歴史のなかの神道(7)

島薗進

 

 

 

神崎一作の「神道の復興」論

明治維新の初期に「皇道」とよばれていたものは、私が「国家神道」と捉えているものとほぼ重なり合う。ところが、大正期に入ると「その「皇道」を神道」とよばれる例が増えてくる。その例として前回は、戦前の神道界の理論的指導者の一人であった今泉定助(1862-1944)について見てきた。

今回は他の神道家や神道学者を見ていく。そこでは、明治維新において神道の復興があり、それは国体論や天皇崇敬と密接な関係があったことは広く共有された認識になっている。まずは、神崎一作(1867-1938)『神道六十年史要』(宣揚社、1934年)を見ていよう。六「神道の復興」の章はこう書き始められている。

神道の復興とは古神道の純真性に立ち還るべく、その精神が興隆したことを意味する。抑も徳川幕府文運隆盛の結果、史学・文学の研究にも、遠く我が古代を回顧せしめ、而してこれと共に、復古思想の暗流が漸次横溢し、それが社会に流布せられたのであったが、その潮流に三つがあつた。その一は水戸の修史事業であつて、これが為めに我が国体観念は明瞭となつた。第二は僧契沖・下河辺長流等の開拓した古文辞の研究で、我が国民精神が印度・支那等から渡来した宗教や、文学の外に我が国固有の文学が儼乎として存在して居ることが知られた。第三は国学派四大人の古道の研究で、儒仏に禍せられたその関係が判明すると共に、古神道の真価が認められ、その光明が発揮せらるゝことゝなつた。この三大潮流が澎湃として海内に瀰漫し、それが社会の表面に動いて鎖国攘夷尊王倒幕の政治運動となり、更に進展して明治維新の大革命となつた。この復古の大精神が標榜せられて第一着に建てられたのが、大宝令の制度に基く神祗官であつて、神道が劈頭に表現せられたことは、寔に當然の帰趨であつた。(37—38ページ)

明治維新は「神道の復興」であった。そして、そのことを記しづける施策として、まず神祇官の復興がある。1968年(慶応4)旧暦3月13日に「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべき件」という布告が出されている。「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新・祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テハ、先第一、神祗官再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀被仰出候(以下略)」というものだ。この布告を引いて、神崎は以下のように論述を進めていく。

この文中に見えた神武創業の始に基かせられたと云ひ、祭政一致の後制度と云ひ、神祇官御再興御造立の上諸祭典も興さる可しと云ひ(中略)、歴史の回顧、国民思想の覚醒、神道信念の復興が明に知られるのであつて、この維新の大事業は啻に政治の改変社会の革新等表面に現れた制度文物に関する其れのみではなく、その裏面に於ては、精神運動が大原因をなして居り、然もその根柢が、日本民族固有の宗教的信念であつて、総べてはその現れであることを明確に知悉しなければならない。(中略)畢竟明治維新は精神運動に目覚めた神道維新と謂ふべきであり、神道維新は取りも直さず、我が民族固有の信仰に根ざした国教維新と謂ふべきものであつた。(38−39ページ)

ここで、神崎が用いている「神武創業」とか「祭政一致」の語は、国体や天皇崇敬と不可分の語彙群に属することは言うまでもない。この書物では天皇をしばしば「至尊」と呼称している。「我が国体との関係に於て、祭政一致は古代に於て行はれたことであり、又其れは主として、至尊が行はれたこと」(201ページ)とあるとおりである。神崎は「国体神道」という語を用いてもいる(222ページ)。「神社」や「教派」「宗派」というような特定集団に限定されず、天皇崇敬や国体論にこそ近代の神道の中核的な要素があることを示そうとする用語である。

 

尊皇論と不可分の神道復興

次に、『明治維新神道百年史 第一巻』(財団法人神道文化会編集兼発行、1966年)に収載されている、藤井貞文(1906-1994)「明治維新と神道精神」を取り上げる。藤井はこの論文の「序」で次のように述べている。

抑々神道は我が国民の固有の普遍的な信仰であり、生活でもあるから常時は必ずしも意識しない事もある。併、其が一度何等かの刺激に遭へば油然として蘇って来る。幕末期は国家非常の時期であるから其非常時意識の中に此精神は復活した。其歴史の中に発揮された神道精神の諸相を探ぐるのが拙稿の目的である。而して明治神道への展開の足場を求める訳なのである。(9ページ)

ここでは、神道を主に神社や神職に関わることとしては捉えていない。むしろ「神道精神」の担い手の方から捉えようとしている。だが、それは必ずしも社会制度よりも個々人の方に注目しているからではない。「神道精神」の現れを見ることによって、制度や集団や政治過程もよりよく捉えられると見ているからだ。

そして、幕末期の「神道精神」は尊皇論と大いに関わっており、尊皇(ひいては皇道論や国体論)と結びついた神道であることは言うまでもない。

仮に其諸相に就て言へば、非常時意識の抬頭から進む神道精神の発露、、志士草莽が社稷の擁護に立った信念なり、諦観なりに作用した神道を究める事に意義を持ち、幕末期に於ける斯かる諸相が明治期に及ぶとして観る。併、事実に就て見れば明治期には明治としての新なる諸相が加はる。其因子を追求する事も此の場合には忘れられない。人は動もすれば明治の隆盛を神道の上にも認めようとするが、勿論、其に誤はない。唯明治の要素は単に其だけではない。一般の歴史の推移回転が矢張り主流となると観なければならない。其処に神道史も成立する。(同上)

続いて、第一章「非常時意識の抬頭」、第二章「神祇の復興(上)」、第三章「神祇の復興(下)」、第四章「志士の神道興隆」、第五章「幕末の神道興隆」、第六章「祠官の活動」、第七章「明治政府の神祇活動」と叙述が展開していく。これによると、明治維新に先立って尊皇思想に基づく神祇の復興がさまざまになされ、とくに尊皇の「志士の神道」が重要な役割を果たした。そしてそれが「明治政府の神祇活動」へと展開していくと見なされている。

 

「目覚ましい神祇復興」と「国体」理念

たとえば、第二章では、朝廷が西洋諸国の圧迫に対して強く攘夷を願い、それを「国体」に拘わること捉えていたこと、孝明天皇の敬神の念が篤く神祇を重んじたこと、山陵への奉幣が盛んになされたことが述べられている。次いで、第三章では、王政復古において朝廷が権威の源泉と見なされたことや神祇官再興や皇陵の復古等について述べるとともに、「目覚ましい神祇復興」の例として祈年祭をあげている。

祈年祭は年穀の豊饒を祈る国家の重典であるが、応仁の乱頃から廃絶した。近世に及んで漸く其再興が論議せられ、当代になって弘化四年にも行はれ、安政六年には三条実萬も其必要を論じて、外交の事もあれば祈年祭を興して報本の御趣旨を天下に示すべきだと言った。元治元年四月には中山中忠能が其再興を建じ、同十一月にも再び其必要を説いた。慶応二年三月新田邦光も基督教の防止には神道の大体を国民に教諭すべきだと言って祈年祭の再興を上書したが、実際に再興されたのは明治二年二月の事である。(19ページ)

第四章では招魂祭、楠公祭の隆盛と招魂社、楠公社への展開が主要な話題となっている。後に靖国神社、護国神社へと展開する、招魂祭、楠公祭、招魂社、楠公社は国家神道のきわめて重要な要素であるが、それは明治初年にほぼ形をなしている(拙稿「国家神道の形成と靖国神社・軍人勅諭――皇道思想と天皇崇敬の担い手としての軍隊」注1)参照)。大村益次郎による東京招魂社の造営は1969(明治2)年、湊川神社の造営が終わったのは1872(明治5)年である。招魂社、楠公社の造営運動の結果として、国家の中心的な招魂社(靖国神社)と楠公社(湊川神社)がすでに成立している。全国の招魂社もこの時期、多数成立している。

 

神道復興としての明治維新

第五章、第七章では、「志士の神道精神」と尊皇運動に尽くした神職についていくつも例をあげている。一例のみ引く。

福岡藩士平野国臣は頗る国典に明るい志士であるが、皇国の帝は天祖天照大神の天孫に座します事を説き、「天朝に忠を尽せば先祖への孝道を立、忠孝二つにして一つ、相離るゝに忍び能はざる大親義ある所、即ち神国の神道にして巧まずして自から真の天道とも云ふべき故なり」云々と論じて、国体を明らかにして天朝を回復すべしと言った。(33―34ページ)

そして、第七章「明治政府の神祇活動」では、「神祇官の再興」「神仏判然の令」と並んで、「五条御誓文の誓祭」「軍神祭」「戦死者の慰霊」「大祓と道饗祭」「明治天皇の神社行幸」等々と国家的な神道儀礼に重きを置いている。そして「大教宣布」について「明治の神祇行政に於て最も重大なる意義を持つのは、大教宣布の活動である」と述べている。藤井貞文の捉え方では、「神道国教政策の挫折」というようなことはなかった。「大教宣布の詔」にそった宣教は宣教使制度から教導職制度へと連続的に展開したものと見なされている。そして、最後に「神社を国家管理へ」という項が置かれている。神社も神道精神の宣布に大きな役割を果たしたが、それは上記のようなさまざまな「神祇活動」と並ぶものにすぎないものとして描かれている。

藤井貞文「明治維新と神道精神」は、明治維新期の国家神道(皇室祭祀や天皇崇敬[尊皇]に連なる神道)の動きを総合的に捉えており、一部を切り取ることをしていない。また、藤井の論考を収録した『明治維新神道百年史 第一巻』では、続いて八束清貞「皇室祭祀百年史」と梅田義彦「神社制度沿革史」が収載されており、皇室神道と神社神道の双方を視野に入れた神道史叙述となっている。昨今の国家神道の叙述においては、皇室祭祀の叙述が見えないことが多いが、この書物はその弊を免れている。以上のように、明治維新を神道復興として捉える見方は、神崎一作や藤井貞文だけではない。多くの神道家・神道学者・神道運動家たちに共有されていたものである。

 

(付記)連載第7回の今回は、島薗進「神道と国体論・天皇崇敬」『現代思想 臨時増刊号:神道を考える』22017年1月、72−80ページ、の一部を用いている。