気功エッセイ 第9回 

永遠からの贈り物~東京自由大学の17

   鳥飼美和子

 

 

 

東京自由大学の誕生から17年。準備期間も併せれば、あしかけ18年の時間が流れた。

 

♪永遠からの贈り物、それは自由。

♪永遠からの贈り物、それは愛。

 

これは、鎌田東二理事長作詞作曲の東京自由大学第一校歌の一節である。設立してすぐに作られたものだったかと思うが、この校歌はほとんど歌われずに、いつしか忘れられていった。そして、東京自由大学の名物の歌と言えば、井上きゆき元事務局長がいつからか歌い始めた「星影の南無阿弥陀仏」(「星影のワルツ」のメロディーで、南無阿弥陀仏と唱え続けるもの)となり、愛好された第二校歌と呼ばれていた。

この「永遠からの贈り物」という第一校歌が蘇ったのは、東京自由大学ファーストステージ最後の春合宿の、それも最終日の最後のプログラム、鎌田理事長の誕生祝の宴の時である。春合宿担当の渡邊美鈴さんが歌ってくれたことにより、すっかり置き忘れられていた贈り物が発見されたのだ。

今聴いてみると、なかなか良い歌であり、特に上記のサビの部分は心に響く。それなのになぜ忘れられていたのだろうか。その原因を探ってみると、東京自由大学の歩みが見えてくるようだ。

東京自由大学は、19992月に西荻窪の今はなきWENZスタジオで産声を上げた。

西荻窪は多くの新興宗教が生まれたところ、スピリチャル・オカルトタウンとも言われているところ、オウム真理教や幸福の科学、ワールドメイトなどが居を構えていた。

オウム問題の余韻がまだあった1999年、精神性を前面に押し出した東京自由大学のスタートのシンポジウムでは「ここもオウムになるのでは」という参加者の発言が会場の雰囲気を一変させ、鎌田理事長の「バカヤロウ」という雄叫びが響き、波乱の幕開けとなったのだ。

1999年、スタートの年は全速力で走った。講座が全部で56回、それに100人規模のシンポジウムが2月、5月、11月と3回。合宿2回という凄まじさだ。

西荻窪 旧WENZスタジオ
西荻窪 旧WENZスタジオ

さらに、拠点となるはずだったWENZスタジオを貸してもらえなくなり、大きな荷物をもってあちこちに漂流?!する状況に陥った。2回目のシンポジウム「大重映画『黒神』上映とシンポジウム苦悩と癒し」でも、会場から厳しい意見が飛んだりした。

そんな状態の中でこれを校歌にと、鎌田理事長は「永遠からの贈り物」という歌をうたったのだ。初めてそれを聴いたとき、なんとも暢気なフォークソング的なテンポ、映画「スタンド・バイ・ミ―」のテーマ曲のようなのどかなメロディー、繰り返しの多い歌詞も間延びして感じた。切羽詰まっている感覚とのかい離が大きかったのだ。なんじゃこりゃ?歌う気になれないわ、という感じである。

 

設立2年目にやっと事務所兼教室として、西早稲田のグランド坂の近くのイタリア料理のレストランの上階に拠点を定めた。畳敷きで居酒屋だったスペースで、入り口は1階のイタリア料理店と共用だ。独立性がないところで、お互いに共存には気を使わねばならない状況だった。事務局長不在で、事務局作業は交代制で安定しない上に、「東京自由大学」に対する期待と誤解とが交錯し、まさに東京自由大学の青春期、疾風怒濤時代であった。

 

西早稲田 3階に東京自由大学があったビル
西早稲田 3階に東京自由大学があったビル

東京自由大学が始まったとき、私にはひとつの夢があった。それは学びと気功を有機的につなげるということ。東京自由大学の講義はレベルが高いものが多い。受講前に、あるいはその途中で、簡単な気功をしてリフレッシュし、叡智を全身に響かせる、ということであった。最初期に数回、簡単な気功を講座前にしたことがあったかと思うが、奇異に思う人がいる、という内部からの意見があり、辞めることにした。自分のことより東京自由大学のため、という基本姿勢でやってきたのは、そんな初期の逆風のせいでもある。 

そんな早稲田での時代に、東京自由大学の初期の記念碑的な活動がいくつかあった。会員以外の方にも協力をいただき、プロジェクトチームを組んで取り組んだシンポジウム『縄文キック』は250名の参加者を集め、縄文を多面的に捉えるものとなり、縄文祭りともいえるものだった。また、山尾三省氏の最後の講座も西早稲田、雪が舞い降りる2000年12月のことであった。

 

21世紀を迎え、東京自由大学は不安定な状態からの脱却はまず事務局長選出、ということで、そのころ丸紅勤務だった篠部幸雄さんにお願いした。ホームページも開設し、さらに翌年、専従の事務局員を募集し、渡辺恵実さんが決まった。渡辺さんの登場はその後の東京自由大学の安定化に絶大な効果をもたらした。そして、いよいよ神田へ移転することになる。東京自由大学にとって神田とのご縁もまた「福」であった。

 

2003年、神田の野水ビルに移り、学長が横尾龍彦先生から海野和三郎先生に、事務局長も酒井孝さんにバトンタッチされ、2004年には懸案であったNPO申請をして法人となった。事務局長は、その後、井上きゆきさんに引き継がれ、ファーストステージの最後は宮山多可志氏さんとなった。

 

横尾先生は、東京自由大学を瞑想絵画を柱にしたアートスクールにして、自らの中に芸術と神聖を発見してほしい、という強い動機を持っておられた。しかし、横尾先生の思っておられるような形では実現できなかったが、野水ビルの最上階にアトリエ兼スタジオを設けて独自の活動にも意欲を燃やされていた。

カリキュラム構成もこの時期に確立したものだ。多くの自主ゼミも催されている。

2005年には初めての海外夏合宿で韓国を訪れた。2007年には、それまでの東京自由大学の講座が掲載された『知の最前線 全8巻』がリブリオ出版から刊行された。東京自由大学講関係の出版物は、他にも細野晴臣さんを迎えてのアートシーン21を元とした『神楽感覚』、現代霊性学講座を元とした『仏教は世界を救うか』、『古事記ワンダーランド』などがある。

2006年には海野学長の主導で環境問題への取り組みが始まり、その後、地球温暖化防止、太陽エネルギー問題でシンポジウムなどが行われ、2008年には十周年を記念して、地球温暖化防止シンポジウム「地球温暖化―宇宙からの視点」と「『久高オデッセイ第2部「生章」』上映会+楽しい世直しシンポジウム」が行われた。ここでファーストステージ最終のキーワードとなる「世直し」の登場である。

1999年から丸十年たち、東京自由大学は成熟期に入る。山尾三省氏の詩と思想を語りつぐ「三省祭り」がスタートし、翌2010年、これも最終局面での柱の一つとなる「現代霊性学講座」がスタート「仏教は世界を救うか」が震災を挟んで3回行われた。

 

2011年1月、初期から活動の中心にいて、宇宙を知るコースやアートシーン21、三省祭りなどひとつひとつ丁寧に質高く作り上げていた運営委員・理事の吉田美穂子さんが亡くなった。そして3・11東日本大震災。悲しみとショックにゆすぶられながらも、1年かけて準備してきた「シャーマニズムの未来~見えないモノの声を聴くワザ」シンポジウム+大駱駝艦公演を行った。震災のあとで大きな催しが中止になるなかで決行し、500人以上の観客が詰め掛け、登壇者、客席が共に熱を帯びた。この催しの参加者の方々の中からファーストステージ最終の熱心な会員がうまれたのだ。

2012年には「島薗ゼミ」が始まった。さらに若い方々が提案し、運営担当する、ユース企画が行われた。このユース企画がセカンドステージにつながったのであり、学長は島薗先生にお願いしたので、この時からセカンドステージが胎内で育ち始めていたともいえよう。2013年から2015年はファーストステージの最終章「震災解読講座」「現代霊性学講座」「世直し講座」、東京自由大学でなければできない講座を立て続けに行っていった。三省祭りの集大成として、現代悉皆屋の中村紺哲さんを通して、神田地元の力も貸していただいた。

そして大重潤一郎監督「久高オデッセイ」である。副理事長であった大重潤一郎監督が命をかけて完成させた映画「久高オデッセイ」三部作、その完結編である「風章」の完成記念上映会も300席に補助席をいれての大盛況。その祈りといのちの島を讃える映画は、堂々と淡々として多くの心ある人を魅了した。その喜びと共に、長年の病の身体を捨て去って大重監督がニライカナイに旅立った。大重監督を偲ぶ会のたった2日後の8月31日、この人なしでは東京自由大学はなかったとも言える理事・元運営委員長の岡野恵美子さんが急に天国に行ってしまった。あまりのことで、なかなか受け入れることが出来なかった…。さらに、11月23日には初代学長の横尾龍彦先生が87歳で昇天された。2015年度で東京自由大学の第一期(ファーストステージ)を終了することは数年前に決めていたことだ。しかし、このように第一期の柱となる方々が他界されるとは思わなかった。

 

神田のTMビルでは、理解ある大家さんのおかげでのびのびと活動できたのだが、やはり家賃の重荷には耐えられない。セカンドステージは自由が丘駅南口の目の前、メルサ2のビルのコンテンツラボの一角をお借り出来ることになって、本当にありがたいことだ。

自由が丘駅南口目の前のMELSA・2の4階がコンテンツ・ラボ。その一角に机を置かせていただいた。
自由が丘駅南口目の前のMELSA・2の4階がコンテンツ・ラボ。その一角に机を置かせていただいた。

2月末、慌ただしい引っ越し準備で、溜まりに溜まっていた荷物を整理した。なかなか捗らず、夜遅く、山のような古い書類や記録を前にして、逝ってしまった二人の写真に助けてくれ~と呼びかけた。東京自由大学をトロイカ体制で支えてきた仲間である。三人とも5月生まれの牡牛座で血液型はO型。年齢は岡野さんと私が9歳違いでその真ん中に吉田さん。

3人で交互に夏合宿の担当をしたな~、とその感想文集を並べてみたりした。ボロボロになっている初期の事務局日誌には、あの日の必死に走っていたそれぞれの息吹が残っているように感じた。

吉田さん、岡野さんの写真。1999年~2015年夏合宿資料・感想文集
吉田さん、岡野さんの写真。1999年~2015年夏合宿資料・感想文集
引っ越し後空になった神田TMビルの東京自由大学
引っ越し後空になった神田TMビルの東京自由大学

最後の春合宿は那須。神成當子さんと渡邊美鈴さんが全力で準備してくださった豊かなプログラム。横尾龍彦先生の追悼であり、「心の中の神聖」というテーマにふさわしいものだった。雷庵で、トラピスト修道院で、言霊が、音霊が心身に響きわたり、浸みこんでゆく。

涙と微笑みと感謝のなかで、何かを手放す。「頑張ってきたんだ」という気負いや意地を。「どうして逝ってしまったの?」という嘆きを。

 

横尾龍彦先生夫人の嘉子さんは画家で禅者でもある。ただ一筋に横尾先生と共に生きてこられた嘉子夫人の悲しみや寂しさは計り知れない。しかし、ある時から「地上の悲しみは、天国の人には痛みとして感じる」という話を思い出して悲しみすぎないようにしていると語っておられた。そうか、あちらでは痛みになるのか…。嘆くことは、ある面では生き残った者の自己憐憫でもあり、甘えでもある。そんなことで彼岸の人を痛ませてはいけない。

トラピスト修道院で響き渡る祈りの響き。その祈りの中心に横尾先生のキリスト像があった。聖母子像はちょっとやんちゃそうなキリストと慈愛のマリア。横尾先生のアートスクールの夢は、そのままでは実現できなかったけれど、先生が彫り上げたキリストや聖母子像が安置された修道院で、私たちは先生の示したかった芸術と霊性の結合と出会うことが出来たのではないだろうか。やっと最後に…。

その響きの場に、気功の五臓の音楽(肺の響き)も加えさせていただいた。初期に諦めた気功と学びの融合をこれも最後にちょっとできたような気がして嬉しい。気功とは気功的振る舞いであり、生き方である、それはまさに響きを感じるということなのだ。

那須 トラピスト修道院
那須 トラピスト修道院

世直しと言い、霊性という、東京自由大学のテーマは、本当はそんなに難しいものでも複雑でもなく、また遠いものでもなく、ここから、いまから、自分の在り方から始まる。そして隣の人の言葉に耳を傾け、言葉にならない響きを感じ取り、沈黙にも豊かさを感じ取り、そしてそれぞれの輝きが現れ出るのを讃えること。そんなシンプルな本質を感じることが出来た那須の最終春合宿であった。

横尾龍彦作 聖母子像
横尾龍彦作 聖母子像

それは永遠からの贈り物、だった。なぜ今になって第一校歌「永遠からの贈り物」が蘇ったのか、それは、手放して自由になったから、かもしれない。能天気な歌だと思ってしまったのは、あまりに心が忙しかったからだろう。初期の逆風の中でも能天気な曲を校歌として作った鎌田理事長は、すでにこの心はいつもお天気、という境地だったのだろうか?

少なくとも、このプロセスは私にとっては必要だったのだろう。十数年走ってきたからこそ、解ることもある。

そうだ、修行のプロセスである「信解行証入」だ。東京自由大学は素晴らしい、と信じて、その意味を自分なりに理解して、実行してきた。そしてやっといろんな成果があり、また悲しみもあることが証としてあらわれた。今の境地に入り、感受し、また次のそれぞれのステージに信をもって進んでゆくだけなのだろう。

 

 

永遠からの贈り物 それは自由

永遠からの贈り物 それは愛

 

あなたの心に届けたい 自由を

あなたの心に届けたい 愛を

 

ぼくたちのいのちを信じて生きよう

ぼくたちのいのちを信じてゆこう

ぼくたちの旅は果てしないけれど

ぼくたちのいのちを信じてゆこう

 

永遠からの贈り物 それはあなた

永遠からの贈り物 それは私

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なかなか筆が進ます、途切れ途切れだった連載ですが、気功エッセイ@EFGはファーストステージとともに終了させていただきます。ありがとうございました。いつの日か、気功そのものを表現した気功エッセイを書いてみたいと思っています。(了)                      

 

 

 

鳥飼 美和子/とりかい みわこ
気功家・長野県諏訪市出身。立教大学文学部卒。NHK教育テレビ「気功専科Ⅱ」インストラクター、関西気功協会理事を経て、現在NPO法人東京自由大学理事、峨眉功法普及会・関東世話人。日常の健康のための気功クラスの他に、精神神経科のデイケアクラスなどでも気功を指導する。
幼いころ庭石の上で踊っていたのが“気功”のはじめかもしれない。長じて前衛舞踏の活動を経て気功の世界へ。気功は文科系体育、気功はアート、気功は哲学、気功は内なる神仏との出会い、あるいは魔鬼との葛藤?? 身息心の曼荼羅への参入技法にして、天人合一への道程。
著書『きれいになる気功~激動の時代をしなやかに生きる』ちくま文庫(2013年)、『気功エクササイズ』成美堂出版(2005年・絶版)、『気功心法』瑞昇文化事業股份有限公司(2005年・台湾)