死のためのエチュード
田 園
た しか、幼稚園を卒業したかしていないかのときだった。人間は死ぬということが分かった。知り合いの人が死んだからではない。ただ概念上、死ということがな んとなくわかったような気がしたのだ。以来、死が気になるようになった。人間に限らず、動物、植物、無機物、惑星、恒星、銀河…あらゆるものが最後は死ん で、消えてしまうことに少しずつ気づいた。
だ から、子供時代の趣味の一つは、伝記を読むことだった。なぜなら、主人公がみんな死ぬからだ。伝記を読むのはいい。「大切」な部分は全部スッ飛ばし、その 人の死だけをじっくりと読む。病気の告知から死ぬまで、ドラマチックなことが満載で、ドキドキハラハラさせられる。特に印象的なのは、とても頑張る現代人
の死だ。伝記の主人公のほとんどは、いわゆる「できる人」だ。そういう偉人の死は劇的だ。
例えば、末期がんにも関わらず、無理矢理公務員(官僚?)の仕事を続けていたAさん。その最期は卒倒し、間髪入れずにあの世へ旅立った。腹腔を開けると内臓はすでに溶け、豆腐のようになってしまっていた。あるいは研究の仕事に自分の全精力を注ぎこみ、出張先で脳卒中になり急死したBさん。同僚がホテルの部屋に入ると、Bさんは怒ったような表情で、目を大きく見開き、歯を食いしばり、全身を「へ」の字にしたまま硬直していたという。自分の死をいつまでも受け入れられないCさんは、いくら治らないと告知されても、あきらめ切れずに病と戦った。さまざまな代替医療や宗教などに投身したあげく、大変切なく、苦しく、果たせぬ願いを持ちながら逝ってしまった。
さらに現代の大偉人は、なかなか死なせてもらえない。いろいろなチューブを挿入され、延命治療を受けることになる。電気ショックや人工呼吸器などの荒技で、 無理やり生命を繋ぎとめられる。内臓に甚大なダメージを受け続けるが、それでも死なせてもらえない。有名人だけではない。親族によって死なせてもらえない 普通の人もたくさんいる。
小さい頃の自分は、死をとても怖がっていた(いまでも怖がっているが)。「あんなに優秀な人でも、死ぬときは大変なんだな」と思ったりしていた。近ごろのド ラマや小説などで見かける死も、やはり「残念」、「失敗」、「負け」、「切ない」、「苦しい」、「悲しい」などの言葉とセットで表現され、消極的なイメー
ジが強い。とりあえず死は大変なこと、恐らくそれは人生の中で最も大変なことだから、やはり死にたくないとみんな思うだろう。だから死を日常生活から隠そ うとする傾向がよくみられる(動物の「死骸」を、「肉」という食べ物として扱うように)。
うちの両親は特にその傾向が強い。親族が癌になったり亡くなったりした時、私には懸命に隠し、葬式もこっそりと終わらせた。実はバレバレだったが、それをす ることで、親はラクだったようだ。両親は、「子どもにショックを与えないように」と言うが、それは言い訳に聞こえる。おそらく、自分自身の迷い、動揺、悲
しみなどを子どもに見せたくないのだろう。あるいは、自分自身でもよくわからない死のことを、どのように子どもに説明すればいいのかわからないのだろう。 とりあえず、うちの両親はよく逃げている。そう言えば、「性」のこともそうだった。小学生の時、父に「なんで男と女は一緒に寝たら子どもができるの?」と 質問したら、父は顔を真っ赤にして黙っていた(笑)。
話を元に戻そう。死について親が教えてくれなかったので、私は自分で色々と調べはじめた。すると面白いことが分かった。昔の人の方が、今の人よりずっと上手に死んだようなのだ。あっさりと、楽に、上品に死を迎える人が多かった。
昔は死亡率が高かったため、死に接する機会が現代人よりずっと多かった。医療技術もいまと比べようもなく、難病にかかったら死ぬしかない。もちろん最初は抵 抗するが、仕方ないからそのうちあきらめる。生活そのものも苦しいし、早めに死ぬことは自分も家族も自由になることかもしれない。しかも信仰の篤い人は、
幸せな来生を期待できる。だから無理に頑張って生き延びるより、すんなり死を受け入れるほうがラクなのだ。どっちみち、最後はみんな死ななければならない し。
最近、日本におけるホスピスの第一人者、柏木哲夫さんの本を読んでいる。印象的なのは、人生のなかで挫折してきた人のほうが、上手に自分の死を受け入れ、穏 やかに最期を迎えられるということだ。柏木さんは、人生の挫折・喪失体験を「小さな死」と呼んでいる。「庶民は『小さな死』という体験をうまく乗り越えて
きた人たちなのである。本当に大変な『自分の死』を迎える時になっても、『喪失体験をうまく乗り越える』練習が積まれているので、割に上手になくなること ができるのではないか」。一方、順調にエリートコースを歩んできて、「小さな死」を経験しなかった人は、いきなり死をまえにすると、とても大変なことにな るそうだ[柏木哲夫(2006)『人生の実力』幻冬社,40]。
なるほど、人生はやはり公平だなと思った。誰も死にたくないのに、誰でも死ななければならない。つまり誰でも、挫折しなければならない。少しずつ自分の無 力さを受け入れ、あきらめていくか、それとも調子に乗って、最後にドーンとまとめて挫折するか。それなら、日常の挫折を死のためのエチュードにするほう
を、私は選びたい。いわゆる成功している人のほうが、苦しんで死んでいく。まるで人生の中で失った挫折感を補完されるように。私が読んだ伝記の主人公は、 ほとんど成功している人、できる人、頑張る人だったから、壮絶な死を遂げるのも当然だろう。
私は凡人だから、死ぬことがよくわからない。わからないからこそ、怖がる。ゴキブリとか青虫を見て、「ギャーーーー!!!!」と叫んで、泣きながら逃げる女 の子がよくいるが、私もある意味それと同じだ。しかし虫が怖いと女の子は言うが、それは必ずしも虫が危険というわけではない。少なくとも、虫を見ただけで
は死なない。一方、女の子に「ギャーーーー!!!!」と叫ばれて、そのまま昇天してしまった虫たちは、たくさんいる。
危険性から考えれば、女の子を見た虫のほうが泣きながら逃げるのが合理的である。客観的にみて、虫は怖くない。怖いのは、虫に対する女の子の恐怖心そのものだ。それさえ乗り越えれば、怖がっていた女の子でも虫たちを受け入れ、仲良くなれるのだ。
以上のように、私は幼稚園児以来、ずっと死について考えてきた。もちろん結論はまだ出ていない。死ぬまで出ないのではないかと思う。死とは、大変苦しいこと だと思っているが、その苦しみを緩和する方向性が少しわかってきたような気がする。挫折すること、あきらめること。自分がちっぽけで、無力な人間であるこ
とに気付くこと。そして、死そのものではなく、自分の中にある、死に対する余計な恐怖心に気づき、少しずつ慣れていくこと。虫を怖がる子供に、少しずつ一 緒に遊ばせるのと同じ感覚で。最後、あの世に対する不安(ホスピスでは「スピリチュアルペイン」と呼ばれる)は、やはり宗教、あるいはそれと似た世界観へ
の信仰に任せるしかない。いま、華人社会で流行っている仏教は、浄土教と密教が圧倒的に多い。密教はよくわからないが、浄土教は死に対する恐怖を乗り越え るのにとても適切な宗派だと思う。浄土教を信じ、極楽往生を願い、きちんと念仏を唱えれば、必ず極楽浄土に行けると約束しているのだから。浄土教はあの世
に対する不安を緩和してくれるだろう。実際、浄土教の修行者たちがいかにカッコよく死んだのかを紹介する小冊子(死体の写真付き)もたくさん出ている。そ れを見て、穏やかな死をイメージできた人は、たくさんいることだろう。
ちなみに柏木哲夫さんは敬虔なクリスチャンで、著書のなかではキリスト教を強く薦めているが、死ぬことを助けてくれるなら、選択肢は無限大にあるのではないかと思う。
田 園/でん えん
北京出身。畑に囲まれた田舎の寄宿制中学校、北京師範大学第二付属高校、北京映画学院大学卒。そして来日。中央大学大学院で修士号を取り、博士課程に在籍中。研究分野は宗教社会学だが、その業績はほぼなし。漫画家デビュー歴あり。黒い歴史満載。猛禽保護センター、出稼ぎ労働者の子供のための学校などでボランティアをしていた。中国赤十字社で救命技能認定証をとったが、期限切れている。今は念仏+論語+民間療法+市民農園に情熱を燃やしている。