歴史のなかの神道(11)

天皇崇敬の広まりと軍の宗教性①

島薗 進

 

 

近代日本の宗教とナショナリズムというとき、「宗教」と「ナショナリズム」をそもそも別種のものと捉える欧米の捉え方を適用しようとするとうまくいかない。欧米の研究者が近代の宗教とナショナリズムについて論じるとき、ナショナリズムは非宗教的なものだとの前提が置かれることが多かった。B・アンダーソンの『想像の共同体』は、世俗的なものであるはずのナショナリズムが隠れた宗教性を持っていることを論じた[アンダーソン 2007(1983)]。T・アサドは『世俗の形成』のなかで、日本の近代国家を世俗的な体制だったと理解している[アサド 2006(2003)]。これらはすぐれた近代文化の研究者による成果だと言えるが、ナショナリズムは世俗的なものだという先入観があったと思われる。

こうした理解をくつがえす意義を持ったのが「宗教的ナショナリズム」という用語であり、この語の学術的な使用を広めた書物としてM・ユルゲンスマイヤーの『ナショナリズムの世俗生と宗教性』をあげることができるだろう[ユルゲンスマイヤー 1995(1993)]。以下の私の論考は、近代日本のナショナリズムを宗教的ナショナリズムと捉える立場に立っている。日本の近代を考えるとき、天皇崇敬と国体論を基軸とする宗教的ナショナリズムが近代国家形成の核心に置かれたという事実を忘れるわけにはいかない。神道とナショナリズムの緊密な関係はあまりに明白である。皇帝が統治する神聖国家という東アジア的な国家秩序観が、国民の連帯による国家形成を進めようとする近代によみがえり、宗教的ナショナリズムに展開していったのだ。

このように天皇と一対視された国家そのものが宗教性を帯びた日本の宗教的ナショナリズムにおいては、皇室とともに公的機関がきわめて重要な役割を果たすことになる。とりわけ学校と軍隊の役割が大きい。拙著『国家神道と日本人』では学校が果たした役割についてある程度述べたが[島薗 2010]、軍隊についてはほとんどふれることができなかった。そこで、本稿では、宗教的ナショナリズム、より具体的には天皇崇敬の担い手としての軍隊について見ていくことにしたい。

 

1、軍部ファシズムと天皇崇敬の歴史

明治以降の日本では富国強兵と海外への勢力拡張が進められる過程で軍部の政治的地位が強化され、やがて昭和期になると軍部支配の抑圧的な体制と無謀な戦争へと進んでいく。韓国や中国への攻撃的な姿勢は明治初期から日清戦争、日露戦争へと次第に強められ、日韓併合以降、一段と強化される。それは軍部の政治力の拡大と不可分だった。そして、治安維持法が制定される1925年以降、国内の言論や信教の自由や思想・信条の自由が著しく制限され、天皇崇敬が強化されていく。

政治的自由や人権の抑圧が常態化するこうした軍事国家的な性格を「軍部ファシズム」とか「軍ファシズム体制」と呼ぶ論者もいる。他方、天皇崇敬というところに主要な特徴があると見て「天皇制ファシズム」と呼ぶ論者もいる。これらの呼称は軍と天皇崇敬が密接に結びつき、近代日本の対外攻撃的また抑圧的な体制をもたらしたという認識を反映している。

たとえば、秦郁彦が1962年に刊行した『軍ファシズム運動史』という書物では、「日本ファシズムの性格を、もっとも簡潔に表現しているのは、天皇制ファシズムおよび軍部ファシズムという呼びかたであろう」と述べられている[秦 2012(1962):6]。続いて秦は以下のように述べる。

 

…天皇制は、明治絶対主義の創設者たちによって、人為的につくり出された精巧な支配装置であった。/(原文中改行を示す。以下同)彼らは、欧州先進諸国による植民地化の危機を切りぬけて急速な近代化を達成するには、国民統合のシンボルとして、精神・倫理の世界で天皇の持っていた伝統的=中世的権威を復活し、拡大するのが、もっとも効果的な方法であると考えたのである。明治憲法と教育勅語は、この新たな支配体制の外壁と内核を来てしたものであった。[同:7]

 

ここで秦が「伝統的=中世的権威」と呼んでいるものは、宗教的と言いかえることもできる文化的次元を指している。ただし、宗教的な天皇崇敬を掲げた国家理念は建前で、実際の統治機構は欧米に倣い、法に従って各機構の担当者が運営責任を分担していくはずだったので、そのズレが重要だという。明治初期の段階では、「玉」とよばれることもあった天皇個人は、政治権力を行使することは想定されていない。「「玉を抱いて専制」しようとする政治勢力にとって、正統性を保障するシンボルの役割を担わされた」のだった。ところが、天皇を掲げつつも、実際政治においては合理的に運営されるはずだったこの二面的体制はバランスを失っていく。「昭和期に入ると天皇制は……徐々に安定性を失い、あらゆる意味で反動的・退行的傾向を深めて行く」。

ここで主要な役割を担ったのが軍部である。秦は「日本ファシズムの主たる推進力であり、また最終的な制覇者の座にのぼったのは、軍部であった」と述べ、E・H・ノーマンの『日本における兵士と農民』の次の一節を引いている。

 

…日本軍隊は、日本におけるファシズムの最先端となり、その数多の政治的、宣伝的活動によってドイツ、イタリアのような単一ファッショ政党を事実上不必要ならしめたのである。[ノーマン 1947(1943):120]

 

「軍部ファシズム」という性格づけは、「下からの大衆運動」という側面が弱かったという評価と結びついている。秦は日本のファシズムは「上からのファシズム」という特徴をもったと述べている。これは妥当な捉え方だろうか。

 

…日本ファシズムは、ナチスやイタリアのように、下からの大衆運動という方式をとらず、軍部、官僚のような国家機構によって推進された点から、典型的な「上からのファシズム」とされている。すなわち政党運動の拡大によって外から政治権力の中枢に接近したのではなく、本来権力行使機関である既存の国家組織が、そのまま転用されて、新たな政治使命を付与されたのである。しかも新たな政治体制に対応する機構的な編成がえは、ほとんど行われず、人的配置転換もなかった。/もっとも、満州事変の前後では、農村を中心とする請願運動が拡大し、比較的に下からの運動という色彩も出るが、これもやがて主流である軍部の運動のなかに吸収されてしまった。/古典右翼をもふくめ、日本におけるファシズム運動が大衆運動の形態を取らなかったのは、本文でくわしく触れるように少数エリート(志士)による一揆を重視するファシストたちの戦術論にも起因している。/こうした大衆運動の欠如は、総力戦時代に入って、国民精神総動員の必要性がクローズ・アップされた時、克復しがたい障害となって露呈された。/大政翼賛運動は、上からの指導すなわち上意下達に服するように習慣づけられた国民から自発性を引きだして、相対的に下からの政治運動を組織し、それによって総力戦体制を補強しようとする試みであったが、ついに成功を見なかったのは、よく知られているとおりである。[同:15]

 

軍部主導のファシズムは確かに「上からの」と特徴づけられるような性格を持っているが、だからといって「下からの」運動がきわめて弱体だったと言ってよいかどうかは問題である。軍部主導の国家主義的体制がそれなりに国民に受け入れられていく基盤には、「下からの大衆運動」というものもある程度、存在しており、軍部はそうした「下からの」支持を吸い上げたという側面も見ておかなくてはならない。

問題は、秦がファシズムの基盤となる「大衆の精神動員」[同:13]と呼ぶものの実態がどのようなものだったかだ。近代神道について独自の視角をもつ神社本庁の論客、葦津珍彦の見解を見てみよう。葦津は、秦が「精神動員」と呼ぶ戦時期の精神文化に注目する立場から、『国家神道とは何だったのか』でだいぶ異なる見方を示している。

 

…近代の神道史を錯誤、誤認している米人やその御用文化言論人は、国家神道をもって、明治日本の政府権力者と、熱烈な神道家とが相共謀して築き上げたものであるかのような虚像のイメージを拡散して俗説を通用させている。(中略)しかし国家の政府権力とは別に、それとはまったく相異なる神道の意識が、在野の国民の間に生きつづけて行く。それが大正時代になって燃え上る。政府の国家神道は、初めはこれを無視し、やがて弾圧を試みたが、権力への反抗は根づよい。国家神道の中枢、神社局は存外に、消極防衛につとめたが、在野神道諸潮流の反抗は、後には政府権力をおびやかして、心理的圧迫を感じさせる(いわゆる昭和初期からの維新動乱時代)。この間の朝野の思想史は、複雑を極めた。それは「国家神道時代」末期十有余年のことである。[葦津 2006(1987):10-11]

 

ここで葦津は「政府の国家神道」と「在野神道諸潮流」とを対置している。前者は内務省が統制していた神社と神職の組織を指しており、後者は天皇崇敬や国体論に力点を置き、「神道」とともに、あるいはそれ以上に「皇道」を説くような勢力を指している。前者が国家官僚制の下にある「上からの国家神道」であるとすれば、後者は在野の人々に主体がある「下からの皇道運動」である。後者も神道祭祀を行う天皇への崇敬を掲げるもので、明治維新の国家構想の基本に関わるものなので「国家神道」の重要な構成要素と見なすべきだというのが筆者の考えだ[島薗 2010]。

国家神道という語の指す範囲をどう捉えるかという問題はさておき、秦が捉える「上からのファシズム」の像と葦津が捉える「在野神道諸潮流」とをうまく整合することができるだろうか。在野神道諸潮流が「上からのファシズム」を下から後押しするような性格を持ったことは確かだろう。では、それは「軍部ファシズム」とどのように関わっていたのだろうか。「軍部ファシズム」が「在野神道諸潮流」と、また皇道主義とどう関わったかという問題だ。

「上から」の働きかけと「下からの」働きかけがどのような割合で分布したかを測るのは容易ではない。ただ、天皇崇敬の下での国民の一体感を形成していくことが、昭和期のファシズム体制につながった。そしてそこで軍部が果たした役割は小さくない。そうであるとすれば、明治以降の軍隊の歴史がそれにどう関わったかを明らかにしていかなくてはならない。明治維新以降、第二次世界大戦の終結に至る時期の日本の精神文化の動きを考える上で、軍部・軍隊の精神史をたどることが重要な理由はいくつも挙げることができるだろうが、以上の理由はその中でも大きなものの一つである。

 

参考文献

アンダーソン, B. 2007(1983)『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行―』(白石隆・白石さや訳)書籍工房早山。

アサド, T. 2006(2003)『世俗の形成―キリスト教、イスラム、近代―』(中村圭志訳)みすず書房。

葦津珍彦 2006『国家神道とは何だったのか(新版)』神社新報社(初版:1987年)。

秦郁彦 2012『軍ファシズム運動史(復刻新版)』河出書房新社(初版:1962年)。

ユルゲンスマイヤー, M・K, 1995(1993)『ナショナリズムの世俗性と宗教性』(阿部美哉訳)玉川大学出版部。

ノーマン, E・H, 1947(1943)『日本における兵士と農民―日本徴兵制度の諸起源―』(陸井三郎訳)白日書院。

島薗進 2010『国家神道と日本人』岩波新書。

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。