境界をめぐる冒険
Ⅸ 喜界島トリニティ② 青年を孕む海

辻 信行

 


 
その夜、喜界島は天地が逆さになるような強い揺れに襲われた。1911年6月15日23時26分。喜界島南方の近海を震源とするM 8.0の地震が発生したのだ。震度7程度の揺れに襲われ、最大10m規模の津波が到来。多数の家屋が損壊したが、この地震と津波の犠牲になったのは1人(他島も合わせると12人)だった。この地震は、南西諸島を震源とする地震として、有史以来最大級とされている。

それから84年後の1995年。阪神・淡路の記憶も新しい10月18日、1911年の地震と近いところを震源とするM 6.9の地震があり、喜界島で3mの津波を観測している。斜面や石垣が崩壊する被害が出たものの、幸い犠牲者は一人もなかった。喜界島近海を震源とする大地震の周期はいまなお不明だが、島の海岸段丘には過去7000年間に4回の突発的な隆起が記録されており、周期的に大地震が起こることは確かなようだ。

地震と津波の脅威をよく知る喜界島の人々は、島の伊実久海岸にある漁船が漂着したときも、不思議に思わなかったことだろう。2012年5月2日、長さ5メートル、幅1メートル、海藻が付着し劣化が激しい一艘の漁船がひっくり返って漂着した。登録番号から、所有者は気仙沼市に住む64歳の男性であることが分かった。東日本大震災の津波により気仙沼から流された漁船が黒潮に乗って南下し、はるか1,600km離れた喜界島に漂着したのだ。3.11の津波では島の養殖にも被害が出ている。紺青の東北の海とコバルトブルーの喜界島の海は、密接につながっているのだ。

3.11から一年が経過した夏、ぼくは気仙沼の地福寺を訪れた。寺の納骨堂を参拝したとき、背筋が凍りついた。今回の大津波で亡くなった人々のお骨と遺影の上段から、軍服姿の青年たちの遺影が凛々しい顔でこちらを見つめている。20歳前後で戦火に散った彼らの眠る大海原に、3.11の大津波で流された彼らの元同級生・友人・恋人・家族・子孫たちも沈潜していったのだ。太平洋の海底で戦争と震災の死者たちが邂逅するイメージが、クリアな像を結んでゆく。

被災地を訪ねたあと、ぼくは喜界島のお盆のフィールドワークに向かった。盆の中日、先内集落に住む90歳になるおばあさん、Nさんの自宅を訪ねた。

Nさんはお盆の時期に島でよく食べる型菓子やハサームッチー(葉で包んだヨモギ餅。黒糖の味が効いておいしい)などをふるまいながら話をしてくれた。少し耳が遠く、記憶もおぼろげで、話の辻褄が合わないこともある。しかし声は大きく、滑舌もはっきりしており、言葉の一つ一つに重みがある。

「盆は嬉しや 別れた人が 晴れてこの世に会いに来る」
開口一番、Nさんはそう言った。大好きな盆踊りの歌の一節なのだと言う。
 
「私は8歳の時、父と別れました。42歳のとき、母は死にました。死んだ人は天国に行くと信じています。天国はその人その人の考えによって、いつも心の中にあるのです」。そう言うNさんの首はいつも小刻みに揺れ続け、瞳はどこか遠くを見つめている。Nさんはご主人も先に亡くしているはずだ。そのことを尋ねると、戦争の話を始めた。

「戦争の時はまず沖縄に行って、それから東京に集団疎開しました。平塚にも行きました。昭和20年のことだったと思います。終戦になっても、すぐには帰ってこられませんでした。宇品(広島)の収容所に一カ月ぐらい滞在。そこではナンコ(薩摩拳)をやって過ごしました。そのあと奄美の名瀬で数泊。ようやく喜界島へ帰ってきたら、あたり一面焼け野原でした。帰ってきた翌年に結婚しました。島で生き残った人同士で結婚したのです。見合いもなにもありませんでした」

Nさんの顔には「諦念」のような表情は浮かばない。もうそんな感情はとっくの昔に置いてきたというように、淡々と微笑んでいる。喜界島が焼け野原になるほどの空襲を受けたのには理由があった。ここには特攻隊の中継基地が置かれたのだ。鹿児島の知覧を飛び立った特攻隊は一度喜界島に立ち寄り、夜明け前、ここから南の海へと出撃した。そのとき島の娘たちは、特攻隊の青年に花を贈った。テンニンギク。橙と朱の鮮やかな多弁花で、喜界島に咲く野花だ。いつしか人々は「特攻花」と呼ぶようになった。喜界空港近くの群生地にはいまでも特攻花を説明する看板が立ち、その由縁を伝えている。

 
現在の喜界空港は、特攻隊の基地跡付近に開港した。いまこの空港には自衛隊機も離着陸する。喜界島には自衛隊の通信基地があり、国内有数の「象の檻」と呼ばれる高性能レーダーが設置されているのだ。自衛隊の存在が島の財政を支えているのを知るにつれ、ぼくは複雑な気持ちを抱くようになった。

気分が晴れないとき、ぼくは百之台へのぼり、海岸の向こうに広がる海を見つめる。
戦争に散った人々の眠る海。
津波にのみ込まれた人々のいった海。

 

 
映画『神々の深き欲望』の原作者である小説家の安達征一郎は、幼少期を喜界島で過ごした。安達には、「鱶に曳きずられて沖へ」(※)という短編小説がある。 喜界島の糸満漁師たちとの交流によって生まれた『憎しみの海』のなかの一篇だ。物語は、ある兄弟が一つのわだかまりを抱えながら漁に出たところ、兄が題名のごとく鱶(ふか・サメ)に曳きずられて沖へ連れ去られてしまうという話だ。この作品を満たす緊迫感、克明な筆致、何一つ足し引きできないプロットは見事である。

青年は鱶によって命を奪われた。そして、海は青年を孕んだのだ。人間の主観では「奪われた」となっても、それを俯瞰してみると海が人間を「孕み」、新たな生命を育んでいることになるのではないだろうか。

Nさんと会った翌日、ぼくは喜界島の漁師Kさんにインタビューした。雲一つない空、涼やかに吹き渡る風。漁業組合の事務所が建つ岸壁近くのベンチに腰かけて、69歳のKさんの話を聞く。

「喜界島でよく獲れるのは、アオマツ・ハマダイ・ホタ・イナゴ・チビキ・サワラ。いまはサワラの季節。たび(本土)のサワラは小さいが、ここのサワラは大きい」

そう言うとKさんは両手を1mぐらいに大きく広げ、嬉しそうに口元を綻ばせる。
「サワラは、かなり北の方で獲れる。漁船で3時間ぐらい行ったところ。深夜1~2時 ぐらいに、北東に向けて出港する。漁場にいるのは奄美大島とだいたい同じ魚。アラやハタの仲間が良く獲れるが、ハタの種類が大島とちょっと違う。ブダイあたりも色が違う。潮の流れによって獲れる場所は変わる。今日東で獲れたなら、明日は西。俺はレーダーを使わない。連絡のときだけ」

お盆の時は、漁に出ますか?
「盆の16日は漁に出ない。海のお盆。亡くなった方のための日。旧正月の2日も出ない」

漁師の喪について教えてください。
「船が遭難にあった場合、2~3日はほとんど捜索にあたる。4日目以降は、普通に漁に出る。親しい人たちは捜索を続ける。不幸があったら、一週間ぐらいは漁を休んで喪に服す」

漁師の人たちは何か信仰を持っていますか?決まった神社を参拝するとか。
「詳しくは知らない。もっと年上の人じゃないと分からない。だけど金毘羅神社に集まって参拝することはある。昔はフェリーの船員と一緒に参拝したこともある」
 
もっと年上の人とは、サバニと呼ばれる刳船で、追い込み漁をやっていた世代のことだ。彼らはヒョーミガナシという海神を崇拝し、竃の後ろに祭壇を設けて祀っていたと喜界島の古い民俗誌には記録されている。現在の70代の漁師が、その最後の世代だという。彼らが10代の頃、サバニによる漁をギリギリ経験している。いまでもスズメダイやクロブダイを獲るときは追い込み漁をするというが、サバニに乗ってやることはない。
 
漁には何人で出るのですか?
「一人で出る。小さな漁船だから、2mの波は恐い。波が高い日は、漁には出ない。釣れない時は全く釣れない。今日は一本だけ。9kgのサワラ。昨日釣れた人は、十数本釣れたらしいけどね」

少し悔しそうにKさんはニヤリとする。ポーカーフェイスのKさんは多くを語ろうとしない。しかし喜界島の海で獲れる魚の話になると、心なし饒舌になった。

言うまでもなく、海は災いと同時に恵みをもたらす。
たとえば、津波のあとに豊漁になるというのは漁師の間では常識のようだ。津波は引き潮によって、陸地に存在するあらゆる養分を海中に取り込み、海は再び活性化する。しかし、3.11では状況が異なる。原発事故の影響が大きな影を落としているのだ。

そもそも渚を破壊してコンクリートで固め、原発を建てることは、人間が境界をめぐる世界観を失ったことを意味しているのではないか。渚は、両義性を抱えた海と、人間が住む陸との接点として、古来神聖な場所とみなされてきた。そこは高潮や津波をかぶる危険な場所であると同時に、海の向こうの他界から、あらゆる恵みがもたらされる豊かな場所と考えられてきたのだ。

たとえば「寄りもの」という言葉が知られている。
渚に打ち寄せられた魚介類や海藻、材木の総称だ。なかでもヤシの実やクジラ、ジュゴンは珍重され、他界からもたらされる最上級の贈与として受け取られた。贈与は物質に限らない。生命も同様だ。そのため、人々は産小屋を渚に建て、赤ん坊を他界から迎え入れた。そして死者の着物洗いや洗骨など、亡くなった人の魂を送るのもまた、渚である。ここは、この世とあの世の境界なのである。

では現在の喜界島で、境界をめぐる世界観はどうなっているのだろうか。人々はいまでも、古来の世界観をどこかに残しているのだろうか。その疑問を解くために、ぼくはこの島で本格的な調査に乗り出すことにした。

 

<つづく>

 

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※付録:安達征一郎「鱶に曳きずられて沖へ」

 

それは夜明け前のことであった。兄は船(くりぶね)から乗り出してガラス玉のウキを引き寄せていた。青みがかったウキが静かな海面に波紋をおしひろげながら近づいてくると、そのかげにかくれていた小エビが驚いてノミのように飛び散った。弟は艫(とも)にすわって静かに櫂をうごかしていた。

 

「あんちゃんは、ゆうべリエを連れてどこへ行ったんだ」と弟がきいた。

「おまえ、見ていたんか」と兄が言った。

「おいは盆踊りがはじまるずっと前から見ていたよ」

「岬の原っぱへ行ったんだ」

「嘘だ……パイナップル畑をぬけて、木麻黄の防潮林を左へ曲って、製糖工場の小屋へはいっていったじゃないか」

「へえ……おまえ、つけていたんか」

「小屋のなかでリエに何をしたんだ」

「笑わせるない、朝っぱらから」

 

兄は七本目のロープを右手で手繰り寄せながら、左手の指と肱のあいだへ輪型に巻き取っていった。ロープからしたたり落ちた冷たい雫が、彼の裸の腕をつたわって黒いふさふさした腋毛を濡らした。

「チエッ、こいつにもかかっとらん」と兄は舌うちした。

弟ははげしく櫂をうごかした。兄は首を振っていった。

「おいおい、どっちへ舟をやろうってんだ」

「……」

「あれっ、おまえ泣いてるな。なにが勘にさわったんだい」

「ううん……いいんだ」

「どうしたんだい、ええ、おまえは泣いてるじゃないか」

 

近くでボラが二匹、銀鱗を閃かせて空へ躍った。兄はから針のロープを半ば巻き終ろうとしていた。そのとき、物凄い衝撃がロープへきた。一瞬ロープがグ、グッと海中へ曳きずりこまれていった。腕のロープは海中へ曳きずりこまれるだけ曳かれると、今度は二の腕の筋肉にくいこんだ。

 

兄は船底のぬるぬるした水苔に足を滑らせて一瞬俯せに倒れた。彼の裸の上半身は刳舟のせまい隙間にはまりこんで、まったく身うごきもできなかった。腕は二つとも舳先の前方へいっぱいに伸びきって、刳舟の外へ突き出ていた。

大鱶が突然喰いついたのだ!

ロープは鉄線のようにぴいーんと張った。ロープは腕に十重二十重にからみつき、筋肉に食いこんだ。緊(し)めこみがきくだけ緊めこんでいく。

 

鱶が浮きあがってきた。水が割れて、黒い背鰭と尾鰭がカッキリ姿をあらわした。つぎの瞬間ぐらりと半廻転した。一瞬ロープにたるみができた。鱶はそのままぐいぐいと前方へ凶暴なさまで突っ走っていく。ロープがふたたびぴいんと張った。ロープは唸りを生じて水を断ち切った。刳舟は波しぶきを飛ばして突っ走っている。

 

事はそれだけではなかった。鱶は前方へばかり進むのではない。目まぐるしく方向を変える。――刳舟の舳先には寝かした帆柱のさきが一尺ほど突き出ている。それと平行に、彼の伸びた左腕は、その右脇にはまりこんで、なお帆柱の先へ突き出ている。鱶が急角度でグ、グウっと左へ向きを変えた。直に強張(こわば)っていた彼の腕は、ぴったりとそこに止まって、もう少しも左へは反らない。鱶がグウッと左へ突進――また突進――左へ左へとロープを曳きずっていく。凶暴な鱶の暴力。そのたびに刳舟の舳先が横っ飛びにスリップした。彼の腕は、舳先の横で、強張って、逆にねじれて、ねじれるだけねじれて、血の気もなく真っ白になっていたが―― 一瞬グウッときた――堪ったものではない――腕はたわいなく折れてしまった――枯木が折れるようにポキッと。折れた部分は腕なし男の洋服の袖のようにぶらんと垂れさがった。折れた腕は、極度に緊縛したロープが触れるたびに、上へ下へ右へ左へとぶんまわしのようにはね廻った。

 

 

――弟は櫂を空へほうり上げて兄の方へ走っていった。かつて見たこともないような大鱶だと思った。こういう奴は半時間も舟を曳かせておけば弱ることは分っていたが、しかし兄の体を曳かしておくわけにはいかない。まず兄の腕からロープをはずしてやることだ。彼はとっさにロープに手をかけた。忽ちはじき飛ばされてしまった。

――大鱶は黒々とした背中をみせて一直線に突っ走っていった。恐ろしい力、速さ!

――兄の体は脂汗にまみれて次第にその色を変えていった。口と鼻から、絶えず黄いろい胃液と鼻血が流れだした。顔は忽ちその汚物にまみれた。

兄は右手をうち振ってかすれた声で叫んだ。

「カズオ……カズオ……カズオ」

 

弟はもう半ば泣きだして一瞬声のするほうを見た……兄は右手に何かを握りしめてうち振っている。弟ははじめ俸っきれかと思った。が、それはひきちぎれた左手だった。兄は折れた右手をもぎ取ってしっかり握っているのだ。まだ完全に離れていない折れ口は、皮や筋でつながっていた。

 

彼は無意識のうちに、苦しさに耐えきれず、何かにすがりつこうとして、ひきち切ったのであろう。その断ち切られた左手は、固く五本の指を握りしめていた。

「カズオ、肩がはずれるよう、肩がはずれるよう、ミシミシいってんのが、聞こえんかよう……うーん……うーん……うーん……」

兄はこんどははっきりそう言った。

「よし、よし、分かっている、いま行くからな、いま行くからな」

弟はそう答えた。

 

彼はわめくような大声で叫んだつもりだけれど、声にはなっていない。頭の中では救助の手をさしのべているつもりだけれど、実際は何一つしていない。

刳舟は大鱶に曳きずられて凄まじい勢いで突進していく。

「ぶち切ってくれ」と兄が叫んだ。

兄は血のりにまみれたひきちぎれた手を、相変わらずうち振っていた。

ぶち切る!そうだ、ぶち切ってやるんだ、弟は暗示にかかったように呟いた。兄を助けるにはそれしかない、なぜ早く気づかなかったのだろう、ぶち切って、鱶から兄を離してやるんだ。

 

弟は斧を手にした。振りあげた。しかし打ち下ろす場所に迷った。彼はそれを考えていなかったのだ。彼はロープの絡みついた左腕のつけ根へ打ち下ろそうとしていたのだ。緊縛したロープが彼の眼を射た。ロープを切ればいいと彼は考えた。彼は左手で舟べりをつかんで中腰に立ち、高く高く斧を振りあげた。下ろす。はずれた。斧は左腕の傷口へ斬りこんで肉片をはじき飛ばした。

 

「兄は唸っているな」と弟は頬にくっついた肉片をこすり落しながら考えた。「兄の腕に叩きこむなんて俺はなんちゅうのろまだろう。今度こそロープを一と断ち」

再度打ち下ろした。刳舟がローリングした。斧は手からすべって海中へ落ちた。それは哀しい絶望の水音だった。……彼はふいに兄の背中に薄紫色の大きな斑点を認めた。兄の肩がはずれようとしている。彼はひどく狼狽した。

――鱶は些かもその力をゆるめようとはしなかった。

 

弟は焦りだした。どうしたらいいのか何一つ考え浮かばなかった。今では兄の肩がもげ落ちるか、鱶が力を失うまで待つほかないように思われた。だが、兄はその苦悶の叫びを止めようとはしなかった。無策の弟を責めるような苦悶の叫びを……。兄の悲鳴は弟の魂を無限に悲しませた。弟はもう兄に劣らず泣き出していた。彼は涙のいっぱい溜った瞳をあたりへ放って、救けを求めるように見廻したが、まわりには黎明のうす青色の空と海が見えるばかりで人影一つなかった、彼は耳をおおって海のうえへ走り出してしまいたかった。

 

兄がわずかに腰をあげた。ああ、兄は起きようとしている、そうだ、兄は起きようとしているんだ。弟は手をかしてやりたいと思った。彼は兄の体の下へ両手をさしこんでぐっと力をこめて上へ持ちあげた。力があまった。その反動で、――あるいは鱶の急な引きのためか――刳舟が激しくローリングした。刳舟は右に傾きながらあっという間に転覆してしまった。彼は水中で兄の体をつかまえようとした。だが指先が触れた瞬間兄の体は弟の指のあいだからつるりとまるで鰻のようにのがれていった。彼は気も動転してとっさに左手をのばし、ついでに右手をつきだしたが、五本の指はいたずらに水を掴んだだけであった。彼は顔をあげた。

 

――兄の二つの足を……鱶に曳きずられていく兄の足のうらを波間に見たように思った。それは畑の中の折れた二本の大根のようにくっきりと鮮やかに見えた。兄は水雷のような白い航跡をひきながら一直線に沖へ曳かれていった。

 

「あんちゃん!」と弟はそれを眼で追いながらかん高い声で叫んだ。「おいはあんちゃんを助けようとしたんだよ。あんまり、力が……力がはいりすぎて、二人の体がゴムマリみたいに跳ね飛んだけど……さ――おいが、リエのことであんちゃんを恨んで――そいであんちゃんをほうり出したなんて思わんでくりよなあ……それ分ってくりよなあ、あんちゃん……」

 


 
 
辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。