物語るカラダ
-笠井叡・麿赤児・鎌田東二―
木村 はるみ
天使館に行かなかったら、そして笠井叡とオイリュトミーに出会わなかったら、私は崩壊していたかもしれない。舞踊への思考と身体に行き詰った20代後半の自分は、毎晩夜中に恐怖で飛び起きたりしていた。意味のない自分が怖かった。現実よりも眠りの中で夢の体験の方が圧倒的にリアルでメッセージ性を持っていた。自分の言葉に力を感じなくなり、カラダにも自信を失っていた。
笠井叡氏に手紙を書いて面接をした。今思えば笑い話のような気構えであるが、1980年初頭は、オイリュトミーや天使館は「入門」する場所であった。新宿のレストランの丸いテーブルで、コーヒーを飲みながら。一大決心の弟子入りの面接の日の過緊張と目の前で繰り広げられる不思議な光景。私の緊張を解す為だったのかどうか、目の前で笠井先生の舌が伸び、テーブルの中央まで来たのを憶えている。面接の最後に「あなたの席はありますよ。」と微笑んでくれた。旧天使館では女性の幻あるいは亡霊を何度か見た。ベルリンの壁の崩壊の話を聞いている時だった。蔵の中に蝋燭を立てみんなで囲んでいた。(当時の天使館は蔵を改造したスペースで両側に真紅のビロードのカーテンが何層かあり、小さな高窓に灯が灯っていた。床には人体に合わせたような大きなエニアグラムが刻まれていたのを憶えている。)ふと見ると蔵の外の母屋の隣の木に黒髪を長くたなびかせた若い女性が乗り出していた。そのあまりにも自然な非現実の光景。見ているのに気が付いたのは笠井先生だけだった。この人にも見えるのかと思うと安心できた。1989年は1999年よりも意味深いのだと語られていた。
レッスンは純粋なオイリュトミーであった。「もう舞踏はしません」という先生の宣言があった。やっと自分の場所を得、東京に下宿を決め、大学院に別れを告げ、「さて」と思った時、山梨でダンスの先生が突然死した。私はその後任で山梨に行くことになった。山梨では、都留文大のダンスの先生が飛行機事故で死亡、県立大学のダンスの先生が病で不在、そして私の赴任先の山梨大のダンスの先生が自家用車の中で突然死という状況だった。・・・それから30年あまりが経った。いま学生のダンスの主流はストリート・ダンスである。とはいえ、授業ではヨガやオイリュトミー、コンタクト・インプロなどを行い、学生はけっこう喜んでいる。私も嬉しい。
昨年の11月に人生のやり残しの一つ、未完であった作品Differentiationを再構築して踊ることができた。タイトルは「魂振りと魂鎮め」。京都大学こころの未来研究センターの3階大会議室で実演した。冒頭の「古事記」朗唱を鎌田東二先生にお願いした。自分の身体で時間と空間を作り出し、その中で踊る。自分で張った蜘蛛の巣に自分で絡んで行くような二重構造なのだが、心は醒めていて空間や時間の寸法を測り、時に観客の視線も見ながら淡々と終局に向かうだけだった。創作は楽しい。モノを作り出す集中の時間は輝くような苦痛と快楽の中に生きることができる。そこでは全てが肯定である。
今年の4月は京都大学西部講堂で麿赤児さんの舞台を鑑賞した。70歳の日本人の男性のカラダ。笠井先生と同年の別なカラダの持ち主である。しかし自分にはやってこないだろうカラダなので見る側に徹する。真っ赤な衣装に黒い鬣、白塗りの身体。隈取の黒い鋭い目。この世の物でない存在で観客の中に登場。動かず、語らず、しかし、存在が物語る。
赤い衣に黒い鬣、真っ白な体は、まさに天神。神話の登場人物だった。西日本の古い民俗芸能に登場する異界の存在者のようでもあった。後半での坊主頭の全裸姿での動かずに物語る肉体は、犠牲。守ってくれる楯。日本の父性の美と悲しみを象徴していた。実演後の対談の横顔は品格があって暖かく、言葉もエスプリが効いていた。後輩指導もしっかりしている方で、若者に慕われているのがわかる。
「物語る身体」としての麿赤児のカラダは、ノスタルジックな日本の父の身体を提示してくれた。現代の若者が、高所から自らの身体を物質のように何度も落そうと汗だくになって表現しようと動かずに横たわる麿赤児の身体にはかなわない。そこには何があるのか。若者を引き付ける何かでもある。
舞台の後半で兵士のようなしぐさできびきびと麿赤児の鬘や赤い衣をはぎ取って戸板に乗せて去って行った白い顔に黒タキシード姿の二人の存在は、西洋の気品と無表情を象徴していた。日本の神の姿をはぎ取られた日本人の父は、戸板に乗せられて怨念のこもるもの悲しい声を発した。言葉にならない深い悲しみと絶望の狂気の声が会場に何度か響いた。今でも耳に残る。理不尽な帰結。
麿赤児の戸板に乗せられた裸体は、自分の父親の遺体と重なった。大正生まれで何度も戦争に翻弄された父のカラダは旧帝国日本軍人の象徴でもあった。戦火を潜ったその身体は、弾丸の貫通した胸を持ち、不死身であるかのような不気味な強さを生前もあたりに醸し出していた。強靭な精神力と高潔な大和心だったのだろうか。幼い記憶には、日曜日の朝に刀の手入れをしている姿があり威厳よりは恐怖の方が大きかったが、優しいモダンな父親でもあった。戦争の話はほとんどしなかった。「全体主義は嫌だ」と言っていた。
何故か若いころ小原國芳と知り合いだったので縦割りの全人教育や自由教育を好んでいた。いま思えば、この時にすでにシュタイナー思想をそれとは知らずに聞いていたのかもしれない。
今回の舞台を60年代や70年代に見たら、今とはまた異なる迫力と意味をもったであろう。公演後の対談では、麿赤児はカッコいいブーツ姿で登場した。
京都大学西部講堂での37年前の話は、学園紛争の興奮の残るモニュメンタルな西部講堂内での身の危険を感じる状況を語った。今ではそうした危機感はないようであるが、「観客の視線のベクトル」という表現が出てくるあたりが舞踏家である。アジール(解放区)という表現もあって、西部講堂と麿赤児の身体に共通するアナーキーな位置が見えた。人間の尊厳を感じさせる「死体」を生きながらにして見せる。これは演技ではなかったように思う。存在の構えのようなもので西部講堂にも人間の尊厳の歴史が刻まれているのだと思った。
シンポジウムの時間が少なく鎌田先生は、あまり語らなかった。残念である。というか、何だかさらに別世界の登場人物として緑の装いとサングラスで端に品よく座られていた。銀色のタテガミに透き通る健康な肌の京大の学者であった。サングラスをかけると神道ソングライターになるのだと言っていた。法螺貝奏上の所作はいつもと変わらない。一瞬の構え。そして厳かに「い・き」を入れる。波動は音となり空間に広がる。いつも思うのは、奏上の際の先生のこころの向かう先である。どうもとらえどころがないのである。あまりにもイノセントなのである。ポンポンと吹き口を叩くのも儀式性が強い。約束的な音なのである。いったい誰が聴いているのか。礼儀正しい満足そうな顔。果たされた音霊の世界。
興味深いがこれは演奏論になるので、舞踊家の身体論とはちょっと異なる話題である。また鎌田東二のカラダについては声とコトバぬきでは語れない。この三人の言語体との距離は「日本」というキーワードで結ばれ、しかしまったく出方が違う。
西部講堂では演劇研究者のM先生とお会いした。笠井叡との麿赤児の類似と差異について少し話したが、的を得た言葉が見つからなかった。良く動く笠井叡に対して、麿赤児は確かに動かない。また麿氏は舞台芸術作品としてしっかりと構成された総合芸術性の中で舞踏の身体を浮かび上がらせるが、笠井氏の場合には、いきなり集中して、脱魂から招魂に入る。舞台上も舞台の外もおかまいなく動き回る。突然に別人になってみたりする。動きが激しいので息を吸い込む音がする。二人の差異は静と動のコントラストしか語れなかった。予想不可能な即興の連続の中では、脈絡のない動きが無秩序に出てくるがその中に一瞬の神聖な姿が立ち現れる。両者に共通するのは、一瞬に垣間見せる真実であり、通路であり、門としてのカラダ。独舞の孤独の中でしか見ることのできない独神(ひとりがみ)。
「古事記」はまだしも、「日本国憲法」を踊ろうなんて、誰が考えただろう。
昨年、憲法改正の論議の真っただ中、笠井叡は独りで「日本国憲法」を踊った。
彼らの世界は生きるカラダの真実で使命を果たす。
行為芸術。行為という芸術。
それがたまたま「舞踏」といわれるジャンルに入れられただけである。
舞台上のダンサーふたりのカラダは形而下のカラダであり、
その形によって形而上をリファーする。
ふたりのダンサーは、リファーの仕方がちがう。
麿氏のカラダが形而下の世界で、他の人には見えない星をリファーする象徴なら
笠井氏のカラダは形而下の世界で、天空の歌を歌い、楽を奏でる。
そして鎌田氏のカラダは、その本質を形而上に置き、
形而下に歌として流れおちる星である。
2014.7.10 木村はるみ
木村 はるみ/きむら はるみ
1957年日本生。やぎ座。東京自由大学会員。筑波大学大学院博士課程体育科学研究科満期退学。現在、国立大学法人山梨大学大学院教育学研究科身体文化コース准教授。舞踊・舞踊教育学・体育哲学。1991ロンドン大学付設ラバンセンター在外研究員、Notation法を学ぶ。1996東京大学大学院総合文化研究科内地研究員、2012年度京都大学こころの未来研究センター内地研究員。2013・14年度同連携研究員。受入教員の鎌田東二教授を通して東京自由大学のことを知る。驚く。設立趣旨に感動し入会。もっと早く知りたかったですが、今からでも遅くはないですよね。神道ソングと法螺貝が大好き。日本の宗教と芸能の関係を研究中。現在、舞踊作品創作にも取組中。ご興味のある方ご連絡ください。