―石の航跡―
桑原 眞知子
旧宇品駅プラットホームの記憶はシロツメ草の匂いで思い出します。
小さな頃、夢の中で聞いた貨物列車の遠くゆらぐような汽笛。
岡部さんの肉体と石と紙がスパークする音。
プラットホーム周辺に咲いて刈り取られた草花。
美術家の岡部昌生さんにお会いしたのは、1996年夏の朝でした。広島市現代美術館主催のフロッタージュのワークショップに参加したのが切っ掛けで、平和記念公園では参道に敷かれた白い布に赤いオイルチョークで擦り取り、駅舎がまだ残る旧宇品駅プラットホームでは縁石に紙を置いて木炭のように黒くて太い鉛筆の芯で擦り取りました。
次にお会いしたのは秋のプラットホームでした。一人黙々と被爆した縁石に向かい、石と石の隙間にある時の層に指先で触れてフロッタージュする岡部さんから「お手伝いして頂けませんか」と声を掛けられました。
広島の宇品線は1894年8月に突貫工事で開設され、日清戦争から第二次世界大戦へと52年間に及ぶ大陸侵略への架け橋となった後、貨物と旅客用に利用され、1986年4月広島―上大河間の最後の乗客がプラットホームに降り立ち廃線になりました。
人間の加害と被害の実相に、真正面から取り組む岡部さんの作業。閉鎖される2004年までに旧宇品駅プラットホームでの作品は、4000枚という膨大な量に及んだそうです。その作品と人間性に触れて、ヒロシマを考え続けるきっかけとなりました。
その流れの中で、高橋あいさんとの出会いもありました。
幼い頃、根室の空襲を体験した岡部さんは、その体験が制作の原点となって「地球は大きな版である」と、様々な場所で近代史の痕跡を擦り取る作業を続けて来られました。パリのマレ地区、根室の空港跡地、広島、沖縄、光州、ヴェネチア、パレスチナ、被曝したフクシマ…。
1ヶ月毎に草花を採集し押し花にした物と、1ヶ月分の中国新聞をまとめて毎月、北海道在住の岡部さんに9年間送り続けました。送り届けた物は、2007年ヴェネチア・ビエンナーレで岡部さんの作品の一部となって展示されました。
2017年11月14日~11月19日、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館から10年を節目とする岡部さんの展示会が広島でありました。gallery G・ギャラリー交差611・Gallery Nodeの3会場で開催され、「まいにちギャラリートーク 岡部昌生×広島人」の15日に岡部さんと私のトークショーがありました。
岡部さんの希望でいさじさんの追悼も兼ねて、最後のプラットホームでパフォーマンスをしたいさじさんのDVDを上映し、息子の大井赤亥さんにも参加して見て頂きました。
「風の三郎さま」
シャザシャザシャザシャザ
空気を切り裂く
シャザシャザシャザシャザ
何層にも折り重なった100年もの時相を一気に抜ける
シャザシャザシャザシャザ
一本の鉛筆が時の断層へと降りていく
ピカドンと呼ばれた原子爆弾の閃光は その時の今を反転し 影に実態を与えた
気化した肉体から立ちのぼる魂の微粒子は 風に運ばれ
広島の上空を 海を 南北アメリカ大陸を オーストラリア大陸を 南極大陸を
アフリカ大陸を ユーラシア大陸を越え循環していった
シャザシャザシャザシャザ
季節の風が体に吹きつけ
指先は紙の皮膚を通してあの日の灼熱に触れる
石に封じ込められていた肉声を 一本の鉛筆が解き放つ
15年前に岡部さんに送った詩です。詩の中で私は原爆をピカドンと表現してますが、岡部さんと中国新聞の守田靖さんのトークショーでは、広島の人は「ピカ」と表現している。では「ドン」は何処に行ったのかというと、岡部さんが池澤夏樹さんから聞かれたお話では「ドンは成層圏に溜まってる」そうです。
吉増剛造さんも「ピカドンのドンは何処に行ったんでしょうね」と宮岡秀行さんの映像の中で探しています。
私の「ピカドン」は母からの口述です。
「わたしたちの過去に、未来はあるのか」というヴェネチア・ビエンナーレでの問いかけは、過去・現在・未来へと光の矢のように貫いて、今を生きる私たちの存在そのものが問いと答えを同時に内包していることを示唆してくれます。問い続けることに意味があるのだと。
『美術はある集合(亊物+出来事)から出発してその構造の発見に向かう。』
―レヴィ・ストロースの言葉―
桑原 真知子/くわはら まちこ
広島県生、空見人。多摩美術大学絵画科油画課卒業。広島大学文学部考古学科研究生修了。草戸千軒町遺跡にて、遺物の漆椀の図柄の模写や土器の復元を行う。シナジェティクス研究所にてCG担当とモジュール作成などを経て、現在は魂を宙に通わせながら作家活動を行っている。