山と街、そこに棲むもの
今村宏之
山のひとは、異なる次元の住人らをすこし変わった隣人、くらいに思っているようだ。ジョクジャカルタ市の北にある霊峰ムラピ山のとある村落におじゃましてきた。
村落にある青年団の団長は、ホームガーデンの木々を指しながら、どの木にどのようなものが棲んでいるのか、ことこまかに説明してくれる。
ときおり、街の方からPenunggu(まちびと、住人)のいる植物を買いつけようと訪ねてくるひともいるようで、植物さがしにかりだされることもあるそうだ。
団長は、近所の住人を紹介するようにPenungguの性質や効能、性格について語ってくれる。恐怖感からの語りではなく、しかたなくつきあっている友人について教えてくれるような語り口である。どうしたら危険を避けられるか熟知している、といったふうだ。
Penungguがいるとされる木の実をとるときは、「俺ではなくてほかのひとにちょっかいをだしてくれ」とこころのなかで祈るそうだ。お互いの欠点を知りつつ、お互いを利用しあっているようだった。
街のひとびとの語りはちがう。怖いの半分、面白いの半分、といったひともいれば、まったく信じていない、というひともいる。そうした事象に対する対応のしかた、認識のしかたは、ひとそれぞれである。街のひとの幽霊ばなしを聞いていると、こどもの火遊びを見ているような気分になる。
一度、知りあってしまうとつきあわざるをえない。一度も知りあうことがなければ、妄想ばかりがふくらむ。
出会ってしまったひとたちは、よっぽどのことでなければ、騒ぎもしない。出会ったことのないひとびとは、すこしのことにもこころ踊らされ、動揺する。無関心を装っても、聞き耳をたててしまう。
私の住む街には、キツネに化かされるだけの器量があるひとびとがまだまだたくさんいるようだ。
今村 宏之/いまむら ひろゆき