東京自由大学というふるさと

高橋慈正

 

 

山内の中庭に、ツワブキと山茶花が咲き始めました。初冬に咲くツワブキの花はいよいよ冬が始まるのだと身体が構えさせますが、その黄色い花の姿に元気をもらいます。大重監督と散歩をした神田明神や久高島にも咲いていた花。ツワブキの横には監督がいる気配を感じるのです。

 

私が今勤めているお寺の老僧が、7月下旬に大腸癌があることがわかり、8月下旬に入院。二週間で退院する予定でしたが、入院中に心不全が起き心臓ペースメーカーを入れる手術をしたために退院が延び、そして退院後も寺で養生の日々となりました。作務と介護で少々疲れが出てきた頃、飛騨高山・千光寺での臨床瞑想法の講座に参加をしました。一通りの瞑想法を学んだ後、各自好きな場所で瞑想をしてください、と言われ、選んだ場所はブナの木の下。30分は座り、30分は横になり、ブナの葉を通して光りや水の雫や風を感じていました。

 

縄文というのは「縄文時代」という「時代」ではないんだ。

縄文は今も、どこにでもあるんだ。

 

私の中の縄文人がよみがえり監督の言葉を思い出しました。疲れていた身体と心が軽くなった瞬間でした。私は、監督と出会えていてよかった。沢山の宝物を頂いていたのに、そのことを忘れていた、そう思いました。

 

思い起こせば、東京自由大学との出会いは大重監督との出会いからでした。2002年3月に文京区シビックホールでの上映会(「原郷ニライカナイへ〜比嘉康雄の魂」「光りの島」)に出掛けたのは大学三年が終わろうとしている頃。その4ヶ月後に多摩美での全作品上映会を行うことをきっかけに手紙や電話のやりとりをさせて頂きました。2004年に監督が脳梗塞に罹った後は、音信が途絶えたものの2008年に沖縄旅行をしたおりに事務所を訪ねたことから「久高オデッセイ二部・三部」に関わらせて頂き、監督と共に過ごせたことは光栄でした。

 

そのままでいい

 

焦っている私に、監督がよくいってくれた言葉。落ち込んでいる私を何度も励ましてくれました。沖縄久茂地の事務所に行けば、「おー、お帰り」と迎えてくれ、東京に戻る日は「いってらっしゃい」と。ここはいつ戻ってきていい場所だ、という気持ちにさせてくれました。ちょうど、朝ドラ「おかえり モネ」の最終週でヒロインのモネがサヤカさんのことをこんな風に言っていた。「私はサヤカさんみたいになりたい」「誰が来ても受け入れて、いつでも行っといでと送り出す。帰ってきたら、おかえりって言ってあげる」サヤカさんという女性と監督が重なった。ゆいレールの「県庁前」の駅の改札駅を通る自分が昨日のことのように思い出されます。

 

 

今年の大重監督の命日7月22日は、オリンピック開催で暦が変わり、海の日という祝日になりました。監督にぴったりの名のその日にオンラインで開催された「大重祭り」。出演して下さった沢山の方々が大重監督の思い出を語って下さり、監督がまだ私たちの中にいることを実感した一日でした。出演者の渡村マイさんと「大重監督語録」をいつかつくりたい、そんなことを話していましたが、大重祭りを継続すればその夢も叶うだろうという核心も生まれ、これから考えていこうと思っています。大重祭の詳細は、鎌田東二先生が寄稿して下さっていますので、是非ご高覧ください。

黒神の助監督・市東宏志さんが、阪神大震災直後に監督からもらったという手紙を手渡して下さいました。今回、その全文を載せました。是非、ご一読ください。手紙やメールも大重語録の大切な宝物として共有できたら幸いです。

 

 

2013年5月に産声をあげたこのウェブマガジンを、休止させて頂く事にしました。約八年半ご寄稿くださった皆様、そして読んで下さった皆様には心より感謝しております。大重監督が「久高オデッセイ第三部」の撮影を開始しようとしているとき、制作ノートとして、監督の気持ちを書きおさめること、そして、東京自由大学が次世代へバトンタッチする中で、引き継いでいく精神を残したいという気持ちでの試みでした。何年続けられるかわからなかったけれど、続けることを第一の目標にして今日に参りました。

 

しかし、この数年間、私が東京自由大学の活動に全く関われなかったこと、「理事」という肩書きを頂きながらも協力をする術も見つからなかったこと、そして、しばらくこの状況は変わらないこともあり、引退することを決めました。

私が出家に至ったのは、アメリカで師匠に出会う以前に東京自由大学で求道の方々と出会っていたからだということは間違いありません。ただでさえ怠け者で勉強もしない私ですので、出家をしてもその比に及びませんが、自由大学の機縁を元に今の場所で学びお勤めをさせて頂いていることに感謝しています。そして、今のこの場所をおろそかにしてはならぬという気持ちもあり、迷惑をかけている場所を少なくしたいとも思いました。

 

東京自由大学と大重監督は、いつも私のふるさととしてあります。「神田オープンカフェ」は、実家の食事のようにまた帰りたい食卓のように思い出します。感染症が落ち着いた頃には、再びあのような会が生まれることを願ってやみません。

神田の東京自由大学のように、久茂地の沖縄映像文化研究所のように、いつ誰が帰ってきてもいい場所をつくること、それが私の夢であります。監督が「夢を持ち続けることが夢」と言っていたので、私もその夢を大切にしたいと思います。東京自由大学の発展と皆様のご活躍を心よりお祈りしております。

 

ここは拙いながらも私には大切な場所でした。また落ち着いた頃に、再開するかもしれませんが、そのときはまたお付き合いして頂けたら嬉しいです。ありがとうございました。

 

令和3年11月3日

 

 

高橋 慈正/たかはし じしょう

曹洞宗僧侶。2002年より元副理事長・大重潤一郎監督と知り合い、「久高オデッセイ第三部」まで、映画制作の助手を行い、東京自由大学においても「大重潤一郎監督連続上映会」の企画を行ってきた。また、このウェブマガジンの発案者である。ホームページ