「未来は手の中に」

高嶋 敏展

 

 

「記録は未来のためにある」

 

東日本大震災の被害の大きさの前に「日本人が知っている2番目に大きな災害」として、語られることが少なくなった事件があります。

 

1995年1月17日 午前5時46分。

死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名。

阪神淡路大震災とよばれる大地震

 

1番と2番には、大きな違いがあります。

日本一高い山は冨士山だけれど、2番目は?

これは、ものごとの宿命なのかもしれません。

 

しかし、6,434名の死者には家族があり、家があり、日々の暮らしがありました。数字では測ることができない、かけがえのない事実がそこにはあるのです。

 

兵庫県芦屋市には「芦屋市民による芦屋の記録」という写真資料があります。震災直後に結成された芦屋市ボランティア委員会の呼びかけで、マスコミなどが伝えるニュース性に偏った記録ではなく、被災者やボランティアなどの市民の目線から記録を残そうと計画されました。

 

1995年2月17日から数回にわたり合計130個のレンズ付きフィルムによって2500カットの写真が残されています。この中から厳選された50枚の写真は「被災者が見た阪神淡路大震災写真展」として全国を巡回し、大きな反響を呼びました。

 

僕は阪神大震災発生の3週間後に、芦屋市ボランティア委員会の写真記録部に参加します。当時、大学の3回生でした。僕が被災地を訪れた時、被災地の写真は撮れませんでした。マスコミ報道が加熱し、被災者の皆さんがカメラを極端に嫌ったからです。カメラをカバンから出す事自体がためらわれました。

 

よそ者の視点ではなく、被災地で生きて行く被災者や駆けつけたボランティアたちの視点を残したいと考えました。このレンズ付きフィルムのプロジェクトは、写真が撮れなかった僕が悩んだ末に出した答えでした。

 

被災者やボランティアによって撮影された写真は、阪神大震災から5年、10年、15年と月日が過ぎましたが、芦屋市で阪神淡路大震災の式典やイベントには必ず展示される「記念碑」のような存在になっています。

 

記録の大切さを実感した、もう一つの事件があります。

阪神大震災と同じ年の3月20日。

オウム真理教による地下鉄サリン事件です。

 

阪神間の被災地にたくさんいた新聞記者やマスコミのカメラは、この日を境に激減します。

 

僕らボランティアは瓦礫の街と残された被災者を前に憤りました。

何が昨日と今日で変わったというのか!

報道というものは読者や視聴者の関心がなければ成り立ちません。

それが彼らの宿命なのです。

 

しかし、記録の重要さと報道の必要を語るマスコミが、あっさりと姿を消すことに疑問と不信感が残りました。それゆえに足元の視点、生活者のまなざしが伝わる芦屋の記録写真は今もって、新鮮で色あせる事がないのかもしれないのです。

 

記録は誰もが必要なことは知っています。しかし、災害時のライフラインの復旧や衣食住の確保と同じように、記録が重要なのか説明できる人間はどのくらいいるでしょう。

 

僕のボランティアの仲間たちの多くが「写真を撮って記録を残してほしい」と頼みに歩いてくれました。しかし、断られること、罵声を浴びせられることが多かったのも事実です。それは、なぜ、記録が必要か、言い切る事ができなかった僕の未熟によるものでした。

 

これから、記録を残そうとする方々のために、僕が被災地から学んだ記録の大切さについて感じた事を書いておきます。記録を残す事で歴史から学ぶこと、10年、20年の年月の先に教訓を残すことができます。

 

人間は過ちを繰り返さないと何度も誓いながら、過ちを繰り返してきました。悲しい、辛い、苦しいといった大切な記憶を人間は都合良くどんどん忘れます。それを食い止めるもっとも優れた方法は、記録を残すということではないでしょうか。

 

「記録なくして事実なし」と先人たちは繰り返し語ってきました。

 

歴史へのまなざしは、そのまま未来への可能性につながっているのではないでしょうか。

 

阪神大震災の発生当時、多くの若者たちが「何かしたい」と被災地にボランティアに駆けつけます。誰もが悩み、悶え、迷い、怒り、泣き、罵声を浴びながら「何ができるのか」と不安を抱えながら行動します。彼らや僕がとった行動は特別な事ではないと思います。誰しも必要とされていれば、お年寄りの代わりに水を運んだろうし、子供たちの遊び相手や炊き出しを手伝うでしょう。たまたま僕は「誰か」が、この事実を、この場所で記録に残すべきだと思いました。誰かがやればいいな、誰かがするべきだ、と感じた時、その「誰か」とは大抵は自分自身の事ではないでしょうか。人にはそれぞれに役割があって、それは突然、唐突に、さも当たり前のように現れます。僕にとっての役割は、あの阪神淡路の被災地にあったように思います。行動する事で「やるべき」と感じた何かは、何百倍も実現の可能性が高まります。その時が来たら、どうぞ、みなさんも自分を信じて、勇気を出して行動をしてください。

 

未来への可能性はあなたの手の中にあるんです。

 

 

 

高嶋 敏展/たかしま としのぶ

写真家、アートプランナー。1972年出雲市生まれ。1996年大阪芸術大学芸術計画学科卒業。

大学在学中に阪神淡路大震災が発生。芦屋市ボランティア委員会に所属(写真記録部長)被災地の記録作業や被災者自身が撮影記録を行うプロジェクトを 企画。1995年~「被災者が観た阪神淡路大震災写真展」(全国30か所巡回)、芦屋市立美術博物館ほか主催の「震災から10年」、横浜トリエンナーレ 2005(参加)、2010年「阪神淡路大震災15周年特別企画展」、2012年「阪神大震災回顧展」など多くのプロジェクトに発展する。

 

 

震災記録集「伝えたいあの日:芦屋市民による芦屋の記録」より

ボランティアグループとまとめ編

解説 高嶋敏展

 

撮影地:精道小学校グラウンド 撮影者:根来泰子

グラウンドに設営された仮設テントでの卒業式。送られる卒業生にも、送る在校生にも沢山の遺影が混じっていた。一歩、街へ出ればおもちゃと一緒に供えられた花束などをよく見かけた。たまに小学校から「ボランティア活動の話しをしてください」と依頼があって出かけたが、教室には歯抜けになった机とイスが沢山あった。被害の大きさと消えた命の事を思い知らされた。子供が死んだ話しはいたたまれなくて、聞かされた誰もが落ち込んだ。

 

撮影地:不明 撮影:深山哲生 (芦屋市ボランティア委員会)

更地になった自宅跡を眺める男性。再建や住む場所の予定など何も決まっていないと男性は話してくれたそうだ。この種の風景は頻繁に見られた。悲劇があまりに身近になりすぎると感性が麻痺をしてくる。記録写真を撮りながら「もっとショッキングな映像を」と期待するように被災地の現場を探す自分達にぞっとした。撮影をした深山哲生は3.11以後、夫婦で原発のない南米、パラグアイに移住した。

撮影地:東芦屋町 撮影 渡辺晶子

撮影地は被災した友人の自宅の庭だそうだ。渡辺さんは新聞の記録カメラマン募集の記事を見て参加してくれた。後で知ったが関西では有名な現代アーチスト。「MY  PLACE 」という紙を持ってもらい撮影した写真が何枚か届いた。どの写真も自分が大切だと思う、思い出のある「自分の場所:MY  PLACE」で撮影されていた。記録活動の主旨に賛同しつつ自分のまなざしを残す。良質なアーチストの姿勢だと思う。

 

撮影地:津知町付近 撮影者:田中譲

倒壊した自宅の前で記念写真を撮る引っ越す直前の家族。なぜ、この状況でこんなに明るく笑えるのか。写真展を見に来た多くの来場者が疑問に思い、また、励まされた。この写真の家族がどうなったのか知りたくて当時、随分調べたが連絡先住所が避難所になっていたので消息はわからなかった。震災10年後に精道小学校を訪ねたら、この写真の中の子供たちが元気に通学していると伝え聞いた。子供たちは今、どこで何をしているのだろう。