大重監督を偲ぶ

――折口信夫から『久高オデッセイ』へーー

島薗 進

 

 

一九七〇年代には久高島のイザイホーは魅力あふれる文化遺産だった。私が大学に入学したのは一九六七年だが、その頃、日本民俗学は若者の人気を集めていた。柳田國男や折口信夫がよく読まれ、彼らが日本の文化の古層を沖縄に見ようとしたもとがあらためて注目された。批評家の吉本隆明の『共同幻想論』(一九六八年)が刊行されたり、作家の島尾敏雄が「ヤポネシア」という言葉を広めたりした。沖縄にこそ日本的な宗教性の源流があるという考えや、海を通して日本は世界に開かれているというイメージに魅せられた。六八年には沖縄返還を求めるデモに参加して警察につかまった。

一九七〇年、大学の宗教学のゼミは「柳田國男と折口信夫」というテーマだった。

沖縄を含む南島を通って、日本人はやってきたという「海上の道」、「をなり神」というように女性の霊的な力を尊ぶ「妹の力」の源流である沖縄、海の彼方に魂のふるさと、ニライカナイがあるとする他界観が日本の宗教文化の古層にあるという論。柳田と折口のこうした論に魅了されて大学院に進学し、修士課程の研究テーマとして折口信夫を選んだ。

というわけで、沖縄は行ってみたいところであり、行くべきところだったかもしれない。だが、行きそびれてしまった。七二年は沖縄返還の年である。七三年には奄美大島での調査研究に参加させてもらい、島唄に魅了された。暮れから年明けに滞在し、お正月にユタを訪問し、心の中を図星で読み取られたように思い、衝撃を受けた。

琉球の霊的威力に引き込まれそうになったのだ。そのまま七六年のイザイホーに参加するというような道をたどることもありえないことではなかった。

だが、家庭的な事情その他で調査旅行に出る余裕はなかった。新宗教の教祖研究という方向に向かったのだが、それはそれで必然性のある選択だった。その後の沖縄への思いは残っていたが、なかなかゆっくり滞在するところまで行かなかった。だが、若い頃に接した沖縄に日本のふるさとがあるという考え、また、海の彼方に魂のふるさとがあるという考えにはひかれていた。二〇日ごろに大きな影響を受けた折口信夫の思想が心の底に染み込んでいるのかもしれない。

大重潤一郎監督の性格はたぶん折口信夫と相当に異なっている。タイプが違うのだ。しかし、大重監督を久高島に引き寄せたものと、折口信夫を沖縄に引き寄せたものはたいへん近いものと感じる。だが、苦悩が内にこもり文学的な表現を通して人々の心を動かす折口信夫に対して、大重監督の作品の力は多くの人々が自ずからかもし出す奥深い生命力を自らもその一員であるかのように作品の中で具現化してしまうところにある。

『久高オデッセイ』の魅力は、大重監督の生き方と久高島の人々の生き方との共振によるものだ。大地とともに生きる人との共振は大重監督の多くの作品にあるものだが、『久高オデッセイ』は、さらにそれを開かれた海の彼方への憧憬を結びつけた。

海とともに生きる人々の開放性が見る者を元気づける。そして、いつしか大重さんが語る「地下水脈」を自らのうちに感じ取るようになるだろう。

イザイホーは行われなくなったが、久高島の人々の精神文化は脈々と生き続けている。それはともに暮らし、ともに苦難や悲しみ、喜びや安らぎを経験するなかから体得されてくる。そして、その地下水脈は久高島を超えて、南島の島々へ、そして日本本土や東アジアへ、また太平洋の島々へと通じている。『久高オデッセイ』三部作はそのことを見事に示してくれている。ヤポネシア本州島に住む私も、いつしか久高の人々と厳しくも美しい自然の光景のなかに溶け込んでいるように感じるのだ。

この三部作を完成させたことに大重さんは高い誇りをもっていたと思う。東京両国で行われた第三部の上映会に、沖縄からオンラインで参加した大重監督のタバコが忘れられない。あのはにかみと死を前にした快活は、作品の魅力にもうひとつの味付けとなって、未来の世代を元気づけてくれると思う。

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。