間に大量殺戮兵器の主役にしてしまったのである。
空を飛びたいという人類の夢は、必ずしも平和なものではなく、当初から軍事目的と結びついていた。(略)
「人間の土地」あとがきの一部より・宮崎駿著
飛騨の古老から生き生きと語られる話は、飛行機ではないけれど、人々の営みが軍事目的と結びついていたことが少なくなかったことを改めて認識したのです。繭から取れる絹糸は軍服やパラシュートへ、材木は工場や戦闘機の燃料へ、大自然の中で自然に根付いた文化と共に、国策から生まれた文化が生まれ、そして消えていきました。林道もダムも朝鮮人労働者によって作られていたという話、戦中戦後に各小学校の体育館で見た記憶のある映画は、戦争を讃えたものや西部劇だったことなどを、懐かしさと人口が多くにぎやかだったことを語ってくれました。
映画「風立ちぬ」の企画書の中で、宮崎駿氏はこうとも語っていました。
少年期から青年期へ、私達の主人公が生きた時代は今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代だった。関東大震災、世界恐慌、失業、貧困と結核、革命とファシズム、言論弾圧と戦争につぐ戦争、一方大衆文化が開花し、モダニズムとニヒリズム、享楽主義が横行した。詩人は旅に病み死んでいく時代だった。
(略)
自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。
http://kazetachinu.jp/message.html より
ずいぶんと遠くに来てしまった。
けれど、生きる希望は捨ててはいない。
そのことに気が付き、大切なことを実践している同世代がいるということです。今日ほど情報の量が多いことは過去にはなく、私たちは、いま情報に流されるのではなく真実を見る術を学ぶべきところにいるのだと思います。
今月、1999年から続いてきた東京自由大学のファーストステージが終わりました。詳しくは、鎌田東二先生や鳥飼美和子さんの記事をご覧ください。
いま活動を続けている私たちは、ファーストステージの先達が作ってくれたステージの上にいます。去年、今年に亡くなった、自由大学の設立から運営に関わっていた大切な人からも、多くを伝えてもらってきました。
死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。たとえば、プロヴァンスの老いたる農夫が、自分の世代の終りに際して、自分の持ち分の山羊とオリーブの木を、息子たちに与えて、彼らもまた彼らの息子の息子たちに分ち与えようとする、あのときのようなものだ。農夫の家系にあっては、人は半分しか死なぬ。おのおのの一生は、自分の番が来ると、莢(さや)のように割れて、種を伝える。
「人間の土地」サン=テグジュペリ
ファーストステージを支えてくれた一人ひとりが、東京自由大学に次の花が咲くようにと、パチンと弾けて種を落としてくれました。セカンドステージでは、その種の芽を育て、綺麗な花を咲かせ、また次の種を次の世代に渡せるように、精進したいと思います。
ファーストステージのみなさま、ありがとうございました。
深謝
2016.03.吉日