絶滅食堂の100年

辻信行

 

 

 

コロナの第3波が始まるまえの昨年初冬、新宿駅東南口を出た。ルミネを背にエスカレーターを降り、広場を抜けて小さな食堂の前に立つ。

 

とにかく異様である。最新鋭のネオンや電子音に眩暈がする大都会の真ん中に、この店だけ取り残されて、薄汚いショーウィンドーに窓柵、古めかしいメニューが張られ、真っ赤な看板の下に、濃紺の小さな暖簾をはためかせている。

 

創業は1915年(大正4年)。第一次世界大戦の真っただ中で、日本が中華民国の袁世凱政権に対華21ヶ条を突き付け、アメリカでは国産初の長編映画『國民の創生』が公開され、芥川龍之介が『羅生門』を発表した年である。

 

当時は「食堂」ではなく、「一膳飯屋」と呼ぶのが一般的だった。客層は肉体労働者が圧倒的に多く、それに続いて行商人、官吏社員、旅人といったところだ。林芙美子の『放浪記』で、この店の大正時代をのぞいてみよう。

 

 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、

「姉さん!十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」

 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、

「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。

 労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。

 大きな飯丼。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重なのではないだろうか――。

(林芙美子『放浪記』新潮社、1985年、23頁)

 

現在も肉どうふは店の看板メニューである。ぼくは定食(770円)でいただいた。やわらかな豆腐にほどよい噛み応えの豚肉の旨味が染みている。これが105年煮込み続けてきた味かと思うと、感慨に襲われる。

 

戦時中には「外食券食堂」として、食券を持参した人のみ利用できる指定食堂となり、外食券自体は1969年まで発行された。東京大空襲により店は消失したものの、敗戦後に木造二階建に再建。高度経済成長期の1978には、それまでの貸借店舗から、自前のコンクリートビルとして建て替え、一階が食堂に、二階が厨房となった。

 

夕食時の店内は中高年の常連客が5~6人。みな一人で食べている。そこに、年季の入ったズボンとジャンパーにボサボサ頭の高齢男性が、重い足取りでえっちらおっちら入ってくる。耳も遠いようだ。定員のおばさんは大きな声でにこやかに「あらぁ、いらっしゃい!寒いのによく来てくれたね」。男性は何も言わない。「牡蠣フライがおススメだよ。今日の牡蠣は大きくて、栄養たっぷりなの。きっと元気になるよ!」男性は「うん」とか「あぁ」とか、言ったか言わないか分からないほどの小声だが、おばさんはお構いなしだ。さっきから新型コロナの状況を伝えるテレビニュースがバッグで流れている。

 

この店も、開店3年後にスペインかぜに襲われたことだろう。1918年の10月から1921年の3月まで、合計3回の大きな流行の波があり、日本国内の死者は38万人、感染者数は2380万人にのぼった。一年目の第1波より、二年目の第2波のほうが毒性が強く、致死率も高かった。三年目の第3波は、第2波ほどではないものの、第1波より致死率が高かったという。

 

今回の新型コロナウイルスは、昨年の3月頃までは、暖かくなれば収束するのではないかと見ていた。しかし梅雨の頃には、収束まで3年かかったスペイン風邪を念頭にしたほうが良さそうだと思うようになった。

 

100年前のスペインかぜのただ中に、この一膳飯屋で肉豆腐をかきこんでいた人々は、100年後にも同じ場所に同じ店があり、世の中は自分たちの生きる大正時代を舞台にした『鬼滅の刃』が一大ブームとなり、科学も医療も格段に進歩したにも関わらず、感染症のパンデミックで右往左往している現在をどう見るだろう。

 

あるいはいまから100年後にも、この食堂はこの場所に存在し、人々は令和を舞台にした作品に熱中し、あいかわらずウイルスという微細な存在に手こずっているのだろうか。

 

いまや「絶滅食堂」と呼ばれるようになった一膳飯屋で、100年前の世界と100年後の世界に思いを馳せた。

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

 

東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえ、離れ小島や都市の喧噪、カビ臭い本の中でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」、「寺山修司の身心変容―不完全な死体への質問状」など。