アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その5   

鎌田東二

 

 

 

10、鳥山敏子姉の「東京賢治シュタイナー学校」と「東京自由大学」

 

今回は、わが姉・鳥山敏子と東京自由大学との関係を語ってみたい。

 

というのも、姉として敬愛する鳥山敏子が2013107日の午後757分に72歳で急死したから。そして1221日に「鳥山敏子先生を偲ぶ会」が行なわれ、出席して姉・鳥山敏子に別れの言葉と歌を捧げたから。

 

鳥山敏子はその日の朝まで、「東京賢治シュタイナー学校」の一教師として、小学校3年生の子どもたちの前に立って教えていた。今ではとても早い死といえるが、彼女の一生はすばらしい生涯だった。余人には真似のできないただ鳥山敏子その人の生涯であった。

 

その嘘偽りのない一生に、心からの敬意を表したい。また、わが魂の姉として心からの尊敬と愛情を捧げたい。

 

鳥山敏子が行なったのは革命、それも教育革命であり、そこから始まる「世直し」だった。それをたった独り、女一人で始めたのだった。その鳥山敏子の魂は不屈だった。その果敢な闘いは革命的である。

 

「鳥山敏子先生を偲ぶ会」の後の、NPO法人東京自由大学での「震災解読事典第6章 震災と宗教」の特別企画講座で、わたしは末法の時代の宗教界の革命児法然にたとえてみたが、今考えるとそれもふさわしいたとえではなかった。

 

法然が生きた時代は末法の時代であった。正法が衰退する末法の時代においては、聖道門という正規の修行などを悠長に行っている余裕も能力も環境もなかった。あらゆるチ縁(霊縁・血縁・地縁・知縁)が崩落していく時代にあって、確かなものは自力による悟りの獲得、つまり即身成仏などの自力成仏ではなく、絶対他力による救済によるほかなかった。

 

その救済原理を法然は経典の深読から導き出し、『選択本願念仏集』を著し、称名念仏による救いの原理と実践を示した。それは、貴族仏教でも鎮護国家仏教でもない、新しい個の救済の仏教の登場であった。絶対他力によって「安心」を得ること、そして極楽往生すること、それが約束されていることを深く信じること。一心に念仏を唱えること。

 

法然は、確信を以って新しい仏法の形を世に示したのである。

 

鳥山敏子はどうであろうか?

 

1941103日、鳥山敏子は広島県で生まれた。そして、2013107日、鳥山敏子は東京都立川市で没した。亡くなった日の朝まで鳥山は「東京賢治シュタイナー学校」の一教師として子供たちの前に立っていた。最後まで現場で、最前線で闘い、その生涯を全うした。

 

鳥山は、日本が戦争に突入する直前の1941年に広島県に生まれたが、一家が香川県引っ越ししたので、香川県で育ち、香川大学教育学部を卒業した。そして、東京都青梅市で小学校の教師となった。以後30年間、東京都の公立小学校の教員を続けた。

 

わたしはこの時代の鳥山敏子を知らない。鳥山が1994年に職を辞して「賢治の学校」を作り、1997年に立川に拠点を移して「東京賢治の学校」と改称して本格始動し出した頃に鳥山に頼まれて、その「東京賢治の学校」の講師を務めたから。たった2年間だったけど。

 

東京都の公立学校教師時代に、鳥山は、ニワトリを殺して食べる授業を行なっている。それも凄いことだが、さらにそれを進化させて、児童たちとブタを飼育した後で一頭丸ごと食べる「いのちの授業」を行ない、物議をかもしたのだった。

 

こんなことが、一人の女教師によって実現したのだ。それは、教育革命というほかない、見事な教育実践であった。法然革命が死後の救済と安心であるとするなら、鳥山革命とはいのちの目覚めと自覚と覚悟であったといえる。

 

「いのち」が「いのち」であることの生のかたちを、身体的にまるごと感受することなしに、「いのち」の尊厳も根源もわかるわけがない。「命を大切にしよう」などという口先だけの道徳訓では、心の底から「いのち」を畏怖・畏敬し大切にできる子どもは育たない。鳥山はそう確信していた。

 

口あたりのよいだけの甘い言葉などではなく、真に「いのち」を大切にできる深く優しい心と体に育っていくこと。鳥山がめざしたのはそのような身心であり、さらに言うなら、それを支える「たましい」の教育であった。

 

それが宮沢賢治とルドルフ・シュターナーの教育実践に向かわせ、前人未到の「東京賢治シュタイナー学校」の設立となったのだった。そこでは、小学校1年生から12年生、つまり高校3年生までがたった1つの学び舎で生活を共にする。まったく新しい「心身霊の教育共同体」を鳥山は作り上げたのだ。その過激で本質的な教育実践は、日本の教育界においては過激で異端的な仕業とみられがちだが、必ずやこれからの大切な教育羅針盤となるだろう。

 

そう信じて疑わない。昔、最澄は比叡山に「国法養成機関」として「一乗止観院」(後の延暦寺)を開き、『山家学生式』の中で、「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則(すなわ)ち国宝なり」と宣言した。「道心」を持って「一隅を照らす」活動を続けている人こそ菩薩道の実践者であり、「国宝」である。最澄のこの「国宝」観を以ってすれば、鳥山敏子こそ「現代の国宝」といえるだろう。

 

その比叡山延暦寺の根本中堂は、今、文化財としての「国宝」に指定されている。そしてその根本中堂の手前に宮沢賢治の次のような石碑が建っている。

 

根本中堂

 

ねがはくは
  妙法如來
  正遍知
  大師のみ旨
  成らしめたまへ

 

宮沢賢治

 

実は、2013921日、宮沢賢治の命日に、この石碑の前で81回宮沢賢治忌が行なわれ、それに参列した。仙台の東北大学での「日本スピリチュアル学会&アジア太平洋パストラルケア・カウンセリング学会合同大会」から京都に戻ってきたばかりのわたしは、そのまま沖縄・久高島に移動する前に、この第81回宮沢賢治忌に参列し、比叡山会館で「宮澤賢治の宗教と文学」と題する講演をしたのだった。

第81回宮沢賢治忌
第81回宮沢賢治忌
横山照泰比叡山行院院長さんの法話
横山照泰比叡山行院院長さんの法話

19214月、宮沢賢治は父宮沢政次郎とともに、比叡山延暦寺に参詣した。そこで上記の歌を詠んだ。この年の1月、花巻を出奔して上京。国柱会の布教師になろうとしたが止められ、挫折し、出版工の仕事をしていた賢治を、父政次郎が関西旅行に誘い、父子共々比叡山を参拝したのだった。

 

宮澤賢治を敬愛するわたしにとっては記念すべき機会であったが、そのほぼ2週間後に、「東京賢治シュタイナー学校」の創立者の鳥山敏子が死去するなどと夢にも思わなかった。嗚呼、姉ともっと話をしておけばよかったと、後悔する気持ちもないことはないが、いや、彼女はすべてのことをこの世に公開してあの世に渡って行ったのだ。鳥山敏子と対話することはこれからもできる。できるはずだ。いや、しなくてはならない。そう考えるのだった。

 

1221日の朝9時半から立川の「東京賢治シュタイナー学校」で「鳥山敏子先生を偲ぶ会」が開かれた。新宿から立川に向かう電車の中から雪の富士山がきれいに見えた。

 

その富士山を見上げながら、「姉さん、あなたは富士山のようでした。美しく、雄大で、孤高で、崇高で、しかもたくさんの人に愛されました。あなたのその生き方は、これから多くの人に語り継がれるでしょう。そしてその遺志は、あなたが教えた子どもたちや関係者の中で生きつづけ、はたらきつづけるでしょう。あなたはこの世で着実に使命を果たして、あの世に旅立っていきました。この世でのお務め、本当にありがとうございました。あなたの遺志をわたしも弟として受け継いでゆきます。見ていてください。見守っていてください。オナリ神のように。わが姉鳥山敏子よ!」と呼びかけた。

 

わが姉・鳥山敏子は、この世のミッションを着実に果たしてあの世に旅立った。そのことをわたしは信じて疑わない。

 

今からちょうど15年前の1998年の11月の末、わたしは鳥山敏子にそそのかされて「神道ソングライター」になった。1997年から99年にかけて、2年間、わたしは「東京賢治の学校」で月一回連続講義を行っていた。97年度は「悪について」、98年度は「幸福について」をテーマにして。

 

その199811月の講義の最後で、突然、鳥山敏子が、「ところで、鎌田さんは歌わない?」と問いかけたのだった。どのような意味で、鳥山がその言葉を発したのかは、今はもう確かめるすべはない。

 

だがその言葉はわたしにアクションを起こさせた。その翌日、大宮の楽器店でタカミネのエレアコ・ギター(今も愛用のもの)を買って、すぐさま「日本人の精神の行方」「探すために生きてきた」「エクソダス」の3曲を作詞・作曲して、歌い出したのから。

 

それが「神道ソングライター」としての出発だった。19981212日、浦和教育会館でその3曲を歌い、神道ソングライターとしてデビューした。そしてちょうどその頃、19981125日に、わたしは東京自由大学の設立宣言書を書いていたのであった。鳥山に「歌わないの?」と問いかけられたまさにその頃に、わたしは東京自由大学の理念を言葉に発していたのだった。

 

だから、わたしにとって、「東京自由大学」と「神道ソングライター」の活動は、同源・同朋・兄弟姉妹である。分けることはできない一体のものである。

 

そのいきさつを、201417日に発売される『歌と宗教――歌うこと。そして祈ること。』(ポプラ新書、ポプラ社)の冒頭に書き、この本をまるごと姉・鳥山敏子に捧げた。実際、鳥山敏子がいなかったら、彼女のその一言がなかったら、わたしは15年前に「神道ソングライター」になることはなかったのだから。

 

「神道ソングライター」としての15年目の節目の年に、わたしをけしかけた張本人の姉・鳥山敏子は逝ってしまった。それは確かに寂しいことだけれど、しかし同時に、粛然と襟を正されることでもあった。喝を入れられた。

 

「あんた! しっかりなさい! やるべきことをやってから、こっちへ来るのよ! そうでないと、承知しないわよ!」と叱咤激励されている感じがした。姉は激しい人である。人をその根源のところから、素のところからひっくりかえして燃焼させてやまない人である。嘘を許さぬ人である。正直さの根源に果敢に掘り進んで止まぬ人である。

 

その鳥山敏子がわが身を削ってたましいを注ぎ込んだのが、宮沢賢治とルドルフ・シュタイナーの精神と思想と教育方法に基づく「東京賢治シュタイナー学校」である。http://www.tokyokenji-steiner.jp/characteristic/

 

「鳥山敏子先生を偲ぶ会」で上松佑二さんの後、子安美知子さんの前に鳥山敏子への別れの挨拶をした。1996年に初めて鳥山敏子との出逢ったこと、そしてその2年後の1998年に「神道ソングライター」となったいきさつを短く語り、「その責任を取ってもらいます。」と言って、遺影に向かって、アカペラで神道ソング「この光を導くものは」を歌った。

 


  この光を導くものは

この光とともにある

いつの日か輝き渡る

いつか いつか いつの日か
  

あなたに会ってわたしは知った

このいのちは旅人と

遠い星から伝えきた

歌を 歌を この歌を
  

導く者はいないこの今

助ける者もいないこの時

いのちの声に耳を傾け

生きて 生きて 生きていけ



そして、力いっぱい感謝と別れの法螺貝を吹いた。姉の魂に届けと。魂の姉の過激な遺志を受け継ぐという誓いとともに。

「鳥山敏子先生を偲ぶ会」が終わり、「東京賢治シュタイナー学校」の教室や校舎を見学しした。そして、心の底から感動したのだった。そして、心の中で叫んだ。

 

「姉さん! あんたは偉い! 凄い! 本当に凄い! よく15年でここまで築き上げることができたね。本当に、凄い。立派です。この教室と校舎は、プレハブみたいで、一見粗末に見えるけど、大阪城や江戸城よりもずっとずっと素晴らしく、立派です!」と叫んだ。東京賢治シュタイナー学校の教師の方にもそう伝えた。

 

鳥山敏子の前任未踏の闘いは不屈であった。鳥山にしかできない魂の叫びであり飛翔であった。この上なく正直にまっとうに生きた。

 

その「東京賢治シュタイナー学校」と「東京自由大学」とは姉妹校・兄弟校であるといえる。何よりも、設立発起人の鳥山敏子と鎌田東二が姉弟なのだから。この二つの「学校」は同じ精神と理念を共有している。また同じ時代意識や問題意識を共有している。

 

この2年、NPO法人東京自由大学では、「久高オデッセイ」など大重潤一郎の記録映画の上映会を定期的に行なっている。それと並行して上映しているのが、鳥山敏子とタッグを組んで、「鳥山先生と子供たちの11ケ月」(1984年)や「せんせいはほほーっと宙に舞った-宮沢賢治の教え子たち」(1991年)を作った四宮鉄男監督の記録映画作品である。

 

これもまた深い縁というほかない。今、その四宮鉄夫監督が大重潤一郎を記録する『わが友大重潤一郎』を作っている。「縁は異なもの」、いや「縁は偉なもの」と、現代の縁の行者である鎌田東二は思うのであった。ああ、なむあみだぶつ。なみみょうほうれんげきょう。かんながらたまちはへませ!さらば、鳥山敏子、わが姉よ。また逢う日まで!

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

 

1951年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト