「久高オデッセイ 風章」完成にむけて
ー大重監督との出会い
高橋 あい
2002年、大重監督と出会いました。その日の朝、朝日新聞のイベント告知欄を見て、なんとなく気になり出掛けた文京区シビックホール。「大重潤一郎」という名前も作品も全く知らず、なにが私を動かしたのか記憶はすっかり消えているのに、そこからの出会いでした。「光りの島」「風の島」を拝見し、「一目惚れ」をしました。上映会後に「多摩美(私が通っていた大学)で上映会を企画させて下さい」と声をかけ、担当教官の港千尋先生に、特別講座として許可を被り、全作品を出来る限り16mmフィルムで上映することを決め、3日間の上映と港先生とのトークショーを企画しました。わずか3,4ヶ月の出来事でした。
22歳で大重監督に会った時の自分の服装や髪型をとてもよく覚えています。何度か頂いた旅先からの手紙は、今でもファイルをして残しています。何が特別だったか、それは巧く言葉にすることができないものの、その時間のことは色濃く覚えているのです。
2004年秋に脳梗塞で倒れた報せを受けました。沖縄へお見舞いに行ったのは、確かそれから一年半後のこと、視床痛で辛そうな監督の姿がありました。その後にお会いしたのは2008年春のことだったと思います。仕事を辞め、大学院に行くことが決まり、数日沖縄へ向かいました。久高島に行きたいと伝えると、「数日後に撮影に行くから同行しないか」とお誘いを頂き、以降「久高オデッセイ第二部」に関わることになりました。ほぼ毎月、那覇と久高島に通わせて頂きましたものの、お手伝いどころか、毎回失敗をし、怒られることが多々ありました。大重監督は本気で怒る。今振り返ると、今でも未熟であるけれど、今の私すら呆れる私でした。それでも怒りながら多くのことを教えてくれました。
脳梗塞、C型肝炎、肝臓癌と複数の病気を抱えている大重監督、アメリカ滞在中に亡くなる可能性も覚悟しつつ、ほぼ毎日スカイプで会話をし、それをこのEFGで綴っていました。痛みがあるはずなのに、声にはそれを表さず、健康であるはずの私が元気をもらっていました。
17回の肝臓癌の手術、肺に転移してから放射線治療、そして、今年10月には脊髄への転移、現在はモルヒネに近い麻酔で痛みを和らげ、沖縄日赤病院で編集を続けています。
手術の度に、「どうかどうか、」と願い、だけども、監督の耐えている姿を想い続け、今もその想いの中、この文章を綴っています。
監督から頂いた数々の出会い。この東京自由大学も、頂いた出会いの一つであり、私にはかけがえのないものです。仕事が辛いと愚痴をこぼすと、「真に生きることは辛いことだ。だから今辛いと思っているその時間は大事だ。」と励まされたことがありました。確かに自分の周りにいる人たちは「辛い」と愚痴をこぼさないけれど、普通にはこなせない仕事をしている方ばかり。その仕事量が問題という意味ではなく、姿のことであり、真剣に向かっている方の姿には学ばされることの多くがありました。大重監督も自由大学のスタッフも、自由大学を通して知り合った先生方もその例外ではありません。
生きることは大変だと人は容易に口にするけれど、死に至る過程は生きる以上に大変な営みであり、今、大重監督はその最中で力強く頑張っている、そして家族やスタッフはそこに添うように映画の完成を目指しています。
18日から5日ほど、沖縄に向かいます。「久高オデッセイ最終章・風章」への想い、きちんと未来に届けられるよう。いつかくる大重監督の死を受け止める覚悟を持ち、時間を過ごしたい、そう強く想っています。
今、私がこうしてここにいるのは、大重監督のおかげなのです。
12月13日14時より、東京自由大学にて、「光りの島」「縄文」の上映会を行います。是非お誘い合わせの上、お越し下さいませ。