―冬のほほ―

桑原 眞知子

 


庭の山茶花が咲きこぼれ、濃いピンクの花びらが、冬のほほを染めています。
久々に、海を渡りました。三原港から瀬戸田まで、40分の小さな船旅。空と海とに二分され、島影が連なる開けた視界に波しぶきがかかり、海が好きだった父を想いました。

私の父は大正10年、広島の県北で生まれました。幸せな幼少時代を過ごし、戦争の影が色濃くなった季節に、東京の大学に在学中に学徒出陣で出征しました。
日 清戦争以来、軍都であった広島には、広島城に仮の日本政府である大本営がありました。兵士になった人たちは宇品港から船に乗り、アジア侵略の戦争に駆り出 されて行きました。日清、日露、第一次、第二次世界大戦とこの港から出征して行った兵士の数は、600万人にも及びます。
父の部隊は、中国南部か ら北部へと進軍し、終戦間際に中国とソビエトの国境近くで中国軍に捕り、捕虜になりました。強制労働の毎日に、一日一個の馬鈴薯で飢えをしのぎ、一年後に 解放された時には、栄養失調の為に、目が見えなくなって帰って来たそうです。捕虜のお世話をしてた中国人の方には、命を助けてもらったと話してました。シ ベリア送りになった、父と同じ部隊だった方たちは、全員収容所で亡くなられたそうです。
マラリアの後遺症にも苦しみました。
そんな激動の時代を、必死に生き抜いて、最後にたどり着いたのが、介護ベッドの上でした。

  天に帰る準備をしている  父の側で
  地上を彩る
  赤く色づくカエデや黄色のクリの葉に
  私の心は 動かされている

12月に、父の三回忌を迎えました。亡くなる10年前に最初の脳梗塞を発症しその後、2度の脳梗塞を経て、最期もまた脳梗塞で逝きました。
大きな木が徐々に弱って、葉のキラメキも薄くなり、枝や幹がゆっくりと、10年の歳月をかけて、枯れて倒れて行く様子を、在宅介護で看続けました。家庭内を病院化するのは、かなり不自然なものでした。
認知症で、嚥下障害と言語障害を持つ父に、酸素マスク、痰の吸引、胃朧による流動食、24時間体勢の断続的な眠り。いつ終わるとも知れない介護生活に、父より先に、私が逝ってしまうと感じることもありました。
10年という介護生活はとても長くて、社会との繋がりが、病気の父を通してと稀薄になり、父と2人で過ごす時間が多かったので、気づくと自分自身も、長いセンテンスを結べなくなってました。
ご縁を得て、EFGに書かせて頂いてるのは、言葉を思い出すリハビリでもあるように思います。
日常生活の、バランスが取れてなかったことにも気がつかないくらい、『父の生命』を守る為に、必死でした。
漫画の様ですが、まだ刻み食を食べてた頃、うどんが喉に詰まり、仮死状態になった時には、とっさに掃除機のホースで吸い取って、息を吹き返したこともありました。
また何時だったかは、細かくちぎったティッシュを、畳一畳分ほど一面に、7cm間隔に規則正しく置いていて、白い花が、クーラーの微風に、一斉に震えて咲いていたこともありました。もしかすると、遠い記憶の奥底に眠っていた「田植え」を思い出したのかも知れません。
今では、数限りない思い出の一部です。

『生老病死』、一人の人の人生の軌跡を想う時、様々な場面で、重い修行を重ねて来たと感慨深いです。先を歩く人は、病や死や生の有りようを、教えてくれてるように思います。父の介護は、大きな勉強でした。不可思議な、人間という存在を知っていく。

―『時間の矢』は前に進むだけで過去には戻らない 時間には未来しかない―

両親がいなくなり、宇宙の孤児になったような心持ちがしていますが、この深淵な天の縁に立ち、人として、やっと自立できる機会を与えて頂いたんだなとも感じています。
母は時々、天から雨のように降りそそぎ、ほほに触れ、私の身に沁みてくれます。

 
 
 

桑原 真知子/くわはら まちこ

広島県生、空見人。多摩美術大学絵画科油画課卒業。広島大学文学部考古学科研究生修了。草戸千軒町遺跡にて、遺物の漆椀の図柄の模写や土器の復元を行う。シナジェティクス研究所にてCG担当とモジュール作成などを経て、現在は魂を宙に通わせながら作家活動を行っている。