神楽と縄文7

三上敏視

 

 

 

前回で終わりにしようと思っていた「神楽と縄文」だが、少し付け足したいことがあるので、今回を最終回にしたい。

 

前回の最後にひとつ紹介した宮崎県の山間部に残る神楽せり歌。これは第二号、第三号でも紹介したが神楽に付随するもので神楽そのものではないが、残っている地域では神楽に欠かせないとても大切なものとなっている。

これについては『新・神楽と出会う本』でも大きく取り上げたが、神楽には神楽を演じる「太夫」「祝子」「神楽衆」などと呼ばれる人達が歌う「神楽歌」「神歌」があるが、それらは祭りを迎える喜びやその信仰心を森羅万象などを盛り込んで歌ったり、神を招くためにとても良い祭場を作ったと歌ったり様々な内容を持つが、それらは個人の気持ちを歌っているというより、祭りを催行する集落全体の気持ちを歌っているようで、エロスの要素はほとんどない。

それに対して「せり歌」は神楽に集まった村人や近隣の集落からの客が歌うもので、宮崎でのその内容は「神歌」とは違って、男女の恋の歌が多く、中にはかなり露骨に性的なものがある。祭が「性の解放」の場であるということからそのようになったと考えられ、「歌垣」の要素が残っている貴重な例とも言えるが、もうひとつ「新しい血を入れる」という知恵があったからではないかという説がある。

 

諸塚の「南川神楽」では「ぜき歌」「ぜぎ歌」と呼び、保存会が「南川神楽ぜき唄集」という資料を作ったのだが、そのまえがきには「昔は里神楽を見るため、寒さも厭ず数里も遠しとせずに、若者達は集まってきた。それも皆歩いてである。神楽を見て、ぜぎ合う楽しみと、夫婦の相手を見つける楽しさがあった。神楽ぜきは、男女入り交じり数人が肩組み合って、又は輪になって、ぜぎ歌に合せて掛声かけて、ぶつかり合うのである。ぜぎ歌には三通りあって、おとなしい神楽には調子を合せて節を長く、調子の早い神楽には、早い調子で歌う。太鼓がはずめば、祝子がはずみ、神楽ぜぎ手もはずむ、三者一体となって夜神楽祭りを盛り上げるのである。上品な神楽歌に対して、ぜぎ歌は大胆な、工口的なものである。」とある。

諸塚の「ぜき歌」には椎葉の系統のものと高千穂の系統のものが混在しているので、かつては椎葉から、高千穂から若者たちが見に来ていたことがわかる、諸塚と椎葉、高千穂はとても離れているが、それぞれの地域でも各集落は孤立していると行ってもいいくらい離れたところに転々と存在している。

だから集落の中だけで子どもを作っていたら血が濃くなるので祭での男女の出会い、性の解放は新しい血を入れるための要素もあったのではないかということだ。

 

宮崎ではっきりと縄文遺跡があるのは高千穂だけだが、高千穂は比較的開発が進んでいるところだから遺跡も発見されたのだろう、諸塚、椎葉、米良などの山間部にも縄文の集落はあったはずで遺跡が発見されていないというだけなのではないだろうか。

今と同じように縄文時代の集落は、離れたところに点々とあっただろうから、同じように新しい血を入れる知恵もあったのではないだろうか。そして石棒の信仰、妊娠、出産、死など命に対する信仰などを考えると、祭りは今よりずっとプリミティブだっただろうから性の解放の要素が元々あったと考えてもおかしくはないだろう。

アフリカの踊りには性的な動きを見せるものがあるし、オセアニアのトロブリアンド諸島の「タピオカ踊り」では半裸の子どもを含む若い男女が股間を押し付け合うような踊りをしていた。

 

というわけで、かなりのこじつけに感じられるかもしれないが、祭や神楽にある「性の解放」の要素は縄文から続いているのではないか、と考えているのだ。

最後にせり歌のいくつかを紹介して「神楽と縄文」を終わりたい。

 

 ◯神楽せるより 川せきなされ サイナー 川にゃ思いの 鯉(恋)がすむ ノンノコサイサイ (高千穂)

 ◯粋な誰かさんの 神楽舞う姿 サイナー 枕屏風に 描かれたい ノンノコサイサイ (高千穂)

 ◯枕屏風に 絵を描くよりも サイナー 枕並べて 寝てみたい ノンノコサイサイ (高千穂)

 

 ◯逢うて帰れば千里が一里 逢わず帰れば又千里 (諸塚)

 ◯おれが唄うたら、むかえで笑うた 昔や近うした仲ぢゃもの (諸塚)

 ◯人のかかでも御殿でも こよさ一夜はゆるしやれ (諸塚)

 

 ◯こんな寒いのに 笹山越えて 笹の露やら 涙やら (椎葉)

 ◯おなごかたげにゃ 来たけれど かたげそこのて 今帰る (椎葉) 

 ◯なくな鈴虫 声はりあげて ここは道端 人がしる (椎葉)

 ◯人の彼女と 枯れ木の枝は 登り下りが おぞうござる (椎葉)

 

   ◯逢うて帰れば      千里も一里        逢はず帰れば      また千里 (銀鏡)

   ◯こよい逢うたが    またいつあおう    またの逢う日を    まつばかり (銀鏡)

   ◯かぐら出せ出せ    まだ夜は夜中      かぐら出さねば    よめじょだせ (銀鏡)

 

   ◯惚れてなるまい 他国のひとにゃ 末はカラスの 泣き別れ  (尾八重)

 ◯末はカラスの 泣き別れでも 添うて苦労が してみたい  (尾八重)

 ◯わしとあなたは 硯の水よ すればするほど 濃ゆくなる  (尾八重)

 

 ◯私とあなたは みかんのつぎ木 今はならねど 末はなる (中之又)

 ◯入れてください かゆくてならぬ 私一人が 蚊帳の外 (中之又)

 ◯私とあなたは 卵のなかよ 私が白みで 黃みをだく (中之又) 

 

最近出た瀬川拓郎氏の『縄文の思想』(講談社現代新書)という本では、修験の中に縄文が残っていると書いてあるそうだ。神楽には修験の影響が大きかったから「神楽と縄文」についての考えを学問的に支えてくれるかもしれないので読んでみたい。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062884549

 

最後に「神楽と縄文」の関係をリアルに感じた写真を紹介しよう。左は奥三河の花祭の古戸地区の資料に載っていたもので今は使われていないもの。そして右は有名な縄文土器の人面だ。この二つの関係については似ている以外のことはなにも語ることは出来ないが、古戸の面を見たときは驚いた。

 

写真はビデオからキャプチャーした「タピオカ踊り」
写真はビデオからキャプチャーした「タピオカ踊り」

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日 本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別 冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシン グ)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオ ジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉 納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われて いる。多摩美術大学美術学部非常勤講師。