歴史のなかの神道(9)

島薗進

 

 

『戦後史のなかの「国家神道」』(山川出版社、2018年10月)という書物が刊行された。編者は東京大学大学院総合文化研究科で歴史学を教える山口輝臣で、この書物の「由来」については、山口輝臣「この本が考えようとしていること――編者のはしがき」に記されている。2017年11月12日に開催された史学会第115回大会日本史部会・近現代史部会のシンポジウム「戦後史のなかの「国家神道」」から生まれたとのことである。そこでは、藤田、昆野、須賀、谷川の4氏が報告者だったが、この書物では、その4名に加えて、コメントと司会を務めた苅部と山口の2氏が論文を寄せている。

この書物の題名からして、このEFGの連載「歴史のなかの神道」と題が似通っている。確かに問題意識にあい通じるものがある。神道とは何か、国家神道とは何かを理解する上で、まず問われる「神道」や「国家神道」という語の意味について混乱が生じている。どのような意味で用いるのか、学界で共通の理解がない。そこで何とかして共通の理解が持てるように論じ、討議し、考えを深めていこうということである。

その点では、『戦後史のなかの「国家神道」』の趣旨に大いに共鳴する。そこで、この書物から私が学んだことについて述べていきたいと思う。とりわけ、多くの示唆を得たのは、藤田大誠の「「国家神道」概念の近現代史」である。この論文では明治期から戦後初期に至る時期の「国家神道」やそれに類する語の用例が検討されている。「国家神道」「国家的神道」「国体神道」という用語は1890年代からすでに用いられていて、それほどまれなわけではなかったことがわかる。

だが、それにも増して重要なのは、大正期から昭和前期に「神道」という語が広い意味で用いられていて、村上重良や島薗による「広義の国家神道」の用語と近い内容になっているという指摘である。これは藤田のこの論文によってはじめて明確にされた重要な歴史理解ではないかと思う。まず、この論文の末尾から引用しよう。

以上のように、大正期から昭和前期にかけて醸成された「神道」という言葉は、当時の「現実」をそのまま説明するものでは無く、希望的観測や「理想」が多分に籠められた、極めて広範な諸要素を包含して拡張化された概念であった。その中で加藤玄智が提唱した「国家的神道」概念は、確かに米国人に対する一定の影響はあったと言えようが、戦後日本社会における「広義の国家神道」論のルーツは、昭和戦前期における、加藤の「国家的神道」論もその一部に含んだ頗る外延の広い「神道」概念の一般化過程にあった。換言すれば、細かな述語の違いはあっても、肯定的・積極的概念となった「神道」なる語に籠められた大きな「理想」、「希望」が一種の共同幻想的基盤・感覚となっていたのである。(33ページ)

このような「広義の神道」が実情を表したものというより、「理想」「希望」を表したものだと藤田は論じているが、どれほど実情を反映したものであり、どれほどが「理想」「希望」であるのかはおいおい考えていくことにしたい。

まず、確認したいことの一つは、そのような「広義の神道」を戦後に概念化しようとすると、引き続き「神道」とは言いにくかったはずだ、ということである。神道のなかには教派神道もあり民間神道もある。だが、戦前の「広義の神道」はそれらをほとんど無視している。「広義の神道」の外に神道はないという前提がうかがえる。だが、信教の自由が明確にされた戦後には、教派神道や民間神道を無視して「神道」一般を論じることはできないと考えられたのは自然である。「広義の神道」は実質的には加藤玄智や宮地直一、また『神道大辞典』(1937-1940年)などが「国家的神道」「国家神道」「国体神道」と論じたものに相当している(これは藤田の論文でも示されている)。それを「国家神道」と概念化するのはごく自然な選択だったと思われるのである。

『歴史のなかの「国家神道」』の第Ⅱ部は「「国家神道」をつくる」と題されていて、村上重良らの「国家神道」概念があたかも戦後、新たに「つくられた」かのような論の展開をねらっているが、これは妥当ではない。編者である山口輝臣はそのように捉えたいようだが、藤田の論文「「国家神道」概念の近現代史」は、必ずしもそうではなく、戦後の「国家神道」概念は大正期から昭和前期に広義の「神道」として概念化されたものを継承したものであると捉えた方がよいのではないかとしているのだ。

では、戦前の「広義の神道」概念はどのようなものであり、どれほど実態に即したものなのか、あるいはどれほど「理想」や「希望」として提示されたものだったのだろうか。藤田があげている例を見てみよう。そもそも宗教に関する用語は、理念のレベルを指示する言葉と実態のレベルを指示する言葉をより分けることが容易でないことが多い。信仰をもつ者にとっては事実と見えるものが、そうでない者には「理想」や「希望」と見えることが少なくない。しかし、その「理想」や「希望」に即した理念を国家が掲げる立場をとっていた時期もあった。そのあたりのことを念頭に置きながら、藤田の論を見ていこう。

鹿島神宮宮司の岡泰雄は一九三二年、「神道」は「神を祭る事」ばかりでは無く、「上は 天皇陛下の知召す御政から、国家の事、社会の事、家族の事等、人間百般の事は此の中に含められてあります」と述べている。また、一九三七年、國學院大学文学部国文学科(第三十八期、一九三〇年卒業)出身の佐藤三郎は、「神道とはなんぞやといふ事は、かなり難しい問題だが、簡単に言へば、字の示す如く、神の道即ち我が皇祖皇宗(神)によつて教へ示された所の道で、我が国民として必ず行はねばならぬ大道、換言すれば、我が皇祖皇宗の冥助の下に、万世一系の皇室を奉戴し、深奥高大なる皇謨を翼賛し、天壌無窮の幸運を擁護して行く我々日本民族の生々発展の道が即ち神道で、これが具体的の表示は、畏くも 明治天皇の下し賜へる教育勅語である。教育勅語は、一面から見れば我が神道の経典とも云ふべく、これが主旨をよく味ひ実践する事は、即ち忠良なる臣民であると共に、忠実無比なる神道の実行者であるのである。(中略)神道は宗教であるが神社は宗教でないと云ふ現行法令の解釈の神道は、十三派の教派神道の意味である。(中略)即ち宗教方面の神道も神社も道徳方面の神道をも全部包含してゐるものが、カムナガラノミチ即ち神道なのである」と記した。(32-33ページ)

 鹿島神宮宮司の岡泰雄の「国家の事、社会の事、家族の事等、人間百般の事は此の中に含められてあります」というのは、神道の範囲としていかにも茫漠として広すぎるかもしれない。しかし、佐藤三郎が「教育勅語は、一面から見れば我が神道の経典とも云ふべく、これが主旨をよく味ひ実践する事は、即ち忠良なる臣民であると共に、忠実無比なる神道の実行者である」というのは、それほど広くはない。教育勅語を尊ぶ精神とそれに相応する実践を「神道」と捉えるのは、「国体神道」とか「道徳方面」の神道ということになり、実態とそれほど離れたものではない。そして、これはこの時期の「神道」の捉え方としてさほど特殊なものではなかった。

 教育勅語を神道のきわめて重要な聖典的文書と見る点は、戦前の「広義の神道」論と戦後の「国家神道」論の通じ合うところである。比較的早い時期のものとして、藤田は一九二二年に河野省三が発表した「神道教派概論」(『皇国』第二八八号)の一節を引いている。

一九二二(大正十一)年、河野省三は「神道は日本国家創造の原理であり、日本人の生活規範である。之を広義に倫理的に見れば、我は日本人であるといふ真実の自覚を根柢とした国民精神であつて、又之を狭義に宗教的に見れば、神道とは日本の神祇に対する伝統的信仰である。それ故、皇祖皇宗の遺訓を命じられた教育勅語を以て神道と見ることも出来るし、敬神観念を基礎とした国民道徳を以て神道であるといふことも出来る」と述べた上で、「此の国民の理想であり信念であり道徳であるところの神道に対して、自分は常に「神道とは皇室を奉戴し、仁義を崇敬して、明浄正直の生活を営みつつ、日本民族永遠の生命を展開してゆく所の国民精神である」といふ定義を下してをる」。と記した。(三一ページ)

 このような「広義の神道」は戦後の「広義の国家神道」と重なりあっている。この概念の指すものの裾野をどこまで広く「神道」に含みこむかは確かに難しい問題だが、教育勅語の背後には天壌無窮の神勅を源泉とする神聖天皇への崇敬があることを理解すれば、これらの「広義の神道」概念はさほど現実離れしたものではないことが分かるだろう。それは、神聖天皇崇敬を先導しようとする人々にとっては「理想」や「希望」であったかもしれないが、同時に戦前の社会生活にある程度浸透していた精神文化でもあった。この点は拙著、『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房、2019年4月)で大きな流れを示している。

 

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。