境界をめぐる冒険
Ⅱ 渋谷の死者たち ~前半~

辻 信行

 

 

 

「あなたもここが、好きなんでしょう?」とおばさんは、ぼくに尋ねる。
「ええ、まあどちらかと言うと、好きですね」
「私は、うんざりするほど好きよ。あえてその理由を言うなら、見晴らしが良いから。そして、ここしかないから」
「ここしかないから?」
「そう、ここが私の場所なの」

一点の曇りも感じさせない晴れやかな顔で、彼女はそう言った。
それにしても、不思議なおばさんである。電車の中に自分の場所を持っていて、ここしかないと見ず知らずの青年に打ち明けるのだから。

「あなたも、そのうち見つけると思うわ」
「自分の場所を?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

ぼくがすっかり混乱していると、電車は渋谷駅のホームに滑り込んでいた。たちまちドアが開き、殺気立った乗客たちに呑み込まれ、おばさんは見えなくなってしまう。必死になって探そうとするが、もうどこにも見当たらない。一体、何だったんだろう。まるでドン・ファンみたいな人だな、とぼくは思う。

「終着駅」の趣きにふさわしい東横線の渋谷駅が、ぼくは好きだった。レールの行き止まりにある正面口を出て、エスカレーターを下って左折すると、にわかに高揚感が増してくる。嵐だのAKB48だのがプリントされたウォールを横目に外へ出ると、暴力的に華やぐハチ公前広場がひらける。広場から放射するスクランブル交差点で信号待ちしていると、その退屈さを埋め合わせるように、四方八方からけたたましいノイズのシャワーが降ってくる。


あれは10歳の時だったろうか。ぼくは父に連れられて、センター街のHMVに行った。父がジョアン・ジルベルトやカルロス・リラのCDを物色している間、ぼくは一人で演歌コーナーに向かった。その頃ぼくは、テレビの追悼番組で知った美空ひばりに憑りつかれていたのだ。「哀愁出舟」や「津軽のふるさと」のジャケットを思う存分眺めた僕は、ボサノヴァのフロアーに戻ったが、既に父はいなかった。

しばらく店内を彷徨ってみたが、何の好転も望めないと悟った僕は、店員さんに迷子の放送を流してもらうことだけはやめようと、父をたずねてセンター街に繰り出した。

世紀末の渋谷には、まだヤマンバが生き残っていた。そこかしこに座り込むガングロの彼女らに、下心丸出しのお兄さんや強面のおじさんが、ねっとりした声色で、なにやら話しかけている。

ぼくは恐怖を感じた。それと同時に、えも言われぬ恍惚に捉われていた。渋谷を満たすカオスモスは、あまりに嘘くさく、あまりに表層的だけど、なにかただならぬモノに支えられていると直感した。

その後、どうやって父と落ち合ったのかはよく覚えていない。しかしぼくは迷子になったことよりも、一人で渋谷を歩いた感覚の方が、強烈な印象として残っている。

多くのハマっ子がそうであるように、ぼくにとっても渋谷は、その後最も親しみを感じる都心の街となった。そして大学に入り、中沢新一の『アースダイバー』を読んだとき、ぼくはいたく感動させられることとなる。縄文地図を片手に東京を散策して法則性を見出した『アースダイバー』は、渋谷について次のように書いている。

渋谷の駅前の大交差点は、かつては水の底にあり、そのまわりを宮益坂側からと道玄坂側からと、ふたつの方角からのなだらかな斜面が、取り囲んでいた。その斜面に、古代人は横穴を掘って、墳墓をつくっていた。とくに陽あたりのよい宮益坂側の斜面が好まれた様子で、死者たちはそこに掘り抜かれた墳墓から、豊かな水たまりを見下ろしていた。渋谷駅とその前の大交差点のあたりは、こうして長いこと、死霊に見守られ続けていたのである。

                       ー中沢新一『アースダイバー』


もしかしたら、ぼくが10歳の日に感じた「ただならぬモノ」とは、死者たちの無数の視線だったのかもしれない。

それにしても、渋谷駅前のスクランブル交差点ほど、「辻」と呼ぶにふさわしい場所はない。辻とは、道路が交差している場所をさす。四方から他者が集まり、交わり、再び離れてゆく場所である。人々は古くから、ここを自分たちの力の及ぶ限界であり、境界とみなしてきた。恵みや幸福も、災いや不幸も、まずはここにやってくると考えたのである。

そこで辻には、地蔵や道祖神、賽の神や庚申塚を建て、邪悪なものから守らしめた。その一方で供養棚や施餓鬼棚も設け、先祖の霊魂もやって来ると考えた。

渋谷のスクランブル交差点には、地蔵も供養棚も見当たらない。しかし、「忠犬ハチ公像」はその役割を代行し、人々から崇められ、その物語がメディアや映画を通して語り継がれている。また、「DJポリス」のような人々の称賛を集める即席ヒーローも、絶えずここから生産されていることは看過できない。

しかし、渋谷で「境界」を考えるとき、スクランブル交差点から彼岸に向かって、踏みださなくてはならないだろう。もっと卑猥で、もっと崇高な渋谷の下層から、ぼくたちは境界を歩き始めよう。

 

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。