東京自由大学会員
リレーエッセイ 第一回
紅顔いずこへ去りにし
横尾 龍彦
毎日の現実や社会現象に視線を合わせていると、肉体は日毎に消耗し、老化していきます。紅顔いずこへ去りにし、と詠嘆しても瞬く間に人の人生は終わりに向かっています。
病院に行きますと60,70代の患者さんが背を丸めて空虚な虚空を見つめている待合室に私も同じ姿勢で座っています。これが我々の実存です。
只、私は「外なる人は破れど、内なる人は日々に新たなり」と宣言したパウロに倣つて、聖なる新しい人を着ているのです。只それだけで内面から至福感情が沸々と湧出してきます。それは神学や聖書を通して知的に学んだだけではなく瞑想によつて神の現存に常に触れているからです。
イザヤの預言書に書かれている〔生ける水、川となり流れ出る〕のです。これは神の聖霊が人間に降ってきて、人が有限性から脱却して神性に移行する恩寵のことです。肉体は永遠ではありませんので毎日刻々と死に向っています。然し私の創造主である神は私の中で私に同化し、神化させます。それがキリストの我々に対する愛のメッセージです。
神は無であるとマイスターエックハルトは言っています。無は肉眼や意識では捉える事の出来ない叡智とエネルギーのことで神仏の世界は一つです。
神は言表不能な根源的存在で、私の無意識深く私の自我の中心に存在します。座禅によって無を極めれば私達は宇宙の根源に触れて開眼します。それが悟り体験です。
元々神がみの世界にいた私達は何かの役割を担ってこの有限界に肉体として生まれてきました。この時間性の中で現実を生きるために人は霊性の過去を一切忘れて現実だけしか認識できない状況に置かれています。いかなる知性も神を体験する事は出来ません。
人間的努力だけでこの自己を超越できません。エッケハルトが言う「己を失えば失う程に神がそこに来て充たす」と道元の「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うと云うは、自己を忘るるなり」に自己を超えていく秘密があります。
管理計算された知性は現実を処理するために必要な能力ですが、心の深い要請に対応できません。「生来のままなる人は神の霊のことを受けず。彼には愚かなことに見えるから」パウロ
かって自由大学でもお話して頂いた故湯浅泰雄先生は自著『ユングと東洋』の中で「合理主義的立場からの反論はともかくとして、多くの人びとにとっては、現在の存在を超えて無限に続くと考えることは大きい意味をもっているということを忘れてはならない。批判的な理性が優勢になればなるほど、人生は不毛なものになってしまう。しかし、より多くの無意識や神話を意識化できれば、もっと多くのものを生に統合出来るであろう。」と書いています。先生の羅漢のような特異な風貌の記憶とともに湯浅先生のお言葉は私の無意識界の導師でもあります。
死を前に生きるとは
横尾龍彦
冒頭から死ぬ話になりますが、既に5年前80歳から私は膀胱癌を患って今年3月に3回目の手術を受けました。膀胱内に突出した腫瘍は切れば切るほど悪化してこのままでは転移の危険性があるので人工膀胱以外に治療の方法はないと宣告され、5月20日の膀胱全切除のための入院の日取りを頂きました。しかし私は昨年決定されたベルリンでの二人展が既に日独センターの広報に公表され個展の場合ではキャンセルも可能かと思われますが、相手の作家にも迷惑がかかるし、私がドイツのアトリエに帰らなければ出品作品の選定、写真撮影等が不可能であることを担当の先生に事情を説明し、手術を延期してもらい6月1日の便でベルリンに来てしまいました。
アトリエに帰ると直ぐに制作に没頭して、我を忘れています。絵の中に沈潜していると日々生起してくる現象世界は移り行く影のようで実体がありません。流れていく時間は消滅し、人の命も速やかに終わります。そこで私は死んでも消えないものは何かと自ら問うのです。今までも永遠の世界を探し求めて生きてきました。自己の外に展開する現象世界に目的を置くと人は本当の自己を失い迷います。
世直しに身を挺するよりも先ずは自らの自己究明を確立しなければ盲人の手引きに終わります
社会や物質を用いながらも、いつも離脱して本質的自己に立ち返るには瞑想しかありません。パウロは持てる者は持たぬがごとく、喜ぶ者は喜ばぬ如くせよ、この世の状態は過ぎ行くもの、と勧めています。
水が描く風が描く、の理念はこの本質に立ち返るための方法論です。
人間は普通に社会生活していると高次の自己と出会う事が出来ません。真の自己は外の社会にはないからです。私は生涯美を求めて彷徨いながら神に出会いました。
人格の完成を求めても、内なる人が聖霊に満たされて変容しなければ道徳と偽善性に縛られて自由を失います。理想の人間像は柔らかく砕けた自由人です。
その自由は目に見えない存在との交流によって齎されるのです。
人の思惑や、社会のために生きるのではなく、内面の声に従うのです。他人からは見えませんし、人からは理解されませんが、神様に知られているのです。人を対象にすると誤解されたり、無視されて傷つくことも多いのですが、霊としての偉大な愛である存在と対話していると、孤独ではありません、そこでは静かな平和が心の中から絶えず湧出してきます。
人生は短いです。人に知られなくとも本来の真人を実現したいものです。
その為に私はエノミヤ、ラザール師を通して山田老師に参じました。
当時1977年山田耕雲老師こそ生涯の師と直感的に信じ、座禅を始めました
当時は逗子に住んでいましたので30分で禅堂に行く事が出来ました。凡ては仏縁が整っていたと思われます。毎日朝は6時から8時まで、夕方は19時から21時まで禅堂は解放されていて数人の禅友がいつも座っていました。WILLIGIS神父もその他カトリックのシスターなども熱心に禅堂に通っていました。年に4回の接心にも必ず参加できました。1978年の春の接心の時、前にも説明したと思いますが、決して良い精神的状況ではなく、こんな苦しい我慢の修業は意味がない今日でお終いにしようと考えそれでも最後と思って午後の長い座禅に参加していました。教えられたように「むー」と続けている内にいつか足の痛みも消え、25分の長い座禅が直ぐに終わり、その後は6回計3時間が一瞬のうちにすぎて行きました。
その時自己の本質が私と一つになる深い体験がありました。それは言語では説明できない全身全霊の納得でした。只、涙、涙、深い安堵感と凡てを放棄した限りない自由がそこにはありました。その様な精神状況は1週間程続きました。本来の自己の実現です。
これらの体験はすべて独参室で老師に報告されましたが見性が許されたのは1年後の事でした。
このような見性体験は誰でも短い集中によって手にすることが可能です。仏縁が熟す時頂くものです。自己努力ではありません。道元もこれは修禅ではない。安楽の法門であると記しています。信じて疑わない事です。悟りを追かけても悟りはやってきません。
人間の苦悩は普遍性を持っていますので、他者の苦しみは私の物でもあります。
生きているうちは苦しみに追われるのが人の定めです。ただ私たちの苦悩は低次元のものではなく精神性を求めるが故に生起してくる苦なのだと思います。
理想を求める人は苦しみに出会います。人は自己の本質を実現するためには遠い道程をたどらなければ到達できません。
しかし忍耐をもってイエスが言った“一日の苦労は一日にて足れり”と一期一会を生きるのです。我々の仏性、神性は内在していますが、未だ実現されてはいません。
我々の行為は目に見えない存在に導かれています。祈りがなければ自己の力だけでは達成出来ません。前仏に懺悔し謙虚になって砕けた心になれば、風は吹ぃてきます。
実はこの世界は仏様だけの世界です。神様の世界です。ですから、エックハルトも言っているように“己を失えば、失うほどそこに神が来て満たす”のです。
私、Ichが曲者なのです。自己の知恵が実は自己を生き難い物にしているのです。
私の創造願望は、自分が神界にあつた生前の次元へ、芸術という現実超越技法によって到達しようという試みです。人間の意識は肉体の限界を超えて何時でも無限大に広がっていきます。近代的知性はその科学的合理性によって想像力の羽をもぎ取られイカルスのように現実の海へ落とされたのです。
これはお別れのつもりで書いています。鎌田東二さんや岡野さん、樫村さん、鳥飼さんその他の自由大学の設立から無償で私財を投じ献身的に関わってきた諸兄姉に尊敬と愛の念を送ります。宗教を考える学校に端を発しあれ程ひたむきに進んで来れたのは、リーダー鎌田さんの天才的発想力、実行力とスタッフの献身的無私の行為によるものです。自由大学と言うこの小さなともしびを消さないで守り育てて頂きますよう祈ります。
横尾 龍彦/よこお たつひこ
東京自由大学初代学長。画家。1928年福岡県生まれ。東京芸術大学日本画科卒。1965年ルドルフ・シュタイナー研究会高橋巌教授のセミナーに参加。1978年より鎌倉三雲禅堂、山田耕雲老師に師事、以後毎年接心、独参を続ける。1985年ケルン郊外に居住。現在ベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来する。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員。1989年、東京サレジオ学園の聖像彫刻、吉田五十八賞受賞。これまでに、国内はもとより、海外での個展、グループ展多数開催。 作家ホームページ