異界への風穴

石井 

 

 

 

貞観4(862)年、慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる、霊場恐山。高野山と比叡山とともに、日本三大霊場のひとつにあげられている。先日、かの霊場に初めて足を踏み入れた。高野山や比叡山には何度も行っているのだが、恐山には、行きたいと思いつつ、これまで行かず仕舞いだった。それが、考古学の師である小林達雄氏が「恐山には縄文が残っている。是非とも行ってみたい。」と呑みの席で言う。「恐山であれば俺も行きたいです!」ということで、ついに行くことになった。

 

私が抱いていた恐山のイメージは、おどろおどろしい異界、あるいは、霊の集まる怖い場所というステロタイプのものでしかなかった。そのような異界に対するイメージを植えつけられたのは、いったい、いつの頃だったか。

子供の頃をふりかえってみると、通っていた地元の小学校の近くに、「くじらの森」と呼ばれるこんもりとした森があった。遠くから眺めると、鯨の姿に見えるため、みんながそう呼んでいた。住宅地のはずれに位置する鯨の腹の中には、一軒の古びた家があった。屋根は今にも崩れ落ちそうで、窓もひび割れ、全体が傾いている。ある時、その家にはヤマンバが住んでいるとの噂が、子供達の間でささやかれた。夕方、くじらの森を通りかかると、包丁を片手に握りしめたヤマンバが家のそばに立っていた、という目撃談まであった。そのうちに森は切り拓かれ、今では住宅地に変貌している。

 

私にとっての異界のイメージは、その「くじらの森」である。得体の知れない妖怪が蠢く、暗く不気味な森。日常の空間に、ぽっかりと空いた黒い穴。怖くて近づき難いけれど、なぜか惹きつけられる。十年ほど前、『異界への風穴』というテーマで作品を連作したこともあったほど、異界へと通じる「穴」にとらわれたこともある。おそらく、恐山に対しても、そのような暗い異界のイメージを重ねていたのだろう。

 

それとは別に、恐山と聞いてすぐに思い起こす一枚の写真がある。1960年代に岡本太郎が恐山で撮影した、イタコのモノクロ写真だ(岡本太郎の著作『神秘日本』(1964年、中央公論社)の口絵にあるが復刻版や全集には所収されていない)。 幾重の布に包まれた、なんとも不気味な二体のオシラサマ。それを両手で捧げるイタコの姿が、恐山のイメージとして私の脳裏に焼きつけられていた。それが、おどろおどろしい異界のイメージとあいまって、ずっと気がかりになっていた。

学生時分に、岡本太郎に触発され、琉球創世神アマミキヨが舞い降りたとされる沖縄の久高島へは渡ったことはあった。久高島に知己の大重潤一郎監督が、島に居住していたということも大きかったが、そこでの体験は強烈だった。そのこともあって大きな期待を胸に、寄り道をしつつ、恐山へ向かった。

 

ところが、霊場の入口で私たちを待ち受けていたのは、抱いていたイメージとはまるで別物の整備された小奇麗な観光地。「こんなものなのか」と思いつつ、総門をくぐり抜けると、眼前に現れたのは、またしても整った石畳に、整然と立ち並ぶ恐山菩提寺の本殿や地蔵殿。

向かう車中は、全員一度も恐山に足を踏み入れたことのない面々。「むやみやたらに入ってはいけない場所」など、それぞれのイメージだけで会話をしていたため、一同、拍子抜けしてしまった。たしかに、1950年代以降、恐山は観光ブームに湧いたとはいえ、ここまで整備された場所だとは思いもよらなかった。複雑な思いを抱きつつ、順路を示した観光案内板を頼りに、地蔵殿脇の岩場へと入る。

 

すると、景色が一変した。あたりに一帯に漂う強烈な硫黄臭。ゴツゴツとした白い岩がむき出しのまま林立している。荒涼とした風景。それまでの光景とのあまりのギャップに、立ちくらみしそうなほどの違和感を覚える。何かがおかしい。視界が歪む。平衡感覚も狂う。右脳が異様に疼く。空間が、グニャリとよじれているとしか思えない。ヨタヨタしながら、無数の積み石に惹きつけられつつ、岩場を進み、高台に立った刹那、眼前に広がる光景に唖然とした。

 

見渡す限り、白い大地。

白い岩石と白い砂。

スカイブルーの空。

エメラルドグリーンにターコイズ、セルリアンブルー、コバルトブルーに染まる湖面。

そして、天空と湖の間に屹立する、深い緑に覆われた三角形の神奈備型の山。

外輪山に囲われたカルデラ湖とその周辺の空間は、異界としか言いようがない。それも、私が抱いていたおどろおどろしいイメージの異界などではない。「黒い穴」とは、まるでかけ離れた、神々しいまでの清浄なる空間が広がっていた。

 

岡本太郎は、恐山を「死者と生者の交流の広場。不当に死んだ魂と、ただ今、この世で現し身の重荷に耐えている人たちの生霊が、親身にふれあう、魂の広場」と表現した(岡本1964)。旅立つ前、小林達雄が「恐山に縄文が残っている」と言っていたのにも肯ける。小林が「縄文モデルムラ」と呼ぶ、縄文時代の環状集落の空間デザインは、中央の広場を囲うようにして、墓穴群が巡り、その外側を掘立柱建物群、さらに外側を竪穴住居群、さらには貯蔵穴群が同心円状に巡るものである(小林1996)。

つまり、縄文時代のムラは、死者と生者が渾然一体となった空間であり、縄文人は死者と生者が交流する「魂の広場」で生活していたのである。

 

死者と生者が集い、両者の魂がふれあう、あの世とこの世の結び目である縄文的な広場。その、静かな波が寄せる白砂の浜に立ち、宇曽利湖に浮かぶ神奈備の山を仰ぎ見る。土地の人が「お山さ行ぐ」というのは、死ぬことを意味する。死者の霊は、恐山に還っていくと信じられているからなのだが、その「山」は、湖面に浮かぶひときわ高い、あの山ではないのか。目に見えない他界が、すぐ眼の前に広がっているかのような錯覚にとらわれる。

 

その瞬間、ふと、遠く離れた久高島の伊敷浜の景色が脳裏をよぎった。伊敷浜は、他界から五穀の入った白壺(瓢箪)が寄り付いた伝説の地であり、久高島の御嶽のはじまりは、その壺にあった植物の種が繁茂したことによるとも伝えられている(畠山篤2007)。

沖縄の常世の国、ニライカナイからの波が白浜に押し寄せる。一方、地理的にもまったく異なる下北半島の山中、恐山の湖の波打ち際。海と山、二つの渚の光景が、私の中でピタリと重なり合う。吹き寄せる異界の風を、肌で感じとる。

 

「この世のなぎさは常世浪の押しよせるところである。」と述べたのは、先日、他界へと旅立った谷川健一である。また、その直前の文章では、現世と他界の接点である波打ち際について、次のようにも語っている。

この世とあの世はまったく相似の事象を反映する合わせ鏡である。そこでこの世のなぎさと常世のなぎさがあるのはとうぜんのことであった。これを一冊の書物にたとえてみると、その開かれた左右対称のページはそれぞれこの世であり、あの世であって、その中心軸にあたるものが、なぎさであった。」(谷川2013

 

恐山の「なぎさ」に立った実感と、ピシャリと合い、腑に落ちる文章だ。

 

個人的な話になるが、母が他界し、間もなく一年が過ぎようとしている。恐山に行けば、もしかしたら、母に逢えるかもしれないとも思ったが、それは叶わなかった。私が、初めて人の死を看取ったのが母である。静かに、静かに息をひきとっていく母の耳元で、最期の別れの言葉を告げたが、それは届いたのだろうか。

 

死者たちは、私たちの日常のそこかしこに横たわる「なぎさ」の向こう岸で、こちらを見守ってくれている。

異界への風、異界からの風は、今も、あちらとこちらで吹いているのだから。

 

 

【参考文献】

岡本太郎 1964『神秘日本』中央公論社

小林達雄 1996『縄文人の世界』朝日選書557,朝日新聞社

谷川健一 2013『魂の還る処 常世考 死んだらどこに行くのか』やま かわ うみ別冊,アーツアンドフラフツ

畠山篤 2007「久高島の初穂祭(朝拝み)と穀物起源伝承島の祭祀」『弘前学院大学文学部紀要』第43

 

 


石井 匠/いしい たくみ

 

1978年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(歴史学)。専門は芸術考古学、芸術人類学。研究対象は、縄文土器や現代の石神、岡本太郎にアイドルまで「日本文化」のあれこれについて考えている。現在、國學院大學研究開発推進機構PD研究員・國學院大學博物館学芸員(嘱託)、京都造形芸術大学・多摩美術大学非常勤講師、多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員、岡本太郎記念現代芸術振興財団『明日の神話』再生プロジェクトスタッフ。著書に『謎解き太陽の塔』(幻冬舎新書)、『縄文土器の文様構造』(アム・プロモーション)、共著に『縄文土器を読む』(アム・プロモーション)、編著に『島々の聖地』(國學院大學学術資料館)ほか多数。 http://researchmap.jp/takumi/