楽園という命題
坂本(荒井)清治
(坂本)
今わたし岐阜県の郡上の白鳥というところに住んでいるんですけど 、外はものすごい雷雨です。 パチーンと言っててヘッドセットをつけないと音声が聞こえないほ どで、Wi-Fiも心配なんで直にラインを繋ぎました。 おかげでこのあと田畑の作業に行かなくて済みました。 (司会)それも監督がたぶん仕組んだんだと思います。
(坂本)迷惑ですね〜 笑
(司会)爆笑
(坂本)では想い出をあ… 笑
はじめまして。あるいは懐かしくお会いできる方に、
お久しぶりです。わたしは2001年から2014年5月まで久高 にいて、留学センターというのをやってました。先ず、 何であれをやったかというお話をさせて下さい。
わたしは横浜生まれで、中学2年の時にある本を読んで、
人類というか日本の将来に絶望しまして南米で農園をやると決めて 琉球大学農学部に1979年に入りました。 当時、
今のこの間焼けた首里城があるところにキャンパスがあって…。 このオンラインを拝見しておりましてその琉大の後輩が何人かいる んだなぁと知り、感慨深かったです…。 農学部在学の途中でその考えがちょっと違うと感じました。 過疎とか人口問題や食糧問題が、
日本には住んでられないこの先世界はないんじゃないかと思った理 由なんですが、 問題はそこじゃないんじゃないかと思うに至ったということです。 その一番大きな理由は、在学4年目、沖縄復帰十周年の年で、
ちょうどその式典をわたしは宮崎のの武者小路実篤が最初に作った 新しき村で観ましたが、 そういった新しき村とか有機農業の人たちに出会うにつれて過疎と か食糧以前の問題についていろいろ考える様になりました。 そしてそれらにトータルに取り組める活動として、地域再生・
人間再生の活動として久高島留学センターを2001年4月から1 3年ちょっと取り組ませて頂いたんです。 その2001年の夏ぐらいだったと思うんですけど、
すごくお世話になっていた東京「賢治の学校」(創立者の) 鳥山敏子さんから電話をもらいました「 大重さんという人がいるんだけど」と。で、「 連絡とりたがっていたから繋ごうね」 ということで後から大重さんとお話し、 それからとても懇意にしていただきました。 その最初のお話がとても大事だと思うので、
まず共有させてください。 こう仰ってました。 「もう沖縄は、 久高島はイザイホウが終わってもう復活しないだろうと言われてい たから、 だから自分はもう撮るものがないというようなことを想っていたけ ど、どうも違うんじゃないか。 留学センターの活動が地域や学校や子供たちに刺激を与えているの を見てそう思った。今は"地下水脈" 一本の伏流水となって見えなくなっているけど、 いずれどっかで湧きあがってくるんじゃないかとれを感じ始めてい る。だからそれを撮る。だからこれから久高で映画を撮り続ける」 そのようなことを仰ったんですね。 そこに私が関わらせて頂いたということが、本当に、
今想っても誉であります。
いくつか想い出が浮かぶままに話しますと、2002年でしたね。
懇意にしてた海人の方が海で亡くなりまして「おい、 坂本つきあえや」 とまだ明るいうち昼間でしたけど酒に付き合わされまして、 泣きながら酒を…。 留学センターの子どもたちは学校へ行ってるんですけど、 帰ってくる前に私酔っ払わされました。 泣きながらそれでも未来を語った・・・そんなことが2002年に ありました。 また、もう癌がかなり進行していた頃ですね。総合センターで「
おい坂本!最近流行っているあの"食べるラー油"ってのがあるだ ろう。」「あ、監督わかりました。それ以上言わなくていいです。 "食べる泡盛"がほしいんですね。」「そうだ!なんとか作れ!」 みたいな話でした。その時の話の流れから、 もっと簡単にいい気分になれないかと言うことからの笑い話でした 。 さらに、病院に入院しているのをお見舞いに行ったときに、
身の回りの世話をしてくれている女性に「 ひそかにタバコを差し入れをしてもらってるんだ」 と嬉しく話していて、さきほど誰かが仰ってましたが「 酒タバコをやめるな」というのは本当にやってましたね。 あとちょっと想い出すのが、
内間豊さん今聞いてるかわからないけど、 イラブーを獲りに真っ暗なイラブーガマに、 監督さんが内間豊さんと二人で夜中に入った時に、 潮時を待ってから灯りをつけてイラブーを袋に入れていくのですが 、その潮を待っているときに内間豊さんが「ところで監督、 あなたはどこ出身ですか?」と聞いて来た。あ〜きたか〜 この質問がきたか〜と思ったそうです。 監督さんは鹿児島出身ですね。 沖縄の方は薩摩の方に対してちょっとした思い入れがありますので 、「鹿児島出身」と答えたら、 豊さんいじわるだからそれから真っ暗闇のなかでずっと黙っていた そうです。「あの沈黙は辛かった」というのがもう笑い話ですね。 豊さん聞いますか? ダメですよ、いじめちゃ。 那覇で鎌田さんと三人でお会いした時ですね、
もう私が久高島を出て沖縄を離れる直前でしたが、監督さんが「 俺は大バカだ。」で鎌田さんをつかまえて「こいつも大バカだ。 で、お前も大バカだ。三バカだ!」 みたいなことを仰ってくれて最大の名誉でしたね。 よくぞその大バカに加えていただけたなぁと思います。
わたし先程申し上げましたように1979年に沖縄に行って約35
年間沖縄におりました。 いま長良川の源流の近く、窓を開けると水路の音が賑やかな、
そういうところで農業をやってます。 無肥料・自然栽培という農法なのですが、 なんでこんなことをやってるかと言いますと、 久高でやりたかったこともそうなんですけど、今年60歳なんです が、「楽園」と言うのがとっても私の命題のなかにあります。 久高で、子どもたちと遊休農地を耕し、
おばあたちの畑を耕すお手伝いをし、 生ゴミを堆肥化して循環する地域を築く・・・ そして第二の故郷として子どもたちが島を出て行ってまた戻ってき て関わっていく・・・。 今、私には幼い子どもがいるのですが、この子たち、
あるいは今生きている全ての人たちが楽園が見れるんじゃないかな 、そういうことを本気で思っています。 それができるんじゃないかなぁって本気で思ってて、 久高で活動していましたし、今はこんな農業をしています。 それを鎌田さんも、 そして大重監督も共有してくださっていたように思う。 だから大バカのなかに加えてくださったように思う。 ずっと先のそれを一緒に見ていたなぁ、それが伏流水なのかなぁ、 地下水脈なのかなぁって思ってます。 それを今すごく近くに感じています。 わたしからのお話というのはそれくらいなんですけど、
ひとつは大重さんの魅力ってなんなんだろうなぁって言うのがたぶ ん共有できることだなと思います。映画以前にあの人柄、 本当に皆さんが大好きになる。
それからもうひとつ今日絶対共有しなきゃいけないのが、
次の日曜日、三日後ですけど、 島出身の糸数陽一くんがオリンピックで重量上げででます。 ホントいい男で監督さんが撮った映画のなかにも映ってますね。 もう話題にでたかも知しれませんけど、 それを共有してご挨拶にさせてください。 ありがとうございました。