ー夢の子ども

 桑原 真知子

 

 

 

   光の粒子が

   体の上に

   雪のように降り積もる

 

 

裏庭にある金柑が、今年は雀のお宿になって、子雀も親雀も寄りそって、暖と食事を取っていました。

 

 

母が少女時代に描いた絵
母が少女時代に描いた絵

 

子どもの頃の朝は、母と姉との合唱で始まりました。

夢から覚めると、そのまま布団の上で、23曲歌います。もう歌詞もうろ覚えですが、

♪森の木陰でドンジャラホイ シャンシャン手拍子 足拍子 太鼓叩いて笛吹いて 今夜はお祭り夢の国 小人さんが小人さんが にぎやかに サーホーイホーイやドンジャラホイ♪

♪これこれ杉の子起きなさい お日さまピーカピカ声かけた声かけた♪

 

で大笑い。「声かけた」が、堆肥の「こえ」みたいで、何度歌っても可笑しくて。こうして朝は他愛なく、ぷくぷく大笑いで始まりました。

 

 

 

 

戦後、広島の基町に建ったバラックの一角に、新生学園はありました。原爆孤児の養護施設で、父の戦友の上栗さんが園長を、父のすぐ下の弟の達夫叔父さんが副園長をしてたので、小さな頃は、父に連れられて、遊びに行ってました。

学園の子ども達と共有した物もあって、コドモノクニ、絵本、角川の少年少女世界文学全集も、母がデザインして縫ってもらった洋服も、子ども達の元に行きました。今考えると、お古を貰って頂いてたんだと恐縮します。

小学生の時に、犬小屋で、一緒に寝るくらい大好きだったシェパードのリョウが、300gの牛肉と共に学園に貰われて行った時には、一週間泣き暮らしました。「あなた達は、大きくなったリョウを散歩させることができないけど、新生学園には大きなお兄ちゃんもいるし、皆もきっと可愛がってくれるから」と母に諭されました。

リョウに会いたいこともあり、一人でバスに乗って、学園に通いました。通う内に、子ども達とも仲良しになりました。小さな子どもは膝の上に乗り、「お姉ちゃん、今度はいつ来るん?」と、次の約束をする迄離れません。その小さな胸の内の果てしない淋しさを、両親が揃ってる私は、ただ感じるだけでした。

運動場の片隅の、金網を張った人の背丈ほどの大きな犬小屋に、ポツンといるリョウもまた、家に居た時と違って、子ども達の気持ちを映して、漠然とぼんやりとした存在に見えました。

クリスマスには、岩国の米軍基地の人達が、子ども達を招待してくれて、一緒にお祝いしました。赤味の残るローストビーフにマッシュポテト、クラッシュした氷に入ったコカ・コーラとたっぷりの生クリームに乗ったイチゴのクリスマスケーキ、アメリカの豊かさに触れました。

少女時代の思い出と、わずかですがシンクロし、どこか一緒に大きくなった感覚がありました。

学園には、高校を卒業するくらいまで、たまに遊びに行ってました。将来、子ども達のお姉さんになりたいと、大学では教職を取りましたが、「あなたは体が弱いから、子ども達と一緒に生活するのは無理だ」との尊敬する叔父の言葉に、「また病気になっても、かえってご迷惑をお掛けする」と断念し、方向転換しました。叔父には、私に苦労させたくないという、配慮があったのでしょう。子ども達の1ヶ月一人分のおやつ代が、たった30円という、そのおやつ代を出してもらう為に、県に何十回も交渉に通ったと言ってましたから。父と母は何かある毎に、園児の保証人になってました。

時が流れ、学園は原爆孤児から、離婚した家庭の子どもを預かるようになり、場所も東広島市に移りました。

歌もない朝、あの時の子ども達は、どうしているんだろう。床一面に敷かれた、布団に眠る子ども達の光景と共に、思い出すことがあります。

 

 

「いつも心に太陽を、唇に歌を」母の好きな言葉でした。私の夢みる脳は、母の遺伝子です。


 

 

桑原 真知子/くわはら まちこ

広島県生、空見人。多摩美術大学絵画科油画課卒業。広島大学文学部考古学科研究生修了。草戸千軒町遺跡にて、遺物の漆椀の図柄の模写や土器の復元を行う。シナジェティクス研究所にてCG担当とモジュール作成などを経て、現在は魂を宙に通わせながら作家活動を行っている。