ヤイェ ユーカラ(自分の物語)
郷右近 富貴子
阿寒の山の森も、すっかり葉が落ちて、
真っ白い季節を待つばかりとなりました。
11月から雪解けの4月まで冬期シーズンになり、
それと同時に、冬期の伝承活動も始まります。
そんな中、毎年だいたい11月に開催される「イタカンローアイヌ語弁論大会」
が札幌で開催され、我が子たちも、毎年張り切って出場しています。
弁論大会では、すべてアイヌ語で発表するのですが、
内容は様々で、アイヌウポポを歌ったり、昔からの物語を語ったり、
子守唄だったり、自分の家族のお話をしたり…
今年も、どんな物語を発表するのか、子供たちと相談していた頃…
娘が発表する物語も、ほぼ決まっていた中、
「私やっぱり、難しいかもしれないけど、フクロウの物語をやりたい!」と。
それは、「知里幸恵さん」の残したユーカラのことでした。
その物語は、大正12年8月に初版された
「アイヌ神謡集」という、13編の物語の中の一つです。
そして幸恵さんはこの本を書き上げてすぐ、19歳という若さでこの世を去ってしまいました。
今回改めて、「アイヌ神謡集」を手に最初の序文を読み、
幸恵さんの聡明さ、アイヌとしての信念に心から感動しました。
以下、 知里幸恵「アイヌ神謡集」の序文を紹介します。
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序
その昔この広い北海道の大地は、私たち先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、
誠に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったことでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山を踏み越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉のような小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光をあびて、永久に囀づる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝火も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。
嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れ幾十年、この地は急速な変転をなし、野山は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も又何処。僅かに残る私たち同族は、進み行く世のさまにただ驚きの目をみはるばかり。
而も其の目からは一挙一動宗教的観念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならず、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
其の昔、幸福な私たち先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進み行く世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明暮祈っている事でございます。
けれど……愛する私たちの先祖が起き伏す日頃互に意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにもいたましい名残惜しい事でございます。
アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集いて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極小さな話の一つ二つを拙い筆に書連ねました。
私たちを知ってくださる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族先祖と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
大正十一年三月一日
知里幸恵
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コンカニペランランピシカン
(金のしずく降る降るまわりに)
シロカニペランランピシカン
(銀のしずく降る降るまわりに)
という美しい折節で始まる物語。
幸恵さんが伝え残した物語をこれからもずっとずっとつないでいきたいと
イタカンローを前に、あらためて思っています。
郷右近 富貴子/ごううこん ふきこ
幼少よりアイヌ舞踊などを習いつつ阿寒湖アイヌコタンで育つ。3児の母。アイヌ料理屋ポロンノを家族で経営しつつ、阿寒観光汽船「アイヌ文化ギャラリー船」にて、アイヌ語り部として、ムックリやトンコリなどを演奏し、アイヌ文化を紹介している。姉・床絵美と’Kapiw&Apappo’というユニットで音楽活動を行っている。民芸喫茶ポロンノホームページ