田園生活

甘ったれな畑の私

田園

 

 

 

市民農園を始めて2か月になる。知らず知らずのうちに私の生活は畑中心になった。朝は6時前に起き、7時に畑へ行く。天気予報をこまめにチェックして、帰省や旅行のスケジュールも、野菜の季節に合わせて考える。肌がしょうゆ色に焼けてきて、宮本常一の歩いた農村社会に思いを馳せる。

自然は、優しくて厳格だ。私は両親が優しいのを良いことに、幼い頃からずっと甘えて生きてきた。やりたくないことや食べたくないものがあっても、甘えていれば何とかなった。しかし26歳のいま、「自然」という親に鍛錬されている。4月にオクラとクウシンサイの種を撒いた。が、全く芽が出なかった。無理もない。季節外れだからだ。私はそのことさえ知らなかった。もし自然の摂理に適う時期に撒いたなら、食べきれないほど収穫できていただろう(と考えるのも、やはり甘いだろうか)。自然は賞罰が明確な親であるのだ。

どうしたら、自然の摂理に明るくなれるのだろう。そんなこと、簡単に分かりそうにない。自分一人でただ畑に立っていても、きっと悟りきるまでに、餓死してしまうことだろう。ありがたいことに、このテーマは古今東西、人類共通の課題であり、先人たちの智慧が高山のごとく蓄積されている。宗教・科学・民間伝承を中心に、人類が遺した膨大な知の遺産には、どのように自然の摂理を守り、自然の恵みを享受するかということが含まれている。

仏教の法、朱子学の理、道家の道、科学の定律もその一種だと思われる。しかしこれらを完全に理解できたとして、それを他者と共有することは難しそうだ。少なくとも、私には分かりそうにない。私のちいさな頭では、断片しか分かりえない。

恐らく、自然の摂理は一つである。それを人類は、様々な形に分化している。断片化された情報を少しずつ積み上げてゆく形でしか、人間には、少なくとも私には、自然の摂理を理解できそうにない(そもそも「理解」とはなんだろうか)。

太陽が沈んでも、電気をつければ大抵のことはできてしまう。冬場でも夏野菜をスーパーで買える。現代は科学のおかげで、自然の摂理をうまく操っているように見える。しかし、そこには落とし穴がある。昼夜を徹して働くと、体調が崩れる。季節はずれの野菜は、見た目が良くても栄養価に欠ける。そして、自然に逆らったエネルギーの生産と消耗が、数千・数万年規模の汚染をもたらす。

農耕生活を通して、私は少しずつ自然のシステムと万物のつながりに目を向けるようになってきた。しかし、全てにおいて、私はまだまだ甘ったれだ。いつか甘美なる自然の恵みを享受するために、私はこれから、懊悩煩悶の渦中で苦汁を舐めつづけなければならない。

 

 

第三号へ続く

「菜」イラスト・田園
「菜」イラスト・田園

 

 

田 園/でん えん
北京出身。畑に囲まれた田舎の寄宿制中学校、北京師範大学第二付属高校、北京映画学院大学卒。そして来日。中央大学大学院で修士号を取り、博士課程に在籍中。研究分野は宗教社会学だが、その業績はほぼなし。漫画家デビュー歴あり。黒い歴史満載。猛禽保護センター、出稼ぎ労働者の子供のための学校などでボランティアをしていた。中国赤十字社で救命技能認定証をとったが、期限切れている。今は念仏+論語+民間療法+市民農園に情熱を燃やしている。