アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて 26
エコロジカル・ディスタンスとスピリチュアル・ディスタンス
鎌田東二
前回、EFG25号の発行は、2020年8月であった。それから半年、現在2021年2月だが、新型コロナウイルスの感染拡大を抑え込むことはできていない。国内外でワクチン接種が始まっているが、それがどのような効果を与え、どのように全体として収束していくか予測できない。
この「EFG」というHPは「the Earth of Free Green」の省略形である。「フリー・グリーン」とは何だろうか? 考えされられる。「自由緑」、「自由な緑」、「緑の自由」、「緑は自由」、「自由は緑」etc…
いろいろな捉え方があるだろう。フリーを形容詞的に使うか、形容動詞的に使うか、名詞的に使うか、またグリーンも修飾語的に用いるか、名詞的に用いるか、それによって文脈に違いが生じてくる。
が、ともかくも、フリーとグリーンが結びついている、その接続が重要であるということで、わたし自身の「EFG」の連載原稿のタイトルを、深く考えることなく「アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて」とした。「生態智」(ecosophia,ecological
wisdom)ということについては、この30年近く、「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの知恵と技法」と位置づけてきた。
とてつもなく、長ったらしい、硬い定義のような概念規定であるが、たとえば、つぎのような南方熊楠の神社合祀反対運動の論点は、その「生態智」の具体的な表出であると捉えてきた。
南方熊楠は、神社合祀をすることによって、その結果どうなるか、次のような論点を明示して反対した。
①敬神思想を弱める。
②民の和融を妨げる。
③地方を衰微させる。
④国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。
⑤愛国心を損なう。
⑥土地の治安と利益に大害がある。
⑦史蹟と古伝を滅却する。
⑧天然風景と天然記念物を亡滅する。
粘菌研究者でもあった南方熊楠は、きっとこの中でも特に⑧の「天然風景と天然記念物を亡滅する」を第一に考え、粘菌などを残し、保持しているような森の確保こそが、すべての基盤であると言いたかったのだとおもう。要するに、粘菌を守りたかったのだ、粘菌の生態を守りたかったのだ、それが延いてはさまざまな生物の生態系と人間の生態系を守ることにつながるのだから、それでいいのである。
実際、熊楠さんは、はっきりと言っている。「殖産用に栽培せる森林と異(かわ)り、千百年来斧近を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候」と。
植林の林と千年の自然林や太古からの原生林、すなわちシシ神の棲む森やトトロの棲む森とは根本的に違うし、後者の森を切り倒したりすると、どんなことが待ち受けているか、彼の中では生態系の崩壊の連鎖図が見えていたのである。それをトータルに、「敬神思想を弱める」と言っても間違いではない。神社合祀に伴う神林の伐採などは、確かに、森のヌシ神を大切に思う心をないがしろにする行為であるから。
1000年年単位で樹を伐らずに護ってきた「神林」は、実に多様な草や木が相互に「密接錯雑」しているのだ。この「3密」ならぬ「密接錯雑」の森こそが、生命の宝庫であり、揺り籠であり、孵化器なのである。
ところで、SNSとか一切やったことのない、未だにスマートフォンもガラ携の携帯電話ももっていないわたしがなんと、いきなりTwitterをやる羽目になった。初代会長山折哲雄氏の後の二代目会長を務めている「京都伝統文化の森推進協議会」の「京だらぼっち」ツイッターをわたしが担当することになったからだ。基本的に毎日1回、「京だらぼっち」になって、つぶやいているのだが、これがけっこうおもしろく、ハマってやっている。
京だらぼっちツイッター:https://twitter.com/jxtx77fgTGKbhjg
京都伝統文化の森推進協議会HP: https://kyoto-dentoubunkanomori.jp/
考えてみれば、わたしは比叡山に登り始めて15年、618回登拝して、ほぼ毎回、山頂付近のつつじヶ丘かその近辺でバク転3回してきた。バク転はわがマインドフルネス、大げさに言えば、身心脱落への放下なのだ。そのバク転をしながら、「京だらぼっち」のように、京都を見守るお手伝いをしてきた。
だが、この1年で京都の観光客は激減。日本最大の観光歴史文化都市として成り立っていた京都の財政は破綻寸前で、京都市は向こう3年間、京都市主催のイベントを一切行わないと宣言したとか。文化都市京都の縮減文化行政がどうなるか、予断を許さない。そんな中、本年11月に、われら京都現代芸苑実行委員会は、2015年に開催した「悲とアニマ」展に続き、第2弾として「悲とアニマ~いのちの帰趨」展を行なう予定である。乞うご期待!行政ができないのであれば、民間でも何でもやっていかねば。
昨年、わたしは単著・共著・監修を含めて5冊の本を出した。今年は、2021年2月5日に、『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)を出した。コロナ禍に苦しむさ中、ケアと宗教と芸術・芸能との関わりについて書いてみた。
そして、来月、3月30日に、『身心変容技法シリーズ第3巻 身心変容と医療/表現~近代と伝統の統合~先端科学と古代シャーマニズムを結ぶ身体と心の全体性』(日本能率協会マネジメントセンター)を出す。執筆者30名、論文33本、A5・2段組みで620頁の超大著である。わたしもこれまでいろいろと本を出してきたが、これほどの原稿量の詰まった本は初めてである。税抜き3800円の高価な本であるが、内容的にはヒント満載、実に刺激的で、スリリングで、エキサイティングな本である。自分で言うのも困ったものだが、誰も言う人がいないので、圧巻であると言いたい。
その序章の論考「身心変容技法と医療の原点と展開」の第2節で、「ソーシャル・ディスタンス」を、「エコロジカル・ディスタンス」と「フィジカル・ディスタンス」と「メンタル・ディスタンス」と「スピリチュアル・ディスタンス」との関係を論じた。要は、「ソーシャル・ディスタンス」の前に「エコロジカル・ディスタンス」があるのだという極めて当たり前のことを言っただけだ。「社会的距離」は、「生態学的距離」の上に成り立つ。
「エコロジカル・ディスタンス」は、棲み分けとか、テリトリーとか、共生とか、食連鎖とか、生態系サービスとも言われている生命世界の根本構造である。しかし、それを人類史は蹂躙し、破壊してきた。たとえば、古代シュメール文明の『ギルガメッシュ』叙事詩における「森の神フンババ」の殺害。近年では、宮崎駿のアニメーション、『もののけ姫』(1997年)における「シシ神」の殺害など。南方熊楠の言う「密接錯雑」の「エコロジカル・ディスタンス」を、人間の創り出した「ソーシャル・ディスタンス」が壊してきたのである。20世紀末から顕著になってきた気候変動・地球温暖化やCovid19や新型鳥インフルエンザの流行などの事態は、社会的距離と生態学的距離の侵犯とフィードバック、すなわち生態系サービスの破壊が引き金になっている。ヒマラヤの氷河の溶解も関係している。
上の図は、この30年ずっと言い続けている「生態智」の道の別の表現である。「草木国土悉皆成仏」というのは、「エコロジカル・ディスタンス」と「スピリチュアル・ディスタンス」を合一する道、究極的「生態智Way」である。この15年、681回、比叡山に登拝しながら、そのことばかりを考えてきた。フランシスコ教皇はその道を「インテグラル・エコロジー」と言い、サティシュ・クマールは「ホリスティック・エコロジー」と言った。この「インテグラル」と「ホリスティック」には、異なる訳者によって同じ「総合的」という訳語が与えられた。日本では、「インテグラル・エコロジー」も「ホリスティック・エコロジー」もともに「総合的エコロジー」と訳されたのだ。二冊の異なる本を訳した異なる訳者は異なる用語を同じ訳で繋いだ。
故大重潤一郎ならこう言うだろう。「なあ、カマッさんよ、地球は風が吹いているところだぜ。風と水がすべてをつないでいる。風水っつあ~、よく言ったもんだぜ。風水なくして地球なしだよ。インテグラルもホリスティックも、風水エコロジー、風水地球のいぶきなんだぜ」
大重菩薩よ、草木国土悉皆成仏!
鎌田 東二/かまた とうじ
1951
年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、