生活 即 文化

高橋 あい

 

 

ここでは、東京で暮らしていたときよりも時季の変化を敏感に感じる日々があります。飛騨は木の種類がいちばん多い土地だと、地元の宮大工さんから聞きました。植物や動物に出会う頻度が多く、日々発見が続きます。こういうところに日本本来の豊かさがあるのだとう、と改めて思います。


私は去年、アメリカに一年滞在していました。アメリカ先住民の居留地を訪れる機会が何度かあり、その中にはグランドキャニオンの谷間を4、5時間歩いて辿り着く集落もありました。真夏ではなかったけれども暑く、整地されていない砂利道は慣れていないため、最後は足が棒のようになって辿り着きました。どんな文化を見ることが出来るか、どんな食事があるのか道中楽しみに、宿に荷物を置いたあと村を散策しました。しかし、畑らしいものは見つからず、スーパーにはコーラ、ハンバーガー、ハム、ポテトチップス類、地物ではない野菜が並び、村の人たちはそのお店に列を成していました。辺境の地であるはずが、その村にはヘリコプターで毎日食料が運ばれていました。既にアメリカ政府の監視下の元、観光地化されているようでした。夜空には星が広がり、村を囲むように滝が流れる、大地のエナジーは素晴らしい土地。けれども、その土地で暮らす人たちの文化はすっかり消えているように感じ、すこし残念な気持ちで翌日村を後にした記憶があります。

しかし、そのことを自分の国に当てはめてみると、コンビニやファーストフードが縦横無尽にある日本も同じ状況なのだという思いに至りました。いつでもどこでも、飲物も食べ物も手に入れることができるコンビニに「文化」はあるのだろうか。最近は保存料や遺伝子組み換え食品の問題、ペットボトル飲料の実体をインターネット上で見る機会が増え、それらをみていると如何に実体がないものを私たちは手軽に手に入れるシステムになっていることがわかるようになります。

 

アメリカから帰国してから、コンビニを利用しないと決めました。レストランでもスーパーでも一年中同じ食材が買えることに疑問を持つようになってしまい、生活に息苦しさを感じはじめていたのは、自然の道理でした。

自然のものをカラダに入れたい。おいしい水を飲みたい。

それは心からの声でした。

 

飛騨では、季節の野菜を初物として喜び、スーパーで買わなくても、お裾分けを頂きます。作物が穫れない長い冬のための保存食を作る人は減ってはいますが、習う機会がありました。その時にわかることは、人間が自然と付き合うためには、手間ひまがかかり簡単ではない、ということでした。しかし、高度成長期前まで、自分の祖父母の代では、その手間ひまは日常の中にあったものでした。そんなに昔の話ではありません。

今の資本主義社会、原発問題や政治問題を真剣に考えるのであれば、スピーディで便利な社会から如何に手間ひまのかかる生活にシフトする日常になるかなのだと、私は思います。

この飛騨高山の町中にコンビニが増えることを危惧する地域の人の声を聞いて、安心する自分がいました。

 

自然のものをカラダに入れる。それは自分の満足感だけではなく、自分の痕跡をどう自然に残すか(残さないか)、また、未来の命になにを繋げていくかという思想にもなります。私のカラダは私のものではなく、自然から借り受けているもの。いつか迎える「死」の時に、如何に自然な状態で、命をお返しできるか、それは、私の個人の生き方の指針です。

 

 

 

高橋 あい/たかはし あい

東京自由大学ユースメンバー。写真家。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。東京芸術大学修士課程修了。沖縄大学地域研究所特別所員。ポーラ美術振興財団の助 成を受け、2012年9月から1年間、アメリカ合衆国・インディアナ大学にて写真作品制作と研究を行い、2013年10月に帰国。現在は飛騨古川を拠点とし、株式会社美ら地球に勤務。東京自由大学では、主に 「大重潤一郎監督連続上映会」の企画を行っている。また、このウェブマガジンの発案者である。ホームページ