「歩けども 歩けども」 Vol.5
浜田 浩之
近所を歩く時に下駄を使い始めてから1年が過ぎた。下駄のすり減るのは早く、3足目になった。朝の散歩をしていた時、神社の掃除をしているおじさんから「下駄の音はいいね。清々しい音がする」と言われた。冬も足の裏は思ったほど寒くはなく、下駄のままで通した。
連休を取るのが難しくなり、休日は視覚障害者と一緒に歩く会に参加して、近郊の低山や公園を歩いたり、視覚障害者の外出をサポートする、誘導ボランティアをすることが多かった。
最近の小さな楽しみは、夜の散歩だ。外出の帰りなど、コンビニで飲みきりのお酒を二つ買い、満開の桜並木や月を眺めながら歩いたり、蛍を見に行ったりした。何となく一人で飲むのは気が引けるため、もう一つのお酒を通り道にある神社や稲荷に供える。
寒さの緩んだ5月の連休は宮城の雄勝に行き、6月は平和行進やデモ行進に初めて参加した。
5月4日(日・祝)・5日(月・祝) 「雄勝法印神楽取材 宮城県石巻市雄勝町」
連休の1週間余りを利用して、東北の地域情報誌『まちねっと』に記事を書くことにした。編集者に提示した案の中から「雄勝法印神楽」を紹介することになった。2年前に東京自由大学の夏合宿「東日本大震災被災地を巡る鎮魂と再生への祈りの旅」に参加し、雄勝法印神楽保存会の方のお話を聞いたことがあった。この時、神楽の一節を披露していただいたことが印象に残っていた。神楽を中心に、「石峰山の石(いその)神社の巨石」もコラムで紹介する。
図書館やインターネットで下調べをしたが、雄勝や雄勝法印神楽の情報は少ない。東京自由大学の鎌田先生が行なっている「東北被災地第7回追跡調査」に雄勝の最近の様子が報告されていた。夏合宿の時の経験や資料も役に立った。神楽の写真は、雄勝法印神楽事務局から提供していただけることになった。神楽の動画はYouTubeに数多くアップされている。神楽の背景の住宅が密集していた震災前と、更地の広がる現在が同じ町ということが信じがたい。神楽の面白さにも引き込まれた。演目が多く、時間も長い。心の浮き立つような太鼓と笛の音の中、喜怒哀楽の表情豊かな面、千早という、長い振り袖と背中から帯状の布を真っ直ぐに垂らした、色鮮やかな衣装の踊り手が、右手に扇子、左手にはお祓いで使うような四手の束などを持って颯爽と登場する。踊り手以外の人たちは白装束である。踊り手は、朗唱しながら力のみなぎるような抑制された動きと、躍動感のある動きを交互に繰り返す。見せ場やユーモラスな場面が多く、舞台上の柱に登って逆さにぶら下がったり、刀を振り回したり、舞台の外に出て観客に絡んだりする。また、観客が舞台に飛び入りしたり、地元の赤ちゃんが出演したりと観客が参加する仕掛けもある。演目が進むにつれて、神域の舞台と俗世の観客との境界が曖昧になっていくようだ。子どもたちが舞台の下で夢中になって見ていて、楽しそうな雰囲気だった。修験道が源流になっていること、僻地で発達したこと、娯楽性の高さ、太鼓と笛の演奏など、以前に取材した早池峰神楽との共通点も多いが、雄勝は漁業が中心の地域で、早池峰神楽が「山の神楽」なら、雄勝法印神楽は「海の神楽」だと思った。
現地までの交通機関を調べ、宿の手配をする。横浜から仙台経由で石巻駅まで高速バスがあるが、雄勝方面のバスは、震災の影響のためか運休していて、交通手段は車しかないらしい。タクシーやレンタカーを使う余裕はなく、最悪片道15kmくらい歩かなければならない。宿泊施設も少なく、夏合宿の時と同じ「亀山旅館」をなんとか確保できて、石巻駅まで旅館の車で迎えに来てもらえることになった。締切日が迫り、費用も限られる中、見切り発車で現地に向かった。「取材」といっても、誰かに会って話を聞くあてもない。まず現地を見て、可能な限り歩いて回ろうと思った。
前日の23時に横浜から高速バスに乗り、翌朝の5時45分頃に仙台駅到着。快晴だが、風が冷たい。7時前に石巻駅行きの高速バスに乗る。車内は石巻専修大学の学生などで満員。8時過ぎに石巻駅に着き、亀山旅館の方の車で北上川沿いに雄勝に向かう。運転する4、50代の男性は、女将さんの息子で、震災当日は遠洋漁業の船に乗っていた。旅館のある大須は、高台にある住宅が多く、津波の被害は少なかったが、それでも3、4軒の被害があった。地元の仕事は、漁業やホタテ、カキ、ホヤ等の養殖が中心だが、石巻の方で働いている人も多いという。大須では、大学の先生と学生が民家を拠点にボランティア活動などをしているらしい。神楽や石神社の巨石のことはあまり知らないようだった。
9時半頃、大須の亀山旅館に着く。天気の良いうちに石神社を撮影しておきたい。荷物を置いて、旅館の車で、石神社への参道のある大浜地区の葉山神社まで送っていただいた。葉山神社は、被災した社殿や鐘の外れた鐘楼などは2年前と同じだったが、瓦礫が片付けられ、社殿が再建される予定の石段の付いた空き地が広がっている。神楽舞台保管庫も新築されていた。
10時半頃、倒壊している石神社の鳥居を通過して参道を登り始める。近くを清流が流れている。参道は、枯れ枝などが積もり荒れていて、登る人は少ないようだ。何度も引き返したりして道を確認しながら進むと、案内板が現れて、だんだん参道らしくなった。杉林に木漏れ日が差して気持ちが良い。ウグイスをはじめ鳥の声もにぎやかだ。足下には小さな花が沢山咲いていて、種類も多い。急坂を登るうちに大木が多くなってきた。「御神馬の足跡石」という巨石の横を通る。尾根に近づき、赤い鳥居とご神体の巨石が見えてくる。急斜面に立つ巨石は、土台の岩の上に縦長の巨岩がのっているような奇岩だ。巨石の上には落ち葉などが堆積して草木が伸びている。
11時過ぎに石神社に着いて参拝。祓え詞と法華経を唱える。後から来る人もなく、巨石の周囲をゆっくり見て回る。周囲には他にも巨石や大木が点在している。尾根には巨石をまたぐように根を張って立つ木もある。鳥居の前で昼食を食べて下山する。途中、清流に下りて冷たい水に足を浸けて休んだ。川底の小石がきれいで、大理石のような白い石と、黒く平たい石を拾った。黒い石は、雄勝一帯で産出する雄勝石とも呼ばれる玄昌石で、特産の硯やスレートの原料になる。12時半頃、葉山神社に戻ると、男の子が一人で遊んでいて、自分が現れたのを見て少しびっくりしていた。
海岸沿いの道路をゆっくり歩き、神社に寄ったりしながら旅館に戻る。道路沿いの草花の色、形、昆虫や鳥など、都会では見られないものばかりで飽きない。神社や敷地の境界と思われる場所に、魔除けなのか、お札や四手を挟んだ竹の棒を地面に差しているのをよく見かける。津波によって被災した海岸近くは、土木関係の事業所や養殖のプレハブの作業小屋などの他は更地が広がり、住宅や商店はほとんどない。道路や港の復旧は進んでいるが、破壊されたままの堤防もまだ残っている。浸水した地域は、盛り土によるかさ上げ工事、高台では森林を伐採して防災集団移転のための宅地造成工事が行われている。地元の人とはあまり会わない。道路沿いにある水場で喉を潤す。雄勝の海産物を育む森の水だけにおいしく感じて水筒にも詰める。
15時前に大須地区に戻る。時間に余裕があるので地区内を見て回る。平地が少ないため斜面に住宅が密集している。八幡神社は、新しく堂々とした社殿で、葉山神社と同じく、神社なのに鐘楼がある。元はお寺だったのだろうか。4月の祭では、外部からボランティアも参加して神輿を担いだりしたという。白い大須崎灯台灯台の立つ高台からは、雄勝の海岸線と太平洋の眺めがよい。海岸は漁港になっていて漁船が多く、カモメが集まっている。
16時前に旅館に戻り、風呂に入り、夕食までメモを書いて過ごした。最初、宿泊客は自分一人だったが、他の宿泊客が次々に来て満室になった。新鮮な魚介類が並ぶ夕食は、殻を割った状態で刺がまだ動いているウニ、香り高いホヤ、マグロやブリ、アワビの刺身、粒の大きなホタテ、焼き魚、あさりの味噌汁等。部屋に戻ってメモを書いて、23時過ぎに就寝した。
翌日は4時半に起床。外に出て缶コーヒーを買い、周辺を散歩する。まだ薄暗い。灯台に行く途中、畑をタヌキが横切って行った。日の出を見たかったが曇っている。旅館に戻って朝食を待っていると、町内放送で、法政大学の先生らしい人が「写真展をやっていますので見に来てください」と言っていた。旅館の人に聞いてみると雄勝法印神楽の写真もあるという。写真展の時間まで周辺を歩くことにして、写真展を見た後、旅館の車で石巻まで送っていただくことになった。
9時に旅館を出発。雄勝町の中心地で雄勝湾の最奥部の雄勝地区まで行ってみることにする。荒、船越地区を通る。この近くには自然公園や「恐竜ランド」という観光施設があったが、現在は休園中で、仮設住宅が建っている。仮設住宅への道の入口に「峠崎仮設団地」という手書きの小さな看板が立っている。山間の単調な車道歩きが続き、峠を下ると、昨日の葉山神社のある大浜地区に出た。葉山神社から先は海岸沿いの道路で、津波の被害を受けた更地が広がっている。途中、高台に建っている神社に立ち寄る。小島地区には熊野神社があり、過去の津波で流されてきたものか、鳥居の前に巨石がある。長い石段を登った社殿からは一帯が見渡せる。地名の通り、海岸から20m位の目と鼻の先に、天王島という小さな島がある。
天王島は島というより岩礁といった方が近い三角形の島で、鳥居と参道の階段があり、頂上には小さな赤い社が建っている。行ってみたかったが、やはり船でなければ渡れない。明神地区には塩釜神社がある。
長い石段を登った境内には、古くて立派な社殿の他、石碑や石仏が並んでいる静かな空間だった。
雄勝地区の手前まで来たが、旅館に約束した14時に戻れなくなるため、11時半過ぎに急いで引き返した。下り坂では走り、13時頃に大須に戻った。徒歩での移動は、意外な発見や出会いがあるが、時間に追われ右往左往して疲れることもある。商店であんドーナツを買い、腹ごしらえをしてから写真展を見に行く。
写真展は民家で行われていて、大須地区の八幡神社の祭の様子が順番に展示されている。神輿を担いで神社を出発し、地区内を渡御しながら海岸まで下りていく。海岸では獅子舞が行われ、神輿は海中に入ってから神社に戻っていく。住宅に一画に設置された神楽舞台で、湯立ての神事に続いて雄勝法印神楽が奉納される。化粧をして衣装を着けた稚児や、笑顔の中高生たちの写真もあった。
14時頃、旅館を出る時に、2年前と同じように雄勝特産のとろろ昆布を頂いた。石巻に行く途中で、70名以上の児童と先生が津波の犠牲になった大川小学校の慰霊に寄りたかった。この辺に花を売っている店はないか旅館の人に尋ねると、そういう店は無いからと女将さんは花束を用意してくれた。雄勝町の犠牲者の慰霊もしたかったが、慰霊塔のような場所はないらしい。
旅館の息子さんの運転する車に乗り、間もなく大川小学校に着いた。周囲一帯は更地になっているが、校舎は被災時のまま残されている。校舎の前に献花台があり、少し離れた裏山の前に立派な慰霊碑が建てられている。現場に立つと、震災当時の状況が胸に迫ってくる。旅館の息子さんと献花して手を合わせた。
北上川沿いに石巻市街に入り、蛇田という所で降ろしていただき、石巻駅までしばらく歩いた。被災地からの避難で人口が増えたのか、復興事業のためか、クルマやトラックがひっきりなしに通る。幹線道路沿いには、イオンやパチンコ店など、大規模店舗と駐車場を備えたロードサイド店舗が並んでいる。地方都市によくある無味乾燥な風景が続く。
17時頃、石巻駅に着き、高速バスで仙台駅に戻る。東京方面の高速バスのチケットは取れず、新幹線で今日中に帰ることにした。最後に駅前のジュンク堂で雄勝法印神楽関係の資料を探したが、間もなく閉店時間になってしまった。20時過ぎの新幹線に乗り、23時過ぎに横浜駅に着いた。コンビニでお酒を買い、静かな夜の道を飲みながら帰る。神楽を実際に見ることができず、収穫は多くなかったかもしれないが、可能な限り現地を歩いたので良しとする。神社に寄ってお酒を供え、無事に帰ったことを感謝した。
6月13日(金) 「日本山妙法寺 2014平和行進 鎌倉〜藤沢」
5月23日付の『東京新聞』に「宗派越え、解釈改憲NO 公明に異例のエール」という記事が載っていた。日本山妙法寺という日蓮系宗派の僧侶、武田隆雄さんが、集団的自衛権の行使容認に反対する会の宗教者たちに、宗派を越えて、公明党議員に激励のFAXを送ろうと呼びかけたという。仏教などの伝統宗教には保守的なイメージを持っていたが、政治に対して宗教者が正面から異を唱え、具体的な行動をしているのは珍しいと思った。日本山妙法寺の僧侶は、黄色い袈裟を着ていて、以前、官邸前の抗議行動に参加した時に見かけたことがあった。
東京自由大学で上映会を行なっている大重潤一郎監督作品の『ビッグマウンテンへの道』(45分、2001年)にも、日本山妙法寺のお坊さんが登場していた。『ビッグマウンテンへの道』は、聖地ビッグマウンテンから強制移住の危機にあるネイティブアメリカンへの支援を訴えるため、2000年、飛騨高山の位山から東京の約500キロ、そしてサンフランシスコ・ピークスから、アリゾナのビッグマウンテンを目指して行われた約250キロのロングウォークの様子を追ったドキュメンタリーである。
昨年、法華経の経塚を勤行して回る「熊野修験葛城」に参加した経験から、法華経への関心は高くなっていて、最近は、近所のお不動さんの読経会に参加したり、毎朝、法華経を読経したりしていた。日本山妙法寺のホームページを見ると、「憲法九条護持」を第一に掲げている。平和憲法破壊、原発再稼働を進める現在の政治を強く批判して、抗議活動を積極的に行なっている。また、東京から広島・長崎まで、憲法九条護持と反原発を訴えながら歩く「平和行進」を毎年行い、各地の自衛隊施設や米軍基地、原発を回っている。教会とも連携していて、海外の活動も多いのが意外だった。日本の過去から現在の問題に対して正面から向き合っている姿勢に共感し、平和行進に参加してみたいと思った。問い合わせをすると武田さんが電話に出て、誰でも参加できるとのことだった。そこで自宅から近い、鎌倉〜藤沢間の行進に参加した。
電車が遅れ、9時集合の鎌倉駅に10分遅れて着いた。駅前は、観光客や、遠足か修学旅行らしい中高生などでごったがえしているが、平和行進らしい人たちの姿はない。武田さんに電話すると、もう出発していて、今は長谷のお寺にいる。その後、11時頃に青蓮寺というお寺に寄るらしい。後を追うことにして、江ノ島電鉄に乗って長谷に向かう。行進の予定表を持ってこなかったため、長谷のどのお寺なのか分からない。しばらくウロウロしたが、それらしい一行は見つからず、今度は青蓮寺に向かう。長谷寺の近くの酒屋で「鎌倉サイダー」を買い、店の人に青蓮寺の場所を尋ねた。幹線道路を3kmくらい歩いて青蓮寺を目指す。私は携帯電話を持っていない。公衆電話が見つからないため武田さんと連絡がとれない。11時半頃、青蓮寺に着いたが、出発した後だった。再び後を追って、湘南モノレールの西鎌倉駅付近でやっと公衆電話が見つかり電話をすると、近くの腰越のモンタナ修道院で昼食休憩をしているらしい。修道院に着くと、平和行進の車が停まっている。要件を告げてシスターの案内で中に入る。キリスト教の建物に入ったことがあまり無いため緊張する。案内された食堂に入ると、平和行進のお坊さんたちと30人以上のシスターたちが集まっていて、昼食を終えて、集団的自衛権など、最近の政治状況について意見交換をしている最中だった。突然、別世界に入ってしまったような気がした。シスターに「お昼ご飯は食べましたか」と訊かれ、まだですと答えると、食事を出していただいた。質素だが手作りの和食で、お腹がいっぱいになった。
昼食を終えて、別室に移動して出発準備をする。ここで武田さんに自己紹介をした。武田さんは、背が高く体格のよい60歳くらいの方で、武田上人と呼ばれている。平和行進の一行約15名のうち、僧侶は10名くらい。他の宗派や遠くから参加している方もいるらしい。修道院の方たちと記念撮影をして、シスターの皆さんに門で見送られながら出発した。うちわ太鼓を借りて、やっと行進に参加する。
この日は日差しが強かった。行進は、警察が交通整理をする中、横断幕を持った人を先頭に、うちわ太鼓を叩きながら、ひたすら「南無妙法蓮華経」を唱えて幹線道路を歩く。伴走車が「憲法九条を守ろう」「原発をなくそう」などとアナウンスして、妙法寺の若い人が沿道の人にチラシを配る。手を振ってくれたりする好意的な反応が多い。中には自転車で追いかけてきて、飲み物を差入れしてくれたおばさんや、一心に手を合わせる若い女性もいた。
行進は江ノ島駅前にある日蓮宗の竜口寺で休憩した後、再び行進して15時頃、藤沢市役所に到着。市役所から何かの部署の課長という人が応対した。武田上人が、藤沢市が全国に先駆けて「核兵器廃絶平和都市宣言」をしていることなどを高く評価して、これからも平和を守る取り組みを続けて欲しいと要請した。この後、行進の方たちが宿泊する、藤沢駅近くの藤沢カトリック教会に移動した。教会の方を交えたお茶会の後、16時頃に解散となった。教会の方に「夕食を食べていって下さい」と言われたが、用事があったため辞退した。短い行進だったが、平和を願って地道に活動している人たち、それを支える人たちが多くいることを実感した。
6月17日(火) 「集団的自衛権反対集会&デモ行進」
昨年末の秘密保護法案成立の時から、官邸前の抗議行動には何度か参加していたが、デモ行進には参加したことが無かった。抗議行動をしても馬耳東風、ノレンに腕押し、どこ吹く風で、何も変わらない。時間と労力のムダかも知れないが、後になって何もしなかったと後悔するのが嫌だった。
仕事を終えてから、会場の日比谷野外音楽堂に向かう。地下鉄の日比谷駅は、仕事帰りのサラリーマンばかりだ。本当に集会はあるのか、参加者は少ないのではと思いつつ、日比谷公園を歩いていくと、マイクの演説が聞こえてきた。音楽堂に着くと、観客席は様々な団体のノボリが立ち、中高年を中心に参加者で埋まっていた。外にも人が溢れている。主催者発表では5000人とのことだった。
集会は間もなく終わって、国会と銀座方面に分かれてのデモ行進になった。日本山妙法寺の方たちを見つけて後をついていく。妙法寺は、平和行進の予定を変更して、一連の集会とデモに参加している。東電本社前を「再稼働反対」と叫びながら通過する。銀座周辺では「集団的自衛権の行使容認反対」を叫びながら、1時間くらい行進して解散となった。妙法寺の武田上人は、締めの挨拶で「今が正念場です。これまでの妙法寺の活動の集大成と思って頑張りましょう」と述べた。
デモ行進は、少し物足りなかったが、シュプレヒコールを上げて歩くのは気分が良く、連帯することの心強さや一体感を味わい、見慣れた街や人も普段と違って見えた。微力かも知れないが、これが呼び水になって、もう少し大きな動きになるかもしれない、などと考えた。
・ machinet まちねっと http://www.machinet.jp/
・ 雄勝法印神楽保存会公認サイト 「法印神楽な奴」
http://www.geocities.jp/hoinkagura//
・ 天鼓・日本山妙法寺 http://nipponzanmyohoji.org/tenku.htm
浜田 浩之/はまだ ひろゆき
東京自由大学ユースメンバー。京都造形芸術大学通信教育部情報デザインコース卒業。フリーのグラフィック・デザイナーとして活動の傍ら、視覚障害者支援などのボランティア活動を行う。