アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて 25

この1年の激変と100年前の動き      

鎌田東二

 

 

EFGの前号(第24号、20195月)に「縁ある人の死」について書いた。その時、私と誕生日が同じ梅原猛さんと、1969年から半世紀50年間折に触れてともに活動してきた1歳年上の中島和秀君の死について書いた。その時から1年経って、世界は大きく変わった。

 

最近、家の中で、「大重潤一郎さんが死んだんだよなあ」と誰に向かってでもなくつぶやくことが何度かあり、ようやっと、大重さんが死去したという現実を受け入れるようにというのか、認めるというのか、そうなのだという現状を認識するようになった。たぶんこれは、Covid19 、つまり新型コロナウイルスのパンデミックによる日常生活の変化がもたらした結果の一つであるように思う。

 

コロナ禍の中で、非常事態宣言となり、外出自粛をすることが増えた。週に1‐2回は比叡山に登っており、東山修験道も636回を数えているが、しかし京都の街中に出ることも月1回ほどで、この前東京に行ったのは、328日に上智大学の死生学講座で無観客講演した時だから、かれこれ4ヶ月は上京もしていない。大阪にも行っていない。

 

生れてこの方、69年間、小さい時から放浪癖があり、お遍路さんのようなまねごとや旅をし、長じてはフィールドワークを称しつつ国内外の聖地巡りを重ねてきた。そうした生活が一変して、この4ヶ月間ほぼ京都市を出ることなく日々を過ごしている。

 

こんなことはかつてなかったことである。

 

おかげで、振り返りをする時間的余裕はたっぷりあった。そんなこともあり、大重さんのことを思い出したり、「ああ、こんな時によく電話がかかってきたんだよなあ」と思ったりすることが増えている。そこで、前記のつぶやき、「大重さんは死んだんだよなあ」という言葉がふと口に出るのに気づくようになったのだ。

 

722日は、その大重さんの5年目の命日であった。大重さんは、2015722日に亡くなったので、それから丸5年が経った。この丸5年で世の中は大きく変わった。その激変の感染拡大に伴う移動の減少。だが、このような激変は、歴史を振り返ってみれば、今回が初めてというわけではないだろう。

 

ちょうど、100年前の1920年(大正9年)の6月、後に世界救世教の教祖となる岡田茂吉は大本に入信した。岡田茂吉はなぜ100年前のこの時期に大本に入信したのか? そのことを最近よく考える。

 

そもそも、この大正9年、1920年とは、どのような年だったのか? その年の社会的な出来事をいくつか挙げてみる。

 

1月、国際連盟が発足し、新渡戸稲造が事務局次長となる。

2月、慶應義塾大学・早稲田大学が大学令により設立認可される。

3月、株価大暴落する。平塚らいてう・市川房江ら、新婦人協会を設立する。

4月、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学も大学令により設立認可される。

5月、日本で最初のメーデーが上野公園で開催される。

6月、マルクスの『資本論』が翻訳される。また、柳宗悦は論文「朝鮮の友に贈る書」を「改造」に発表し、「日本が不正であつたと思ふ時、日本に生れた一人として、茲に私はその罪を貴方がたに謝したく思ふ。私はひそかに神に向かつてその罪の許しを乞はないではゐられない」(『柳宗悦全集6巻』35頁、筑摩書房)と朝鮮総督府の政治的不正を謝罪し、その後同年12月に「朝鮮民族美術館」の設立趣意書を書き、翌大正10年(1920年)11日発行の『白樺』第12巻第1号に「『朝鮮民族美術館』の設立に就て」を発表した。

11月、ジュネーブで、第1回目の国際連盟の総会が開かれる。

12月、大杉栄・堺利彦らが日本社会主義同盟を結成する。

 

興味深いのは、この年の12月に、柳宗悦が「『朝鮮民族美術館』の設立に就て」の中に、次のように書いていることだ。

 

一国の人情を解さうとするなら、その芸術を訪ねるのが最もいゝと私は常に考えてゐる。日鮮の関係が迫ってきた今日、私はこの事を更に意識せざるを得ないでゐる。あの想ひに沈む美しい弥勒の像や、あの淋しげな線に流れてゐる高麗の磁器を見る者は、どうしてその民族に冷かでゐられよう。若しよくその芸術が理解せられたら、日本はいつも温い朝鮮の友となる事が出来るであらう。芸術はいつも国境を越え、心の差別を越える。(中略)

私は先づこゝに民俗芸術Fork Artとしての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於ても、私はこの美術館に於て、人々に朝鮮の美を伝えたい。さうしてそこに現はれる民族の人情を目前に呼び起したい。(中略)

私は種々考へた末その美術館を、東京ではなく京城の地に建てようと思ふ。特にその民族とその自然とに密接な関係を持つ朝鮮の作品は、永く朝鮮の人々の間に置かれねばならぬと思ふ。その地に生れ出たものは、その地に帰るのが自然であらう。(以下略)

ちょうど100年前に、柳宗悦が書いていた心を、100年後の今にも継承し、活かしたい。日韓交流も日中交流も最悪に近い状況にある中、未来を展望しクリエイトする日中韓台の東アジア文化連合の結成が望まれる。

 

その100年前、日本の社会で最もインパクトのある宗教運動を展開していたのが大本と国柱会の二つの団体であり、岡田茂吉はその大本に入信し、同年、宮沢賢治や石原莞爾は国柱会に入会している。私は7月発行の『三田文学』(慶應義塾大学刊)から「予言と言霊――出口王仁三郎と田中智学の言語革命」と題する連載を始めているが、その冒頭をつぎのように書き出した。

 

今からちょうど100年前の1920年(大正9年)110日、第一次世界大戦後の平和構築に向けて、国際連盟(League of Nations)が発足した。

その年、日本国内でもっとも活発な宗教活動を展開したのが出口王仁三郎(1871‐1948)の率いる大本と、田中智学(1861‐1939)の率いる国柱会の2つの新興宗教団体だった。大本は機関誌『神霊界』を拠点に「大正維新」運動を掲げ、国柱会は機関紙『天業民報』を拠点に「世界霊化」運動を展開し、著しく教勢を拡大した。お筆先と鎮魂帰神法や言霊学などの霊学を掲げての世の立て替え立て直しと法華経に基づく純正日蓮主義と日本国体論による世界統一の推進が両団体の推進力となった。

だが、前者は大正10212日と昭和10128日、新聞紙法違反と不敬罪や治安維持法違反で検挙され、徹底的な弾圧を受け、後者は日本国体論を掲げて国家権力と国家主義を支える一翼となった。

 

1920年は第一次世界大戦(1914‐1918年)が終わって、国際平和を協議し実現する国際機関として国際連盟が発足した年であり、パンデミックになっていたスペイン風邪がほぼ収束した年である。アメリカ合衆国に発生したにもかかわらず「スペイン風邪」と呼ばれることになったこの感染拡大は、第一次世界大戦が終わる1918年に第一波のパンデミックが起こり、1920年の収束までに世界中で約6億人の感染者、約2000万人から5000万人もの死者が出たとされている。

 

宮沢賢治(1896‐1933)は、このスペイン風邪が収束した1920年(大正9年)の末12月には国柱会に入会している。親友の保阪嘉内に宛てた手紙の中で宮沢賢治はこう書いている。「今度私は国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮上人の御物です。従つて今や私は田中智学先生のご命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」。

 

当時、国柱会では日刊紙『天業民報』が創刊されてまもない頃で、その勢いはスペイン風邪をもものともしない勇ましさであった。石原莞爾(1889‐1949)も同年、国柱会に入信しているのは歴史の偶然とはいえ、第一次世界大戦が終わり、スペイン風邪のパンデミックが起こった多死時代の危機感を共有した若者の社会変革への希求と行動であったといえる。

 

そんな頃、大本は機関誌『神霊界』(大正6年・191711日創刊)を拠点に「大正維新」運動を掲げ、国柱会は日刊紙『天業民報』(大正9年・1920年創刊)を拠点に「世界霊化」運動を展開し、著しく教勢を拡大したのである。

 

だが、大本は1921年(大正10年)212日と1935年(昭和10年)128日、新聞紙法違反と不敬罪や治安維持法違反で検挙され、徹底的な弾圧を受け、国柱会は日本国体論を掲げて国家権力と国家主義を支える一翼となった。

 

ところで、大本の開祖の出口なおが死去したのは、第一次世界大戦の終結直前である。ドイツと連合国との間に休戦協定が締結されるのが19181111日で、出口なおはその5日前の116日に亡くなっている。この1918年、すなわち大正7年旧暦315日付けの『大本神諭』277)で、出口なお(1837‐1918116日)は次のような「お筆先」を書いている。

 

<天の御先祖様が、この世には何うでも宜いといふやうな事に成りて居り、押し籠まれて居りた地の先祖が無いやうに成りて居りた故に、この世が闇雲に成りて了ふて現今の体裁、えらい事に成りたものであるぞよ。

この時代が来る事が、世の元からよく分りて居りて、日本の霊の本には、一輪の仕組がしてありて、よく解るやうに、変生男子の手で大国常立尊が書いたり、言葉とで、爰へ成りた折には改心を致して、身魂を磨きて居るやうに、今に知らして居るなれど、人民には解らん筈、守護神に解らんから、肉体に解らなんだが、何彼の時節が参りて来たから、御筆先通りに何も一度に成りて来て、一度に開く梅の花、遅く成りて居る丈一度に開けるから、何彼の事が天地から見せてあるから、開け出したら迅いぞよ。

天地の大神、元の活神は昼夜といふ事も無し、暑つい寒いといふ厭はないから、仕組通りに何彼の事が成りて来たから、一日増しに仕組みてある事が順に出現て来るぞよ。長う掛りて居りたら、何方の国も潰れて了ふから、九分九厘で悪の世の終末と成りて、二度目の世の立替を致して末代の事が決りて、従来の習慣制度を薩張変へて了ふから、申すやうに致さん身魂は為な為るやうに変さすぞよ。

向后で慢心と従来の遣方を一寸でも致した守護神に使はれて居りたら、規則通りにして了ふぞよ。天地の相違に何事も変りて了ふぞよ。為損ひの無いやうに皆致されよ。爰まで口と手とで知らしたらこれに落度はよもやあるまい。この上は各自に自己の心を自己が審査めて、此大本は善と悪との鑑が出るから、鑑を見て善い方へ写るやうに致さんと、悪い方へうつりたら、末代善い方へは上る事は出来ん規則が決るから、今の転換期に充分取違ひをさせんやうに………。(以下略)

 

大正6年(1917年)から『神霊界』誌に発表されたいわゆる「大本神諭」は、平仮名だけで記された出口なおの「筆先」を出口王仁三郎が漢字を充てて解釈し整えたものである。出口なお開祖の手をとおして下された「お筆先」は、出口王仁三郎による編集によって「神諭」とされたのである。大本においては、『筆先ー大本神諭』と『霊界物語』は二大経典として相互補完し合っている。

 

その出口なおの最後の神諭である大正7年旧315日付の「神諭277」には、11回も「二度目の世の立替」という言葉が出てくる。この言葉の初出は、明治31年(1898年)旧1130日付けの「神諭23」の「二度目の世の立替を致したら、艮の金神が現われて」である。その意味するところは、「第二の天の岩戸開き」であり、それは「改心=身魂磨き=霊主体従」を意味する。明治36年(1903年)旧101日の神諭(大正91月『神霊界』発表)中の「天岩戸開」のルビが「よのたてかへ」であるのもそのことを示す証拠である。『大本神諭』第3集(愛善世界社,51頁、155,明治36年旧101日)には、次のようにある。

 

<是迄の世の処世法(やりかた)は、飲めよ、騒げよ、此の世は喰ふか、飲むかの浮世であると申して、栄耀栄華の仕放題。嘘は此の世の宝と申して、アチラからコチラに向く間に剥(はげ)る如うな嘘や追従(ついしょう)の世でありたなれど、今度は変性男子が現れて、二度目の天岩戸開(よのたてかへ)を致すには、全然(さっぱり)世の経綸法(もちかた)を変て仕舞ふぞよ。此の世に出て居れた方の守護神も、狐神(ゐなり)の眷族も、此の世一切の真相(こと)が、調査審神(あらため)が致してあるから、気の毒でも太古(むかし)からの遣り方、世の経綸法の実状(こと)から、全然暴露(あらは)せるから、辛き御方あるなれど、是は時節が到来(まゐり)て来たのでるから、仕方は無いぞよ。>

 

大正10年(1921年)212日に起きた第一次大本事件後の同年10月から口述が始まった『霊界物語』には、「教祖の筆先の解説書であり、確言書であり、大神劇の脚本であります。この物語によらなければ、教祖の筆先の断片的(台詞書)のみにては、到底神界の御経綸と御意志は判るものでは無いのであります。」(『霊界物語』第12巻序文)と記されている。出口王仁三郎はそこで、「お筆先」は「太古の神々の活動を始め、現在未来の神界の活劇を、断片的に示した台詞書き」であり、神意を正しく解するために「緯役として神界の実地に触れ根拠ある点のみを選抜して神諭とした」と述べているのである。

 

また、『霊界物語』60巻の『三五神諭』では、ほとんどの「立替え立直し」という語は、「天之岩戸開き」に置き換えられている。この「二度目の世の立替(=第二の天の岩戸開き)」とは、<われよし(体主霊従)・つよいものがち(力主体霊)の世・弱肉強食の世界や生き方>を改めて、「万民和楽」で人々が喜び勇んで暮らせる「霊主体従(ひのもと)の世」に変えていくこととされる。

 

Covid19 のパンデミックが進行する中、私は故大重潤一郎監督のことを思い出しながら、100年前の柳宗悦や宮沢賢治や出口王仁三郎や田中智学や岡田茂吉のそれぞれの活動を振り返っている。そしてこの100年を串刺しにして見えてくるもの、それは、芸術と宗教の創造力とその新展開である。まだまだやらねばならんことがあるぜよ、大重はん! そんなつぶやきと雄叫びが口について出るのである。

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、京都大学こころの未来研究センター教授を経て、201641日より上智大学グリーフケア研究所特任教授、放送大学客員教授、京都大学名誉教授、NPO法人東京自由大学名誉理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)『世直しの思想』(春秋社)『世阿弥』(青土社)『日本人は死んだらどこへ行くのか』(PHP新書)など。鎌田東二オフィシャルサイト