境界をめぐる冒険
Ⅶ 輪廻転生のキャンパス

辻 信行

 


5月。
あらたな才能をむかえて活気づいた大学キャンパスも、桜の葉が成熟するにつれ、祝祭から日常へ、徐々にその時空間を取りもどしてゆく。ぼくが研究の拠点にしている中央大学多摩キャンパスは、東京とは思えないほど山奥にあるけれど、だからこそ、4月と5月の趣はずいぶんと違うのだ。

ついこの前まで破天荒な新歓コンパが催された桜の雑木林は、もうすっかりその痕跡も消え失せて、若葉色の清らかな風が吹きわたっている。薄暗い図書館の書庫や、せせこましい研究室にこもっているのは、もうごめんだ。水を得たイルカのように、ぼくは雑木林をスイスイ散歩しながら、思い浮かぶイメージの断片を拾い集めてゆく。

林の奥のあまり人目につかない所に、一本の細い道がある。入口には小さな看板が立っていて、この道の名前と由縁が記されている。「勝五郎の道」。ここは江戸時代、一世を風靡した輪廻転生の物語、「勝五郎再生記聞」の舞台なのだ。

 

 

 

ご存知のかたも多いとは思うが、「勝五郎再生記聞」がどんなものであったか振り返ってみよう。この話は江戸時代後期を生きた国学者・平田篤胤がフィールドワークで聞き取ったノンフィクションの「実話」である。
 
文政5年(1822年)11月のことであった。
武蔵国多摩郡中野村(現・東京都八王子市中央大学多摩キャンパス)の百姓の次男で、この年8歳になる少年・勝五郎は、姉のふさ、兄の乙次郎と三人で、田んぼのほとりで遊んでいた。そのうちふと勝五郎は兄に向かって、「兄さんはこの家に生まれて来る前、もともとどこの家の誰の子だったの?」と訊いた。

兄が「そんなの知らねえよ」と答えると、勝五郎は姉に向かって同じことを訊いた。姉は「生まれてくる前はどこの誰の子だったかなんて、どうしてそんなこと分かるの?変なこと言うねえ」とあきれて答えた。

だが勝五郎はいっこうに納得できない様子で、姉に向かって「それなら、姉さんは生まれる前のことは、なにも知らないの?」と言った。姉は「じゃあ、あんたは知ってるの?」と訊くと勝五郎は「うん、ぼくはよく知ってるよ。もとは程窪(程久保)村の久兵衛という人の子で、藤蔵という名前だったんだ」。

姉はとても怪しんで、「それならこの事を父さんや母さんに言ってみよう」と言うと、勝五郎は突然あやまって、親たちには決して言わないで欲しいと泣きはじめた。そこで姉は「じゃあ言わないよ。でもあんたが悪戯したり、言うことをきかない時はチクッてやるから」。そしてその場はひとまず収まったのである。

その後、兄弟喧嘩をするたびに、姉は「あのことを言いつけてやるよ」と言い、すると勝五郎はただちに喧嘩をやめるので、両親も祖母もこれを見て不思議に思った。いったいどういうことか、姉に訊いても答えない。なにか悪いことをしたのかもしれないと不安になって、こっそり姉を問い詰めると、しかたなく例の一件をありのままに語った。これに驚愕した両親と祖母は、勝五郎をなだめすかして真相を尋ねると、しぶしぶ次のように語りはじめた。

「ぼくはもともと程窪村の久兵衛という人の子で、母さんの名前はおしづ。ぼくが小さい時に父さんの九兵衛は死んで、そのあと半四郎というひとが来て父親になったんだ。半四郎父さんは、ぼくをとても可愛がって育ててくれたけど、ぼくは6歳になったとき死んじゃった。そしてその後、ぼくはこの家の母さんのお腹に入って生まれてきたんだよ」

両親と祖母は腰を抜かしそうになったが、子供のあどけない言葉であまりに不可解な話なので、「触らぬ神に祟りなし」のことわざどおり、相手にしないことにした。

さて、勝五郎の母親せいは、4歳になる娘に夜中に乳を飲ませる必要があった。そこで祖母のつやに勝五郎を預け、毎晩添い寝してもらった。ある晩のこと、勝五 郎は「ばあちゃん、ぼくを程窪の半四郎の家へ連れて行っておくれよ。あっちの父さん、母さんにも会いたいよ」と言い出した。つやは怪しんで相手にしなかったが、その後毎晩のように程窪に連れて行ってくれとせがむので、「それなら、どうやってこの家に生まれてきたか、はじめから全部詳しく話しておくれ」と言うと、あどけない言葉ながら、これまでのいきさつを詳しく語り、「父さん母さんのほかには決して誰にも話さないで」と何度も念を押したのだった。

勝五郎は次のように語った。
「前世のことは4歳ぐらいまでは覚えていたけど、もう忘れちゃったんだ。ぼくは前世で死んじゃうほど重い病気ではなかったけど、貧しくて薬が飲めなかったから 死んじゃった。息が絶えた時は何も苦しくなかったけど、そのあと時々苦しくて、もっとあとは全然苦しくなくなったよ。体が桶の中に強く押しこめられて、ぼくはそこから飛び出してそばにいた。山に葬られにいく時は、白くおおった厨子の上に乗ってたんだ。その桶を穴へ落とした時、すごい音が響いたから、よく覚えてるよ。お坊さんたちがお経を読んでたけど、そんなのなんの役にも立たなかった。いやになって家に帰って机に座って家の人に声をかけたけど、聞こえないみたいだった。そしたら白髪を長く垂らして黒い着物を着たお爺さんがきて、こっちにおいでって言うからついてったら、どこか分かんないけど段々になってる高くて綺麗な芝の原っぱに出たから、そこで遊んでたよ。花がたくさん咲いてるところで遊んでて、枝を折ろうとしたら小さなカラスが出てきておどかすから凄く怖かったな。


またいろんなところで遊んでたら、家で父さんや母さんが話す声や、お坊さんがお経を読む声が聞こえたけど、なんか憎らしいだけだった。食べ物の供えものは口にできないけど、温かいものはその湯気の香りがおいしかった。7月には庭火を焚くから、家へ帰ったら団子とかが供えてあった。


そんな感じでしばらく過ごしてたんだけど、ある時そのお爺さんといっしょに、ひとつの家の向かいを通ると、お爺さんはその家を指さして、あの家に入って生ま れなさいって言うんだ。言われたままお爺さんと別れてその家の柿の木の下に3日ぐらいいて、様子を伺ってから窓の穴から家に入って、またあと3日ぐらい、かまどのそばにいたんだよ。


その時この家の母さんが家を離れてどっか遠くへ行くのを、父さんと相談してた。そのあと母さんのお腹へ入ったけど、つわりで苦しい時は、母さんの外に出てそばに寄り添ってたよ。生まれた時は全然苦しくなかった。この他にもいろんなことを4歳、5歳になるまでは良く覚えたけど、だんだん忘れちゃったな」と言うのであった。


祖母はその話を聞いてますます怪しいと思い、あるとき年寄りの仲間が集まるところで、「程窪村で久兵衛という人がいるのを知っている方はおられますか?」と訊いてみると、その中にいた一人が「わしは知らんのだが、その村に親戚がいるので問い合わせてみましょう。それにしてもなぜそんなことを尋ねられるのか な?」と言うので、祖母も黙っているわけにもいかず、勝五郎のことを話したのである。


そのうち正月の7日になって程窪村からある老人が訪ねて来て、「わしは程窪の半四郎とは親しくしております。久兵衛は15年前に亡くなって、その妻の後夫になったのが半四郎といいます。半四郎は最近、人づてに久兵衛の子で、6歳で亡くなった藤蔵が、ここの家に生まれ変わったと聞いて驚いております。あまりに も不思議な話なので、ぜひ尋ねてみたいことがあるとかで、まずはわしを遣わしたというわけです」。そうして色々話をして、奇妙なことであるとお互いに怪しみつつ、老人は帰っていった。


この話は段々と多くの人の知るところとなって、野次馬もあり、勝五郎が外にでると人々は珍しがって、「程窪小僧」などと辛かったりした。勝五郎は恥ずかしがってその後は外にも出ず、父母に「だから人には言わないでといったのに」と恨みがましく言った。


こうして勝五郎は、半四郎の家へますます行きたがるようになり、また夜通し泣いていたのを夜明けにそのわけを聞いてみると、覚えていないと言ったりするようになった。それがずっと続いたものだから祖母は勝五郎に謝って、「これは半四郎のもとへ行きたいと思いつめたせいだ。これがたとえ空言だとしても、男ならともかく老女が連れて行くのであれば人もそう嘲る事もないだろう。程窪村に連れて行かせておくれ」と言うと、「そうかもしれない。どうかそうしておくれ」と勝五郎は答えた。


正月の20日になって祖母は勝五郎を一里半ばかり離れた程窪村に連れていった。「この家かい?あそこの家かい?」と尋ねると、勝五郎はまだ先だよと言いながら前に立って歩くうちに、「この家だよ!」とある家に駆けこんだので祖母もつづいて中に入った。


まず主人の名を問うと「半四郎です」、
妻の名を問えば「しずです」と言う。
半四郎夫婦は、かつて人づてに聞いたことはあったものの、祖母の語る物語を聞いてあやしみつつも涙を流し、勝五郎を抱き上げてつくづくと顔をみつめ、亡くなった藤蔵が6歳の時の顔つきによく似ていると言った。
勝五郎は抱かれながら向かいの煙草屋の屋根を指さし、「前はあんな屋根はなかったよ。あの木もなかった」などと言い、それらは全部当たっていたから、みな驚いた。半四郎の家の親族も集まってきており、その中には久兵衛の妹の乳母がいて、「久兵衛にさえ似ていますよ」と涙を流した。

さてその日は中野村に帰ったが、勝五郎がその後も程窪へ行きたい、久兵衛の墓参りをさせて欲しいと言う。源蔵はそのうちにと延期していたが、27日になって 半四郎が源蔵のもとへやってきた。お近づきにとのことであったが、勝五郎に程窪へ行かないかと言うと、久兵衛の墓参りをすると言って喜んでついて行った。 夕方には墓参りを終えて帰ってきた。


こうしてその後、暇ある時には父に連れられて半四郎のところへ行くようになり、それからは親戚として親しくつきあうようになったということである。
 

― 平田篤胤「勝五郎再生記聞」を現代語訳した


以上が、平田篤胤の聞き書きした「勝五郎再生記聞」だ。
そして「勝五郎の道」は、祖母に連れられた勝五郎が程窪村へ行くのに通った、山越えの一本道なのだ。

 

幸いにしてごく一部ではあるけれど、この道は中央大学の片隅に残存し、いまも自由に歩くことができる。ぼくはアイデアに行き詰っているとき、鬱屈した思いを抱え込んでいるとき、この道をゆっくり散歩する。そうすると少しだけ、靄が晴れてゆくような心地になれるのだ。

 

 

 

 

勝五郎の道が途切れる所に、お茶室が佇んでいる。その外観は見るからに上田秋成「浅茅が宿」の廃墟を想わせる。篤胤も秋成も同時代を生きた国学者だ。篤胤が 神学的に忠実であろうとしたのに対し、秋成はむしろ文学的創作力に長けた才能の持ち主であった。どちらも、本居宣長の「もののあはれ」に自縛された国学を 超出し、「もののけ」の神秘へと肉薄しようとした国学者であるが、ぼくは秋成の描く境界の世界観により魅かれている。

彼の代表作、怪異小説『雨月物語』から「浅茅が宿」をみてみよう。この物語は、京の都で一旗揚げ、秋には帰ってくると約束した勝四郎(まるで勝五郎の兄のようだ!)と、その妻・宮木の物語である。これは、中国の怪異小説『剪灯新話』「愛卿伝」と、それを翻案した浅井了意『伽婢子』「藤井清六遊女宮城野を娶事」に着想を得て、秋成が書き上げた物語だ。

時は戦国時代。下総国葛飾郡真間郷に、勝四郎と妻・宮木が暮らしていた。盆暗な勝四郎のせいで貧窮におちいった夫婦は、勝四郎が奮起して持ちまえの財産を絹に変え、京で一儲けして打開を図ろうとする。このとき勝四郎が宮木と交わした約束の文言が面白い。

「いかで浮木に乗りつもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此秋なるべし。心づよく待給へ」

 

「浮木」「葛」「秋」の語が不穏な色調を醸し出し、約束が破られるのを予感させることは、しばしば指摘されている。「浮木」は、「浮気」や「浮草」など、あち こちに流れゆく放浪性を表す。続く「葛」は「かへる」や「うらみ」の序詞である。語彙に造詣の深い読み手なら、これが「浮」と相乗効果をもたらして不穏に なる雲行きを察知する。そして最後に、「秋」の字は「飽き」とかかっているのだ。このように、秋成はたった二文の中に、三つの隠喩を取り入れ、約束が破られる伏線を張っているのである。

宮木の待つ関東は、享徳の乱によって荒れ始める。ほかの男に言い寄られても貞節を守った宮木だったが、約束の秋になっても勝四郎は帰ってこない。一方の勝四郎は、京でたんまり稼いだところで享徳の乱の噂を聞きつけ、急いで帰ることに決める。しかし途中の木曽で山賊に襲われ全財産を奪われた上、関所を通行する 許可を取ることもできず、次第に宮木の生存を諦めるようになり、ついに彼は近江で病に臥してしまう。児玉という家で厄介になるうちに7年の歳月が経ち、近 江でも戦乱が勃発するようになったため、時を見計らって勝四郎は一度帰郷してみることにした。10日以上かけて辿り着いた我が家。中に入ると灯りの漏れる向こうから「たそ」と訊く声がする。まさかと思ってたたずんでいると、宮木が現れるのだ。


この場面を、溝口健二監督による映画『雨月物語』(1953年) は、とても巧みな手法で表現している。家に帰りついた勝四郎(映画では源十郎)は、宮木を探して名前を呼び続ける。しかし宮木はいない。それでも彼は「宮木、宮木」と呼び続ける。勝四郎は一度外に出て、家の外壁を一周する。その間、カメラは家の中から彼を追う。土壁によって勝四郎の姿は遮られ、それでもカメラは壁を追ってゆく。画面を満たす緊張感。そして彼が再び入り口に現れる直前、土間には宮木が座り、鍋を火にかけてかき混ぜているのだ。ワンシーン・ワ ンカットの中で、ふっと宮木が現れる。小説の表現とはやや異なるものの、これほど秋成らしい世界観はないだろう。溝口監督自身、このシーンの出来栄えには 相当満足していたらしく、テイクが完成した直後、勝四郎役の森雅之にかけより、ライターを差し出してタバコに火をつけてやったという。こんなに嬉しそうな 溝口監督をみるのは初めてであったと、宮木役の田中絹代は『ある映画監督の生涯』の中で回想している。

さて、「浅茅が宿」の筋に戻ろう。久々に再会した勝四郎と宮木は、思いのたけを語り合い、仲睦まじく床についた。宮木は次のように語る。
 
「今は京にのぼりて尋ねまいらせんと思ひしかど。丈夫さへ宥さざる関の鎖を。いかで女の越べき道もあらじと。軒端の松にかひなき宿に、狐鵂鶹を友として今日までは過しぬ」

 「狐」「鵂鶹」といった動物は、霊的な世界と往還する動物と考えられていた。それを友として今日まで過ごしてきたと言うのだから、どうも宮木はこの世の人ではなさそうである。

そして案の定、翌朝になって勝四郎が目覚めると宮木は既におらず、彼らが一夜を過ごした家屋も廃墟と化していた。勝四郎は、昨夜会った宮木が幽霊であったと 悟り、廃墟の中を見渡してみる。すると寝所に、塚が盛ってあるのを見つける。そして勝四郎はこの村の事情をよく知る長老を訪ね、宮木がとっくに死んでいた ことを知る。勝四郎はその晩、長老と共に廃墟へ戻り、塚の前で手を合わせるのだった。

「浅茅が宿」と原典の「愛卿伝」を比較してみると、プロットに類似性が認められる。共に夫が故郷を離れて妻が一人残され、夫が帰郷する前に妻は死んでしまう。 それでも妻は幽霊になり、帰郷した夫の前に現れるのである。しかし、両作品における幽霊妻の描かれ方は大きく異なる。「浅茅が宿」が、家の中に何食わぬ様子で現れるのに対し、「愛卿伝」は、墓からやってきたことが明記されている。つまり、「この世」と「あの界」が同じ空間に存在しているのと、墓を媒介にし て峻別されているのとで、明らかな違いがみられるのだ。「菊花の約」にも共通するが、日常生活の中で何気なく、「現実」と「虚構」、「この世」と「あの世」を往還してしまうのが、ある意味「日本的」な境界の世界観なのではないだろうか。

村上春樹は、2003年のインタビューで次のように語っている。「現実と非現実が『雨月』の中でぴたりと接していて、その接点を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来入ってることじゃないかと思うんです」 [i]。2002年に刊行された村上春樹『海辺のカフカ』は、彼が小学生の時に読んだ『雨月物語』に影響されたと語っている。村上はインタビューの中で、「自然にすっと、こっちに行ったりあっちに行ったり、場合に応じて通り抜けができる」 [ii] 世界を構築したかったのだと語る。

 

 

『海辺のカフカ』は、2003年に中国語版が刊行され、二年余りで26万部が発行されるベストセラーとなった。中国怪異小説のプロットが『雨月物語』にコピー され、『雨月物語』の日本的な怪異世界は『海辺のカフカ』の中に融解され、再び中国へ渡り、好評を博した。中国では村上春樹に影響された若い小説家(その 中には、ペンネームで「春樹」と名乗る女性までいる)の活躍が華々しい。そういった小説家たちの作品が日本で人気を博すようになれば、「オリジナル」と 「コピー」という枠組みは完全に溶解し、相即挿入した世界観を持つ文学作品が生まれることだろう。

上田秋成から村上春樹へ。日本と中国の境界を橋渡しした小説家は、この世とあの世の境界に対して鋭敏な感受性で肉薄しようとしていたのだ。

秋成が描写した日本的な境界の世界観は、時を経て民俗学の研究対象にされてゆくことになる。そうしてぼくが「勝五郎の道」の終着点にある、「勝四郎の家」風のお茶室で民俗学の本を読んでいる時、幾度も目にするようになったのが、「喜界島」であった。


<つづく>

[i] 村上春樹・湯川豊・小山鉄郎(2003)「ロング・インタビュー 村上春樹」『海辺のカフカ』を語る」『文學界』57(4) 文藝春秋、13ページ。

[ii] 同上、14ページ。

 
 
 
辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。