ゆっくり30年、じっくり30年
小笠原高志
映像歳時記「鳥居をくぐり抜けて風」は、2016年10月にユジク阿佐ヶ谷で一ヶ月間上映されました。周囲の予想を裏切り、日増しに客足が伸び、
2017年3月4日から4月7日迄、同館で再上映となりました。19:30からの一時間。上映後のロビーは、日本酒とブルゴーニュワインが一杯300円のbarになります。(金土日曜のみ。お茶無料。)
この映画はDVDにはしません。また、パンフレットも作りません。 しかし、上映後に、可能なかぎり直接お客さんと製作者が言葉を交わせる場を作っていきます。目標は、一世代、30年間、同館で上映を続けることです。今20歳の青年が50歳の父親になった時、20歳の娘とこの映画について語り合えたなら喜びます。ユジク阿佐ヶ谷という映画館が、父と娘の故郷になることを願います。
2017年1月13日。鎌田東二ゼミの冒頭は「聖地は詩である」から始まりました。1月20日。二回目の最後は、寺山修司監督作品「田園に死す 」の前半を観た後、「聖地は詩であり、夢であり、宇宙ステーションである」で締めました。夢は、見ようと思って見られるものではありません。詩は、書こうと思って書けるものではありません。夢は、見てしまうもの、詩は、書かされてしまうものでしょう。鎌田先生のお話は、私がなぜ、聖地巡礼映画を作ったのかについて、その起点を呼び覚ましてくださいました。
1984年4月14日。大学五年生の私は、四年で就職した友人と、高円寺会館で行なわれる「詩の朗読とパフォーマンス」に向かっていました。就職した友人は、卒業できなかった私を気づかい、ピンク色の靴下を買ってくれ、早速それに履き替えました。生まれて初めてのピンクの靴下です。足元から桜が咲いてくるような、晴 れやかな心 持ちになりました。会は、谷山浩子の歌「春のそり」から始まって、鈴木志郎康が詩人を撮った8mm上映、ねじめ正一のロック音楽をバックにした朗読、藤井貞一のメビウスの帯に詩を書いた止むことのない朗読、清水哲男のジャイアンツ談義、正津勉の「港のマミー」、吉増剛造の「熱風」、そして、最後は谷川俊太郎が落ち着いた明るい朗読で締めました。そうそう、当時あこがれていた二歳年下の白石公子は「海とのつなひき」を少しはにかみをみせながらもはっきりと朗読。何度も視線が合ったのだけれど、声をかけられませんでした。
会終了後、「大万」という居酒屋で、1100円で打ち上げに参加できるというので、友人と二人、恐る恐るわくわくしながら、参加させていただきました。「現代詩 手帖」に詩を寄せている詩人たちが、酒を飲んだり、つま みを食べたり、吉増さんは「僕も、今年から多摩美術大学で教えることになりました」などと語っています。
僕は喜び、気持ちよく酔い酔い過ぎ、魂が裸の状態になっていたので、谷川俊太郎さんたちの前で、自作の詩を朗読しました。当時、小春という女の子に恋していたので、
「こはるはるはるこはるはる こはるがこはる りゅりゅりゅりゅりゅ こはるにこいするわたしはにぼし こはるにこいするわたしはいわし いわしてもらえばわたしはたわし こいするわたしのなはたかし」
女性たちからは、カワイーと言われ、ますます図に乗った私は、憧れの無頼詩人正津勉の隣に座るや、「最近の青年はピンクの靴下を履くのか」「正津さんの靴下、踵、擦り切れていますね」「その 靴下、いいなあ」 「じゃあ、交換しましょう」「僕の、臭いよ」「大丈夫です」「こんなの履いたら、おねえちゃんに叱られるなぁ」。これ以来、正津勉とは現在も師弟関係にあります。その教えは、「美に接近せよ。やる方向で考えよ」ですが、シンプルゆえに、実行には困難を伴う教えです。
2016年10月、ユジク阿佐ヶ谷で、映像歳時記「鳥居をくぐり抜けて風」が上映されました。谷川俊太郎さんからは、「間然するところのない秀作です」。吉増剛造さんからは、「今日はとても佳い映画に接しまして、望外の倖せでした」と、お手紙をいただきました。正津勉さんは、私も参加している蛮愚句会のメンバーと映画館吟行をして下さり、清水哲男さんは、ファンの女性たちに囲まれて、上映後の句会では「 しろがねの月打ち上げる火の粉かな」を詠み、最高点でした。
30年以上も前に憧れていた四人の詩人が、私の映画を観てくださり、ありがたいお言葉をたまわりました。
ささやかながら詩について関心を持ち続けていたことが、ゆっくり、じっくり、映画のなかに胚胎していたのかもしれません。
この映画は、イギリス人の父と日本人の母を持つニューヨーク育ちの12歳の女の子が、熊野に住む祖父と、初めて日本の神社を旅する映画です。旅の中で、おじいちゃんは、南方熊楠のことをこう語ります。
「熊楠さんは、携帯用の顕微鏡を持って熊野の森の中に入っていったんだ。そこで、粘菌類をたくさん発見した。目に見えない大切なはたらきをするのが神さまの仕事なら、動物と植物をつなぐはたらきをしている粘菌は、神さまなんじゃないか。熊楠は、鎮守の杜の中にたくさん存在している粘菌という神さまをみつけに、森の中に入っていったんだよ。」
おじいちゃんに連れられて、少女は、鎮守の杜の奥へ入っていきます。
鎌田先生は、聖地は詩であるとおっしゃいました。
また、聖地は夢であるとおっしゃいました。
宇宙ステーションとも。
熊楠が顕微鏡で覗いた鎮守の杜の中の粘菌の動きも、その一つに思われてきます。