海を渡る まれびとたち

「久高オデッセイ第三部 風章」制作ノート05

大重 潤一郎

 

 

 

今までは、久高島の営みに寄り添うため、久高島の人と話し、またカメラも久高島の自然と人を見つめていた。しかし、最近は島外から移り住んだ人や、訪れる人たちにも対峙するようになった。他所の人によって、島の人々の暮らしや様子が微妙に新陳代謝をしているように見えてきたからである。

 

最近の島通いで、出会った三人の若い人を簡単に紹介しよう。

十一年前に建った久高島留学センターも、島にとっては大きな存在だ。もちろん順調なばかりではなく、悲喜こもごもであったと思う。その留学センターで、設立時から代表をしている坂本さんの他、順子さんという女性と渡邊塊(かい)さんという男性がスタッフとして働いている。順子さんは食事作りや畑仕事などを担っていて、しっかり且つ控えめな方である。塊さんはNYの音楽大学でクラシックを勉強していたという方である。

©比嘉真人
©比嘉真人


もう一人は、山崎紀和さん。彼は久高島の砂浜で一年半野宿をして暮らしていたという。
今は、島の古い一軒家に住みながら、久高島交流館(島中央にある宿泊施設)で働いている。絵描きでもある。久高の人から聴いた情報をもとに描いたという絵を見せてもらった。そこには、国土地理院がつけた地名ではなく、島の人たちの呼び方が書き込まれていた。見事なものであった。

©比嘉真人
©比嘉真人

他所の人から見た久高島は他所の人ならではの視線がある。日常で暮らしている人には、当たり前になってしまっていることが、他所の人には新鮮に映り、新しい発見があるものだ。残る期間の撮影では、両方を追っていきたいと思う。

 

 

十二月十四日―四日間、久高島へ取材に行った。いつもは、島の儀礼やイベントに合わせて取材日を決めていたが、今回はそういう目的を持たずに、島の日常を垣間見ようと、目的のない取材であった。

朝の日課としている早朝の車椅子でのドライブ。十五日の早朝は、島の西側にある漁港へ行った。すると、見慣れない双胴船(タカマラン)が停まっている。急いで駆け寄ってみると一人の男性がいた。少し話をしていると、小さく見えていた船の中からズルズルと合計八名近く出てくるので驚いた。内名は谷さんを訪ねに来た、ヤンバル在住で木船を作っているという荒木汰久治さんの家族だった。彼らはその日のうちにフェリーで帰っていった。

双胴船の船長は、谷さんといった

奥さんと、三人の子ども(七歳、五歳、一歳半)と奄美・加計呂麻島から船の旅をしている最中といった。年間の半分は海の上で暮らしている。

その日の午後、私たちが留学センターで頂いたばかりの野菜と谷さんが海で獲った魚で夜は鍋をして一緒に頂いた。

©比嘉真人
©比嘉真人


 

今の時代にこういう家族がいるものだなぁと感心した。

 

その谷さん一家が久高島を出た後、慶良間諸島に向かい、阿嘉島で停泊しているという。私たちも二十八日から三十日まで、彼らを訪ねに出かけた。

阿嘉(あか)島と慶留間(げるま)島は、私が沖縄に来て初めて降り立った地である。当時、沖縄県史で沖縄戦の証言収集が始まるとき、お手伝いしていたことがあった。

江戸期、中国皇帝への進貢船の船員は慶留間島を始め慶良間の人が多かった。その慶留間島の人には私の故郷・鹿児島県坊津の自分の一族と顔のそっくりな人が見受けられたものだった。同じ頃、薩摩への飛船や東南アジアへの交易船の船員は久高島の人だったと言われている。そういうこともあり、慶留間島は久高島の次に心に残る場所であった。

 

しかし、今回の旅で愕然とした。歴史ある場所だった阿嘉島と慶留間島は、水中ダイビングの観光事業で半分は島の外から来た人たちとなっていた。阿嘉島には、まだ地元の人の農業が半分位残り、生活臭がある。しかし、慶留間島には農業は全くなく、団地が立ち、ほとんどの人は教師や公務員の仕事に携わっている。よって、島には生活臭がないのだ。慶良間諸島は、沖縄戦でアメリカが初めて上陸した土地である。島の人々が集団自決をした初めての島でもある。しかし、そういった沖縄戦の痕跡も全て消され、島で語られることもないといった雰囲気を感じた。

 

世界で五本の指に入ると言われるほど、夏の慶良間諸島はエメラルドグリーンに輝く。冬だからそれは見られなかったが、返ってよかったと思う。

 

改めて、まだ生活臭の残る久高島の良さを再認識した。

 

久高島が外から来た人によって見出されたり、また我々自身も他島を見ることによって久高島の良さを知ることができた旅であった。

©比嘉真人
©比嘉真人

インタビュー・構成 髙橋あい


 

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一月十二日東京自由大学での上映会では、「原郷ニライカナイへ 比嘉康雄の魂」の上映を行う。わたしが「久高オデッセイ」を撮るきっかけとなった大切な作品である。

 

比嘉康雄は二000年五月十三日、その一ヶ月足らず前に医師に宣告された「末期ガン」で六十一歳の生涯を閉じた。その直後に出版された「日本人の魂の原郷・沖縄久高島」で、彼は「この民族の歴史を、シマ人たちは、近代のように固定された記録として伝えるのではなく、血族の祖霊たちの存在を皮膚感覚で感じ取り、祖先との一体性を実感する中で継承してきた」と書いている。死を目前に、生まれたばかりの初孫をあやす彼の姿はあくまで平らかである。それは、自らの魂が原郷ニライカナイへ帰り、やがて再生するという確信を得た姿であった。琉球弧の古層へわけ入り「人間とは何か、自分とは何か」と求め続け、祭祀を通して神々との世界を発見するに至る過程は、人類史にとってもかけがいのないことと言わねばならないだろう。比嘉康雄は貴重な祭祀の記録とともに、今世における永遠なる姿を残していつまでも私たちとともに在る。

 

私も東京へ上京する予定があり、当日は会場に足を運ぶ予定です。お誘い合わせのうえ、是非、お越し下さいませ。

 

 

 

大重 潤一郎/おおしげ じゅんいちろう

映画監督・沖縄映像文化研究所所長。NPO法人東京自由大学副理事長。
山本薩夫監督の助監督を経て、1970年「黒神」で監督第一作。以後、自然や伝統文化をテーマとし、現在は2002年から12年の歳月をかけ黒潮の流れを見つめながら沖縄県久高島の暮らしと祭祀の記録映画「久高オデッセイ」全三章を制作中。久高オデッセイ風章ホームページ