ボケットに燕石を

5  寺山修司論③  二人の家

辻 信行

 

 

 

ホテルのビュッフェを埋め尽くす屈強な男たち。左ハンドルの英字ナンバープレートを付けた車が猛スピードで走り抜け、にぎやかな英会話の聞こえる中華料理店では、一人前のチャーハンがエベレストのように高くそびえ立つ。ぼくは半分食べたところで断念し、席を立った。

 

これが、現在の三沢である。敗戦直後にやって来た米軍が、この街をすっかり変えてしまった。そのことをよく知る当事者の一人に、寺山修司がいる。

 

寺山の父・八郎は召集令状によって出兵し、194592日、インドネシアのスラウェシ島でアメーバ赤痢によって戦病死。寺山の舞台作品に「父は満州で死にました」というセリフが多いのは、最後に父から受け取った手紙の消印が満州だったからだろう。当時9歳の寺山は、この年の夏、青森大空襲を母・ハツと命からがら潜り抜け、三沢駅前で父方の伯父が営む寺山食堂の2階に間借りした。敗戦を迎えると、母は米軍の三沢基地のベースキャンプで働くようになり、次第に米兵たちと親密な関係になってゆく。寺山はその様子をつぶさに見ていた。

 

寺山が13歳のとき、母は福岡の米軍基地へ出稼ぎに行った。「捨てられた」という気持ちを抱いた寺山だったが、それから時を経て早稲田大学入学後、ネフローゼで入院すると、心配した母が上京。それ以来、母は寺山にまとわりつくようになる。そのことがのちに九條映子との結婚生活の破たんを招き、仕事では母の一声で劇団を辞めさせられる団員もいた。

 

一緒に居て欲しいときにおらず、居て欲しくないときにいる母。

寺山にとって母は、生涯を通して愛憎半ばのアンビヴァレントな存在であり続けた。作品中では何度も母を殺し、若者には母親を捨てることを強く主張した。しかし実際には、母をとても大切にしていた。同じアパートに暮らし、劇団「天井桟敷」を立ち上げると、一階の喫茶室は母に任せた。

 

寺山のベストセラー『家出のすすめ』に感銘を受け実際に家出した青年が、天井桟敷を訪ねたものの、喫茶室に居座っているのが寺山の母だと分かると、失望して帰っていったというエピソードが存在するほどである。

 

つまり寺山は、精神的には生涯を通して母と二人の家に暮らしていた。寺山にとっての家とは、殺したくても殺せない母そのものだったのである。

         (三沢の寺山修司記念館からの眺め)


そんな寺山と親交のあった五木寛之もまた、少年期の家での記憶が生涯を貫いている。『五木寛之作品集』には、寺山が解説を寄せているが、ここで寺山は、五木の読者だという一人の学生との会話を紹介しながら、次のように語っている。

 

 

   だが、五木寛之にとっては、歴史も思い出も二次的なもののように思われた。それは「書くことによって組み立てられた」小説の中の経験でしかないからである。

   五木寛之には、もっと奥深いところで、思い出にも歴史にもならずに、どろどろとした胎児のまま、ついに生まれ出ることのなかった悪夢のような記憶があって、それを書くことによって修正しようとしてきたのではないだろうか。

   「たぶん」

   と私は言った。「朝鮮の子供時代に、五木寛之は忘れがたい傷を負ったのだと思うよ。書くことは、その過去を再編することであり、記憶を編集することであり、大酒を飲むのと同じくらいの酩酊を自身に要求することなのではないかな」と。

―寺山修司「解説」『五木寛之作品集24  魔女伝説』

 

 

寺山の言葉を念頭に、それから30年近く経って2002年に刊行された五木の回顧録『運命の足音』を読んでみよう。このなかで五木は、長年にわたってどうしても書くことのできない「事件」があったと明かした。それは1945年、五木が家族と共に朝鮮から引き揚げてくる最中に起こる。

突然、家に押し入ってきたソ連兵たちが、入浴中の五木の父に自動小銃を突きつけ、壁際に立たせる。助けを求めて逃げようとする12歳の五木を、父は「抵抗するんじゃない!」とかすれた声で制す。ソ連兵たちは、病気で寝ている母に近づいた。

 

 

それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。そのとき母が不意に激しく吐血しなかったなら、状況はさらに良くないことになっていただろう。

あのときの母の口からあふれでた血は、あれは一体、なんだったのだろうか。病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛み切った血だったのか。真っ赤な血だった。(中略)

やがてソ連兵がめぼしいものを根こそぎ持ち去って私と父親は母親を抱いて庭から居間に運んだ。母はひとことも言葉を発しなかった。私と父親をうっすらと半眼でみつめただけだった。

事件のあった日から母は何も口にしなくなった。まったくものも言わず父親がスプーンで粥をすすめても無言で目をそらすだけだった。やがて母は死んだ。

私と父親とは、母の死以後、ずっと共犯者として後ろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで、彼とはおたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。

―五木寛之『運命の足音』

 

 

朝鮮から引き揚げた後、五木は福岡県内を転々とし、行商などのアルバイトで生活を支える。そして高校卒業後、寺山より2年早く早稲田大学に入学する。寺山は教育学部の国文学科であったが、五木は第一文学部の露文学科であった。

 

ぼくはそのことが、どうも引っかかった。「なぜ五木さんは、自分の母親を殺したも同然のロシアの文学を専攻したのだろう?」

 

20161029日、東京自由大学と上智大学の共催で五木寛之講演会が開催された。終了後、本人と控室で話をする時間があった。

 

「ずっと前から、五木さんにお聞きしたいことがあったのです」とぼくは言う。

「なんでしょう?」と五木は応える。

「唐突で、とても失礼な質問になってしまいますが、お許しください。五木さんは、なぜ大学時代にロシア文学を専攻されたのですか?朝鮮から引き揚げていらした時のエピソードを拝読すると、とても不思議に思うのです」

「あぁ、それはね、話すと長くなるんですよ」

そう前置きし、五木は次のように語った。

 

「ロシアに対しては愛憎二筋でね。朝鮮から引き揚げてくる最中は、どうしてこんなに酷いことができるのかと、憎しみを募らせました。しかし彼らの文学や芸術は本当に素晴らしい。この矛盾を、解き明かしてみたいと思ったのです」

 

真実味のある言葉だった。それと同時に、自分だったらそう考えただろうか、という問いが浮かんだ。野暮な問いではあるが、そう思わずにいられなかった。

 

少年時代に母を失い、そのきっかけをもたらしたロシアの孕む矛盾を追いかける五木。

少年時代に母をアメリカに奪われ、やがて帰ってきた母に取りつかれ、そのことを創作の原動力にした寺山。

 

母をめぐる屈折した心情を抱える五木と寺山は、1975年の『状況』4月号で対談している。二人の家に対する考えが浮き彫りになったこの対談は、「「本工の論理」としての近代市民社会」と題されている。行間からは両者にみなぎる緊迫感が伝わってくる。寺山は対談をボクシングと考える節があり、リングをイメージして『対論 四角いジャングル』と名付けた対談集も出している(三島由紀夫との一戦が面白い)。

 

五木との対談でも、寺山は一歩も引かない。普段は温厚な五木も、「どういうことですか」「それはおかしい」といった言葉を連発し、応戦している。しかしこの対談は、単なる感情の応酬ではない。ここで議論されている問題は、40年以上経過した現在でも通用する。

 

まずタイトルにある「本工」とは、本採用の労働者のことを指す。この対義語にあたるのが「臨時工」である。現在なら「正社員」と「非正規社員」、もしくは「常勤」と「非常勤」に置き換えてみることができるだろう。

 

五木は対談の前半で、「本工」は農民のような定住民、「臨時工」はサンカのような流浪民の性格を持つと指摘する。その上で、「臨時工」を「本工」に編入させるだけでは弱者救済にならず、「臨時工」が「臨時工」として、つまりアウトローな存在がその存在そのままで権利を認められるべきだと論じる。

 

これに対し寺山は、「臨時工」が「本工」に組み込まれるのを防ぐ最上の方法は、「本工」という一語をなくしてしまうことだと言う。そして、定住民は放浪民にノスタルジアを感じ、放浪民は定住民に憧れるといった相容れないロマンスが社会的矛盾となるわけで、自分は「家出」について主張することで遊民化を推奨しており、これが世間で受け入れられた背景には、「家」の機能が消滅している実態があるからだと述べる。

 

寺山によれば、かつて「家」には教育的な機能や性的な機能があった。しかし教育的機能は学校が代行し、性的機能は連れ込み宿(ラブホテル)が代行している。そして「家」に残された唯一の機能が肉親的愛情の機能である。これは非常に根深い執着であるので、遊民になるにはここから解放されなければならない。そのためには夫婦が十年間一緒に生活したとか、親子が三十年一緒に暮らしたとかいった記憶から自由になる必要があると説く。

 

五木はこれに反論する。定住民である農家は、血縁よりも農耕を優先させる。また流浪民であるサンカも嵐の中を一緒に遊行したというような集団的な記憶があるので、必ずしも定住と記憶は一体ではないと。

 

すぐさま寺山は反論する。「家」は場所ではなく関係であり、物ではなく事件なのだと。一家そろって家出する映画『若者のすべて』のようなケースは家出とは言わず、江戸時代にみられた逃散など、部落ごと出て行くケースも家出ではない。だからジプシーは、社会的には「臨時工」として疎外されていても、集団からはみ出すことが許されないという悲劇があるので、永遠の家族なのだと。

 

このあとも議論は平行線をたどるが、寺山は「本工」も広義の「臨時工」の一種に過ぎないと言う。それが労働の本質なので、「本工」と「臨時工」という言葉を取っ払うためには、全部「臨時工」の側から見てゆく視点が重要であると主張する。これには五木も同意し、「臨時工」の側、つまり差別されている側がエネルギッシュに立ち上がる必要性を確認する。

 

ここで対談のトピックは身障者の差別問題に移る。寺山は、「めくら」や「おし」という言葉が使えなくなると非常に不便で、「せむし」や「びっこ」にも社会的役割があると言う。しかし現在では彼らは「身体障害者」というかたちで同情され遠ざけられる。つまり人間には「原型」があるということだ。そのような原型を定める「本工」の思想こそを問題にしなければならないと語る。

 

これには五木も同意する。そして寺山はさらに続ける。彼らは気の毒だからというので社会的に同情され、経済的には一定の保証を与えられながらも、精神的には差別され阻害されている。人間には本来的に「原型」などない。つまりあらゆる者は「臨時工」である。ハンサムな者はハンサムであるという理由によって区別されるべきで、背の低い者は草取りするのに便利であり、背の高い者は柿の実を取るのに都合がよい、というふうにあらゆる人間にパーソナリティ、役割を与えるべきであると。

 

続いて歌舞伎や天皇、標準語、世直しをめぐって「本工」と「臨時工」の視点から議論がなされ、最終的にセックスの問題に行きつく。

 

五木は言う。異性愛が「本工」に該当し、アウトサイダー的なものとして同性愛がある。しかし両性愛というのもあると。これに応じて寺山は、セックスを生産ということではなしに考えると、両性愛だけでなく、親子兄弟すべてよろしい、ということである。セックスは生産手段を離れ、一つの人間関係の手段であるべきで、しばしば娯楽であり、そして愛の行為でもある。そして寺山はオランダの新聞「サック」に掲載された漫画を紹介する。

 

 

親父が娘の部屋を覗くと娘が裸で眠っている。そこで親父はついムラムラとなってやり始める。そこへ野球をやっていた息子が帰ってくる。ホームランを打ったよ、パパ、と言いながら帰ってくると親父が娘とやっている。それを見てびっくりして台所へ行って、母親におかあさん、パパが……、と言うと母親が、そうよ、皆おとなになるとするのよ、と言って、息子のナニを吸ってやる。最後に一家四人正面を向いてニッコリと笑って、家庭は平和、とか言って終りになる(笑)。

―「「本工の論理」としての近代市民社会」

 

 

こうしてセックスの問題にいたるまで、同時代のあらゆる社会現象に「本工の論理」がはびこっていることを指摘したこの対談は終盤を迎える。「平和」と「民主主義」の限界性が露呈し始めた1975年にあって、だからと言って敗戦直後の昭和20年代のノスタルジックな政治運動を復活させては困ると五木は言い、寺山はこれに応じてノスタルジックな性も同じように困ると結ぶ。

 

両者が言いたいことを言っている割に、噛み合うところはしっかり噛み合っている対談である。言葉の端々に見え隠れするのが、少年時代を過ごした二人の家での記憶である。五木の朝鮮から引揚げた家族での記憶は、後に三角寛のサンカ研究に傾倒し、流浪民に惹かれることにつながったろうし、寺山の「家は場所ではなく関係」という発言には、自らと母親との関係が想定されていただろう。寺山がこの発言に続いて江戸時代の逃散を例にするあたりは、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎の名著『文明としてのイエ社会』を先取りしたような議論であって興味深い。また、五木が指摘した両性愛に加えて、更に古代的な近親相姦をも肯定する寺山の世界観には、『古事記』をはじめとする古今東西の神話的構造がしっかり組み込まれていることを感じさせる。

 

今日、非正規雇用は増加し、過労自殺は隠ぺいされ、障がい者は感動ポルノとして消費され、LGBTをめぐる理解は十分に進んでいない。まるでこの状況を予見していたかのように、二人の家をめぐる議論は多数派の論理の限界性を射抜き、少数派から世界を眼差すことの豊かさを教えているのである。

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学をふまえ、離島でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」など。