未来の人々へ贈られた啓示

大重潤一郎

 

これは、阪神淡路大震災後に、大重監督から「黒神」助監督の市東宏志に送られた手紙を書き起こしたものです。手紙はコピーであったため、親しい方々へ送られたのではないかと思います。

 

この度、阪神大震災におきまして、大重および家族に対しまして御心にかけて頂きました方々、また御支援賜りました皆様方に誠に非礼ではございますがこのコピー書面にて御礼とご挨拶を申し上げます。

 

拙宅はNHK神戸放送局の真上の中央区北野町という異人館街に位置致しており、火災やマンションの倒壊等はまぬがれ、一同無事におりましたが、家内が二週間の避難所暮らしの心労から脳梗塞に見舞われ、現在四国の病院におります。しかし、言語等の障害はなく、左半身不随の障害に止まりましたので、これから時間をかけて機能回復のリハビリに頑張ると思います。

 

息子は丁度、地震の前々日に成人の日を迎えたばかりでしたが、その後、母親の看病、猫の世話、友人達の無事確認、近隣のボランティア、小生の仕事の手伝い等で、四国、神戸、大阪を行き来し、本来的な成人儀礼を得ているようです。

 

小生は当日、大阪中之島の事務所におりました。地盤が砂州で七階ということもあり、揺れは異常なものでした。27,8年前の長野県松代群発地震や伊豆群発地震等の取材を通し、地震には自信があったのですが、今回ばかりは全く異種のものでした。離れていればこそ、つのる家族、隣人への思いは、水食料等4、50キロの荷をひかせ、4、50キロの距離を歩かせました。その間、眼にした光景は恐らく上空からのTV映像とは異次元の修羅場でありました。

 

今、地震より一ヶ月を迎えようとして、しばし平静にもどりつつあります。

「大阪で稼ぎ、京都で遊び、神戸に住む」という関西の一風潮を我がものとしていました。神戸で所帯を持ち、息子ができ、まもなく鎌倉へ越して、最後伊豆での一年をくくりに再び神戸に舞い戻ったのは家内に生じた地震アレルギーが一因でした。それなのに、そのまま神戸にいたら息子が通っていたはずの中央諏訪山小学校に震災によって避難生活をするとは思いも寄らない原点回帰でありました。

 

震災直後の二三日は、とても長く感じられる一日一日でした。何はともあれ、生きることに精一杯でした。そして一週間、都市の機能は麻痺し、ブラックホールの中におかれた気分でいました。それなりに考えられ、努力されてきたであろうと思いますが、人間が脳で組みあげてきたマニュアルやハイテクは何ら機能しなかったという実感です。

そして上空を飛び交うヘリが救出を目的としない報道ヘリで占められていたことも孤独感を深めました。湾岸戦争時のように現実を映像がテレビゲーム感覚にしてしまうことを恐れます。その時、地上では倒壊家屋の下で、病院で数限りない人々が地獄絵の中にありました。

 

震災後十日を過ぎた頃、気をとりなおして、青森、鹿児島から大阪の事務所へ届いた大量の魚、野菜を神戸に運び、炊き出しを始めました。小さな避難所では十一日目に初めて菓子パン以外の暖かい汁を食べ、二十日過ぎて生野菜を口に出来るといった状態でした。大方の風邪気味の人々にとっては、これら魚汁や野菜は身体が要求してならないものだったようです。これから、恐らく家の再建や、中小企業の倒産からくる不幸が多くもたらされると思います。ようやく人生停年をむかえ、のんびりすごそうという人達迄は、なんとかまた出なおす気力、体力が残っているかも知れませんが、しかし、年老いて働けない人々のことは是非、公共の力で援助されるべきです。

 

それにしましても、西宮から芦屋あたりでは、良き時代の香りを放った日本家屋や洋館が道路上に投げ出され倒壊している状態に哀しくなり、六甲、灘あたりで市場や長屋など壊滅し、長田鷹取あたりで街区ごと全焼全壊しているように、ただ慄然とするばかりです。親を失った子供だけでも千人にものぼり悲しみが未だ、そこここに漂っています。そして神戸の中心地三ノ宮界隈の異なる光景、これは恐らく人類が未だ見たことがないものだと思います。ことごとくビルが傾いて、未だ遺伝子にインプットされていない場面が現出しています。

 

お読みつらいことを書き連ねております。もうすこしお伝えしたく思います。

震災は街のありとあらゆる造形を破壊し、人々の命を奪ってしまいましたが、同時に人間の内面をも激しく突き動かし、人間の本性を露にしました。混乱の中で悪さをする人間もいましたがそれは微々たるものです。圧倒的に、ほとんどの人は生命感に満ちた姿をみせていました。有事じ発揮される人間の悪意は善意の百分の一に届かないことを体験したことは幸せなことでした。

 

髪を染めピアスをした若者が懸命に老人の救助に立ち向かいました。ソリコミを入れたような顔がまさに「地獄で仏」の顔になっていました。そして、どこからともなく若者層のボランティアが真先に他府県から集まってきてくれました。「なんちゅうことか」と全く予想だに出来ないことに驚いていました。阪神間を歩く間、国道に全国津々浦々のナンバープレートをつけた救援物資車両がつらなっていました。その地名一つ一つにこみあげるものをおさえながら歩きました。中には単に所轄の指示で来ている車もあったかもしれません。しかし、阪神間の住民は、神戸は、それらの励ましの全てをふるえるほどの感謝で頂きました。それは人の志を受ける力量となって蓄えられた再興の原動力になることと思います。

 

この地球の身震いは人間の体面や虚飾をかなぐり捨てさせました。

今、街を歩く人の顔がとてもやさしく見えます。泣きはらしたあとの清々しさとでもいうのでしょうか。とりわけ女性の顔が美しいのです。

 

今や、あれだけ世間を覆っていたイジメや無関心が見当たりません。これも地震が吹き飛ばしたのでしょうか。否、人間にとりもどされた生きるという生命感、その生長点が目醒め、全身症状が活性化したため、自ずといじめや無関心といった患部を治癒させたのかもしれません。それは対症療法に腐心してきた西洋医学に対する東洋医学の方法を思い起こさせます。神経質に負の部分のみにとらわれてはならないと知りました。そうした点では事件など悪の面だけが報道されるマスコミのニュース等に疑問を抱いておりましたが、善の面も大いに伝えて世を励ますことも必要に思います。

 

皆様、地震は起ってから30秒間生きておればまず大丈夫だと思います。とにかく身動きが出来なくなる要因だけは取り除いておくことです。あとは、何とかなります。

これから関東大震災などに対する対処が講じられると思いますが、一つ危惧を抱くことがあります。コンピューター時代、様々な自動装置が強化されると予想しますが、今回、役に立たなかったのがハイテクで、唯一頼りになったのが人の生命感でした。コンピューターをオペレーションする行為より屋根や梁を持ち上げる体力・気力がものを言ったのです。自動装置が働かなくなった時に手動に切り換えそれをも操作できる態勢が必要と思われます。しかし残念ながらすでに我々はそうした教育・生活・社会・環境を捨て去ってきています。今回、絶望的な気持ちで人間の成していることが如何に薄っぺらなものか目の当たりにさせられました。私たちはささやかな命を地球に生かされています。

自然を征服することによって繁栄を築き上げてきた西洋文明の大河は、間もなく2000年を迎えます。その時を折り返し点として、西暦2001年にかわる東暦元年の訪れがこの地球の本然なのではないかとかねがね思ってきました。地震はそれよりも一時間早くても遅くてもならない、人命の犠牲を最小限にくい止めるとタイミングで起りました。

加えてそれは国内の方々に共通のコンセンサスに基づいた愛を注いでもらい、海外の方々にも港を通じてなじみを頂いている神戸において発生しました。それによって阪神大震災は一地方の一出来事に終わらず、全国・全世界の人々のこととなり得ているようです。

ことによったら、選ばれた時、運ばれた場で起ったのはこの大震災であり、長い眼でみると地球から次の1000年の未来の人々へ贈られた啓示であったのではないかと思えてならないのです。

今、そう思うことでようやくこの現実に対峙しはじめています。

そして、それは小生にも訪れている確かな未来なのです。

 

私事ながら、これまで関西を拠点に自然と伝統文化の仕事に専心してきましたが、これから被災地の復興をも見据えてまいりたいと思います。まず秋完成を目指し、阪神大震災の劇場用記録映画の製作にとりかかる予定です。

 

皆様、これからも神戸を宜しくお願いします。

神戸は生きております。

心より感謝をこめて。

 

1995.2.17.大重潤一郎