宮崎神楽せり歌取材報告

三上 敏視

 

 


前号に書いた、「伝承音楽研究所」の最初のプロジェクトとして宮崎の神楽せり歌の調査へ行ってきた。もともとは自分の車で東京からフェリーで北九州に行き、車中泊も覚悟で回るつもりだったのだが、九州民俗仮面美術館館長で、ぼくの九州神楽探訪の先達である高見乾司(たかみけんじ)さんが、全行程を同行してくれることになり、車二台で動くのは無駄なのでぼくはLCCで空路博多へ飛ぶことにしたのである。
高見さんも、宮崎の若者たちを中心にして神楽を知ってもらい、支援者となってもらおうとして立ち上げたばかりのグループ、「MIYAZAKI神楽座」のプロジェクトの一つとして、ぼくのプランに乗っかってくれたのである。
6月21日、博多から高速バスで高千穂へ。高千穂神社の駐車場で高見さんと合流して雨の中、高千穂の奥の方の集落秋元を訪ねる。
高千穂秋元神楽は現地で二回見ていて、別の機会にも訪ねたことがあり、また韓国の晋州仮面劇フェスティバルにも行ってもらったので、親しくお付き合いさせてもらっているが、神楽でせり歌が出たのは見たことがない。でも晋州のフェスの打ち上げの余興で秋元の人たちがせり歌をやってくれたので、知っているのだな ということはわかっていた。
早めに着いたので、メンバーの一人、飯干敦さんの畑を訪ね、イチゴ栽培のハウスで作業をしていた敦さんの話を聞く。昔は神楽を舞えるのは長男だけ だったので、次男、三男などが舞えない悔しさもあり、また神楽には女の子も多く見に来るので目立つために、自己アピールのために盛んにせり歌を歌って騒いだそうだ。だから神楽が盛り上がるには無くてはならない要素で、今せりが出ないのは寂しいと話してくれた。
そして今年から秋元の保存会長になった飯干金光さんのお宅へ。金光さん宅は「蔵守」という民宿をしているのでこの晩はここに宿泊。地の物を使った美味しい夕食を頂いたあと、かつて牛舎だったところを改築したギャラリー「くらんでら」へ。ここは高見さんがプロデュースしたもので囲炉裏があり、ニジマスが炭で焼かれていた。
ここにせり歌が歌える飯干貴美子さんが来てくれ、敦さんも駆けつけてくれた。そして金光さんの奥さんや息子さんの記章さんも混ざってくれて、ひとしきりせり歌談義。昔は外にせり台を作って竹の手すりを渡して「ヨイヨイサッサ、ヨイサッサ」と竹を揺らしたとか、面白い話をいろいろ聞いたあと、焼酎を飲 みながらせり歌を歌ってもらった。神楽は出会いの場であり、また夜這い文化も残っていて「今宵限りはお許しなされ 人のかかでも嫁女でも」というせり歌があるくらいの特別な夜だったので、歌のあとにラップのようなかけことばも「ちんぐりまんぐり」とか、かなりの下ネタが混ざっていた。
せり歌が下火になったのは、こういう歌が敬遠されるようになったからという説もある。露骨な歌をよけてせり歌を復活させることは出来るだろうけれど残念なことだ。民謡もラジオで放送されたり、レコードに録音される段階で下ネタが排除され、山がきれいだ花がきれいだみたいな当たり障りの無い歌詞の舞台芸能になってしまったということだし。

22日は椎葉の嶽之枝尾へ。10時に来て欲しいということだったので早起きをして出発。博多で質のいいマッコリを見つけたので秋元へのおみやげにしたのだが、高見さんもついつい飲み過ぎたようで、「いつもより飲んじゃった」と。運転、申し訳なかった。
嶽之枝尾に着いたらちょうど村長選挙投票日の前日だった。そんな中、みなさん忙しいところを集まっていただいた。ここはせり歌がまだちゃんと残っている所で、特に歌の上手い人も多いということで高見さんから推薦され訪ねたのである。
嶽之枝尾神社の宮司さんの椎葉勇さんはじめ、椎葉浪子さん、お母さんのアスエさん、右田美佐子さんたちからひとしきりせり歌についていろいろ説明を受けて、歌ってもらうことになったのだが、いつもは神楽の中でお囃子を聞き、舞を見ながらせっていくわけなのでせり歌だけだとどうも歌いにくそうだったが、それでも素晴らしい調子で歌ってもらった。
舞い手もせり歌が歌われると元気になり、舞っていて楽しいと勇さんは言っていたが、この歌ならほんとにやる気が出るだろう。それもそのはず、ここの女性たちは「稗つき節日本一」とか民謡の名人ばかりなのである。おそらくここのせり歌は古謡が神楽に加わったものだろうから、今歌われている整理された民謡の原型がここにあるという推測も間違っていないと思う。
そして「若い人に伝承して行かなければならないと思っている」という話も浪子さんから出て、この部分で同じ思いを持っていることに安心した。
これまでは「練習なんかしないで、一年で一度神楽の日にしか歌わないので
ぶっつけ本番です」というのにもびっくり。子供の頃から年に一度の神楽の夜にばあちゃんたちのせり歌を聞いて覚えて、少しずつ一緒に歌うようになったとのこと。すごい伝承だけど、今は難しいのでこれからは勉強会が必要になってくるのだろう。

この日は午前中の取材だったので、終わった後に諸塚村へ移動。村が管理している「よしや」というリフォームした古民家に泊まることになった。山道を車で20分くらい登って標高600mくらいの高いところの、今は二軒しか住んでいない「天空の村」みたいな素晴らしいところである。家の中は都会から来た人が快適に過ごせるように 水洗トイレやシャワーにガス台も備えられているが、五右衛門風呂やかまどもあり、昔の生活を体験できるようにもなっている。ここで軽い自炊をして夜を過ごした。高見さんは早めに床についたが僕は高千穂と椎葉のせり歌のビデオを見始めたら面白くって、けっこう焼酎が進んでしまった。高見さんはその音を聞きながら神楽の夢を見たらしい(笑)

 

翌日は雨も上がっていたので、高見さんには釣りをしてもらうことにして早めに山を降り、僕は村の資料館のような「エコミュージアムしいたけの館21」でインターネットを使わせてもらったりして時間をつぶした。
昼食は、南川神楽を見に来るときに必ず食べる、ここの食堂の「どんこ亭」ランチバイキング。どこまでも椎茸がメインである。お母さんたちが作る椎茸や地の野菜、鶏などを使った和洋中華、バラエティーに富んだメニューで、これにジュースやお茶やコーヒーが飲み放題で800円である。ここなら安心して椎茸が食べられるというご時世になったのは残念だけど。
またいつも買う干しタケノコも売店の「もろっこハウス」でゲット。いつもは冬に来るのでその時期より色の良いものが並んでいたのも嬉しかった。
先に食事をしていたら、高見さんが釣りから戻ってきた。釣果はヤマメが五
匹。型のいいものも一匹釣れていて高見さん「想定していたメニューが作れる予定通り」と満足そう。
そしてお昼を食べてから南川へ。西田会長はじめ、松村さんや那須さんなど集まってくれていた。那須さんが一番知っているという事だったけ ど、みなさんは神楽やる側の人達なので、もうひとつはっきりしない、と言うか、たぶん知っているんだけど照れくさいかんじでなかなか歌が出ない。「わしら は神楽歌(神歌)の方を覚えんといかんとですから」と。純朴なのである。それであのおばあちゃんなら知っているだろう、と急きょ一人のおばあさんを呼んでくれたんだけど、これもまた一人だし、なかなか思い出せないということで歌が出て来ず、少し歌うと「忘れた」というかんじ。
南川もせり歌(ここではぜぎ歌と呼ぶらしい)が途絶えてから久しいらしく。夜中の盛り上がりも今は歌謡曲みたいなのちょっと歌ってから「ヨイヨイサッサーヨイサッサ」とやるやり方になっているのだ。
高見さんが気を利かせてくれて、「こんな歌じゃなかったかな」と歌ってくれたら、ようやく思い出してきたようで、どんな種類があり、どんな節回しだかわかってきた。歌の文句はやはり男女関係のものが多く、資料によればかつては男組と女組に分かれ、神楽を挟んでせり合ったらしい。
向こう側にいる意中の男にせり歌を歌いかけたら返ってこないので泣きだした娘がいたという話も出た。やはり歌垣の文化の流れが残っていたようである。
南川のせり歌はどうやら高千穂のせり歌で歌われる「ノンノコ節」と椎葉や東米良系のせり歌の両方があるようで、このあたり神楽の伝播と重な り、興味深いところである。そして三種類あるうちの一つは「箕舞」という芸能で歌われる歌と同じだということを教えてくれた。箕舞は男が杵、女が箕を担いで出てきて舞い、最後に杵で箕をつつくという性的な表現があるらしい。そしてかつては男が女装女が男装をしていたらしいのだ。
こちらも興味深いが、たぶん神楽せり歌のほうが先にあって生まれた芸能なのではないかと想像する。
最後の方ではみなさんすこしずつ思い出してきたようで、最後には「今度婦人会に声をかけて思い出してもらい、せり歌を歌えるようにしよう」ということになった。たぶん、神楽を見に来ている人で歌を知っている人はいるのだろうけど、お年寄りになると勢いのいい声が出せないということで、歌が出ないのだろう。そう言って貰えて嬉しかった。

そして南川の取材を終えて、西都の高見さんのところへ帰り、早速ヤマメ料理をいただくことになった。大きいのともう二匹は朴葉に味噌を塗って ヤマメを包み、ホイルで巻いてオーブンで焼く朴葉味噌焼き。そして残りの二匹は二枚におろしてぶつ切りにし、昆布出汁で煮て塩味をつけるヤマメのスープ。 高見さんは釣り上げたらすぐに水の中で腹を割いて塩をすり込んで持ち帰るそうで、こうすると冷凍しておいても、美味しさが残るということだ。たしかにこんな贅沢はないという感じで美味しかった。

 

24日は宮崎市内でこれから立ち上がる「MIYAZAKI神楽座」という、若い世代を中心に宮崎の神楽を理解してもらい、神楽の文化を支えて いこうというプロジェクトに参加する予定の人たちなどに集まってもらって僕の神楽ビデオジョッキーをした。去年日向市で行われ、僕も出演した「カムヤマ ト」の代表メンバー、戸越くんや河野さんもいたし、西米良村の村所から東京公演でも会ったことのある中堅メンバーの濱砂亨さんが来てくれ、また椎葉神楽を 中心に神楽を研究している宮崎公立大学の永松敦さんも来てくれた。
会場の関係で時間が長くとれなかったことが残念だったが、みなさん熱心に見てくれて宮崎での一回目のビデオジョッキーはうまくいったんじゃないかな、と思う。
そしてこの夜は戸越くんも高見さんのところに泊まり、25日には西米良村の村所へ。
ここの神楽の生き字引で大師匠の92歳、中武雅周先生のお宅にお邪魔したのだけれど、ここでも神楽ばやしと呼ぶせり歌が今は歌われなくなって いるので、若い女性たちを集めて練習会をしていただいた。今回のせり歌取材をお願いしたところ、「練習しよう」ということになったらしい。前の日VJに来 てくれた亨さんや中堅の神楽メンバーも来てくれたので、笛、太鼓も入る本格的な練習となった。先生も鈴を鳴らして大ノリの様子。
ここでも昔の話を聞いたり、今の話を聞いたり、焼酎も入って楽しい時間を過ごしながら「さあ、また練習だ!!」と先生のかけ声で何回も練習。節は一つでそれを途中長く伸ばすか伸ばさないかの二種類で、これまでのどの神楽にもないメロディーだったのが意外だった。
でも僕の本でも紹介した
「神楽出せ出せ神楽出せ 神楽出さなきゃ 嫁女出せ」や「あの子良い子だわ
し見てわろた あの子育てた親見たい」
など、字では知っていたけどどんな歌かわからなかったものが実際に歌われたので感慨深いものがあった。
どうも小学校で「神楽体操」なるものをやっているらしく、その時歌う歌がこの神楽歌なので、みんな歌ったことはあるらしい。でも神楽では歌ったこともなく、聞いたこともないから新鮮だとみんなが言っていた。
中武先生は校長先生をしていたらしいので、多分これも中武先生のアイデアなのではないかと思う。それほど神楽が好きで熱心な人ということは話を聞いててビンビン伝わってきた。
また椎葉で取材したせり歌を聞いてもらったところ先生は「昔村所で聞いたことがある」と言っていた。だからかつては椎葉から村所に歌いに来ていたということもわかり、またひとつ新事実を知ることに。

宮崎は梅雨の末期。全員飲んでしまったので車を置いて宿まで帰るために傘を借りたので、翌朝返しに行ったところ、「歌の文句を少し新しく作り変えてみたよ」とワープロでプリントアウト。ワープロは使うはDVDは使いこなすわ、昨夜の練習会ではカセットで録音してすぐ再生してまた録音、と92歳 とは思えない若々しさぶりにびっくり。帰りは、坂道をスタスタと上がって見送ってくれたのでそれにもまたびっくり。
村所神楽でのせり歌復活はもうこの12月には確実で、きっと一番早いだろう。
諸塚南川も復活されそうなので楽しみだ。
先生からは「この機会をもらったおかげで、練習して覚えることになり、昔の良い文化を取り戻すことが出来て感謝してます」と言われ、本当に嬉しかった。
26日に行くはずだった尾八重神楽は、歌える人が急に来られなくなったということでキャンセルになったけど、尾八重は実際の神楽でまだ少し歌われているのでビデオに収めてあるし、高千穂、椎葉、諸塚、村所と四ヶ所回っただけで十分な収穫があり、満足な取材旅行となった。
まったくの直感で思いついた今回の取材だが、きっと神楽の神様が導いてくれたのだろう。
これで少なくとも復活させると言ってくれた南川神楽と村所神楽にはなんとしても行かなければならない。そして嶽之枝尾も実際の様子を確認しに行かなければ。
「せり歌取材プロジェクト」はまだまだ続く、そしてこれは論文にまとめたり、自分の作品に反映させたりという目に見える成果にはしにくいものだし、目的も「消え行くせり歌の復活」なのだから、ゴールはないのである。

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシング)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われている。多摩美術大学美術学部非常勤講師、同大芸術人類学研究所(鶴岡真弓所長)特別研究員。