私の選択
田 園
環境運動家・辻信一先生の著書、『スロー・イズ・ビューティフル』の中国語への翻訳が終わった。
この本を翻訳しようと思ったのには、三つの理由がある。一つ目は、読んで感激したから。私は小さい頃から、何をやってもノロマな人間で、そのために妙なコンプレックスを背負ってきた。だからノロマな生き方を推奨するこの本に出会って、ほんとうにありがたいと思ったのである。二つ目は、この本がいま、中国にとって必要であると思ったから。私は二〇〇九年から今日までを日本で過ごし、地震・津波・原発事故が重なった危機的状況と、その経過をリアルタイムで体感することができた。そしてこの危機は、ある意味「先進国」の文明の行く末を先取りしていると思った。だから少しでも希望のある未来を語っているこの本を中国の人々に紹介し、文明のあるべき姿について、多くの人々に先回りして考えて欲しいと思ったのだ。三つ目は、著者である辻信一先生に魅了されたから。先生は理屈抜きに面白い。だから、もしこの本が中国語に翻訳されたら、読んでくれる人、そして面白いと思ってくれる人がきっとたくさんいると思っているのだ。
私たちの親の親世代(つまり祖父母世代)は、戦争を経験している。親世代の中でも少し年長の人たちは、子ども時代に飢餓を経験している。だから私は子どもの頃、大人たちに急き立てられながら育てられた。「遅い!」「グズグズしないで!」「すぐ食べないと、他の人に取られちゃうよ!」「戦争が起きたら、あんたは真っ先にやられるよ!」など。それだけではない。テレビの自然番組も同様だ。獰猛なライオンが痩せたシマウマを貪っている映像をたっぷり放送する。やはり、この世界のルールは「弱肉強食」なのだと脳裡に刻まれた。大きなものは小さなものを食う。強いものは弱いものに勝つ。早いものは遅いものを制す。「小さい」「弱い」「遅い」は致命的であるのだ。
年長者たちの教えは正しい。もし彼らの時代に、ぐずぐず・ぶらぶらしていたら、おそらく生き残れていないだろう。しかし、時代は変わった。子ども時代の私はそれに気づくことなく、この弱肉強食の世界の中で、自分は必ず弱肉になるという悲観的情調を無駄に背負いながら生きていた。けれど気付いてみたら、この適当でぐうたらな私でも、なんとか今日までのうのうと生きているではないか。その理由は簡単だ。戦争が終わって(再び起きるかもしれないが)、生活もある程度豊かになった(危険と隣り合わせだが)からだ。
弱肉強食の法則には前提がある。直接的な暴力衝突など、限られた範囲の中でしか適応できない。マクロ的に見れば、むしろ弱肉強食の法則と真逆の結果が見てとれる。たとえば絶滅危惧種のリストには、食物連鎖の頂点に立つ動物が多数掲載されている。また、さまざまな地域・民族で千年を超え伝えられてきた聖人たちの言葉には、共通する部分がある。愛・慈悲・穏やか・ゆっくり・譲り合いなど。この本にも書かれているように、私たちの時代は「ファスト」が「スロー」を圧制している。しかし、この状況は長くは続かないだろう。現代文明というウサギは足が速いぶん、すぐに休まなければならなくなる。人間も興奮すると心拍が速 くなるが、加速し続けると命にかかわる。人類史からみると、人類に相応しいスピード(遅さ)で行動するのが、私たちにとって生き残る唯一の道だと思えてくる。孔子曰く、「欲速則不達、見小利則大事不成」(速やかならんを欲すればすなわち達せず、小利を見ればすなわち大事成らず)。このことばを証明してくれる事例が、この本には多く書かれているのである。
3.11以降の日本は、地震・津波・放射能汚染、及びそれに伴う社会的諸問題が芋づる式に連鎖して、世界の終りを予感させるようだった。傾いた東京タワー、止まった電車、瓦礫、帰宅難民、原発から立ち上るキノコ雲。ベタな特撮映画のような風景だった。しかし、正義のヒーローだけが欠けていた。人々は心のどこかで、 ヒーローの誕生を待ち望んできた。彼(あるいは彼女、というか、ほとんどが美形の青少年)は、いつも強くて、優しくて、カッコよくて、戦闘服を着こなして、悪い集団を倒し、大衆を危機から救ってくれる。
しかし、ヒーローは現れなかった。もしヒーローが現れても、倒すべき敵が見つからなかっただろう。人類に危機をもたらしたのは、悪魔集団ではなく、ヒーローを待ちわびる人類そのものであるからだ。地球を壊し、あらゆる生命に危機をもたらしたのは、人類だ。「トラの首に铃をつけた者こそ、その铃を取り外すことのできる者だ」と中国のことわざにある。残念ながらそのことに気付いている人々は、まだ少数派だ(知らんふりをしているだけかもしれないが)。
この本の中で挙げられている事例の多くは、日本社会のことである。しかしよく見れば、それらが決して日本だけの問題ではなく、世界全体に普遍的な問題である ことが分かる。人々は相変わらず、経済のグローバル化を熱心に推進している。化学汚染・放射能汚染・遺伝子汚染のグローバル化はその付き物だ。私たちはみな、多かれ少なかれ、一人の地球人としてそれに関わっており、責任から逃れることはできない。
子ども時代の私は、他の多くの子どもたち同様、世界を救うヒーローになることを夢見ていた。今も懲りことなく、この世界がまだ救えると信じている。そして世界を救うのは正義のヒーローではなく、私たち。つまり、私であり、あなたなのだ。
未来というのは、私たち一人ひとりの小さな選択が積み重ねられたものだ。私たちの生きる現在は、私たちの過去の選択によって成り立っている。だから、地球や生命に調和する道を選択すれば、私たち自身の力によって、美しい未来が築かれることだろう。この本を執筆したのは、辻信一先生の未来に向けた選択である し、それを翻訳したのは同じように、私の選択なのだ。
田 園/でん えん
北京出身。畑に囲まれた田舎の寄宿制中学校、北京師範大学第二付属高校、北京映画学院大学卒。そして来日。中央大学大学院で修士号を取り、博士課程に在籍中。研究分野は宗教社会学だが、その業績はほぼなし。漫画家デビュー歴あり。黒い歴史満載。猛禽保護センター、出稼ぎ労働者の子供のための学校などでボランティアをしていた。中国赤十字社で救命技能認定証をとったが、期限切れている。今は念仏+論語+民間療法+市民農園に情熱を燃やしている。