アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて 24

縁ある人の死      

鎌田東二

 

 

 

平成の最後の年に二人の縁ある人が亡くなった。一人は梅原猛氏。もう一人は中島和秀君(俳号:石川力夫、あるいは中島夜汽車)。

 

1、梅原猛氏の死

 

112日、梅原猛氏死去の知らせが届いた。享年93歳。お通夜などはやらない、家族で密葬ということだったので、弔問を遠慮した。たぶん、南禅寺でお通夜と葬儀をされているのだろうとは思ったが、参列を控えざるを得なかった。梅原猛氏の長男で、とても親しくしてきた美学者の梅原賢一郎さん(京都造形芸術大学教授)に弔文をお送りした。

 

梅原猛先生の勇猛果敢かつ大胆な学問的業績と、芸術や美や宗教に対する震えるような繊細な精神と感受洞察力に心からの敬意を表します。そのDNAは、間違いなく、長男の賢ちゃん(注―梅原賢一郎氏のこと)に受け継がれています。

 

ご逝去の悲しみの最中であっても、梅原猛先生のスピリットと血が梅原家を見守り、力強く脈動していると感じています。

 

 

 

わたしが梅原猛氏と初めてお会いしたのは、1990年頃、国際日本文化研究センターが出来て、わたしが山折哲雄氏が主宰する研究プロジェクトの共同研究員として参画した時のことであった。その時にはすでに『隠された十字架』とか『水底の歌』などのベストセラーになった梅原氏の著作を読んでいた。

 

だが、その聖徳太子論や柿本人麻呂論を追求する論法は、推理小説のような謎解きの面白さと情熱的な筆力と吸引力を感じて魅かれるところはあったが、論の進め方が強引で我田引水・牽強付会と思うところがあった。わたしにもそのようなところがあるので、梅原氏の長所と短所がよくわかった。毀誉褒貶あることはむべかるかなと思った。

 

しかし、大胆不敵な論法と憑かれたような文体はある種錬金術的とも魔術的ともいえるもので、ニーチェにも通ずる啓示的でヴィジョネールな哲学的思索の系統だと感じた。

そうこうしているうちに、国際日本文化研究センターで、梅原猛氏が代表者となって重点研究の「文明と環境」プロジェクトが始まり、わたしは総括班(第6班だったか?)に属することになった。そこに、美学者で当時京都造形芸術大学助教授であった梅原賢一郎さんや甲南大学助教授で臨床心理学者の河合俊雄さんや大阪大学教授(もしかすると当時は関西大学教授だったかもしれない)鷲田清一さんが参加しており、親しくなった。特に、梅原賢一郎さんと河合俊雄さんとはとても親しくなり、家にも行き来したりする家族ぐるみの付き合いとなった。梅原賢一郎さんのお宅に泊めてもらったことも一度や二度ではない。たぶん、十回くらいはあるのではないだろうか。大変お世話になっていた。そのご厚情に心から感謝したい。

ある朝早く、わたしが梅原賢一郎さんの桂のお宅に泊まっていた時、わたしが寝ていた部屋のFAXがいきなり動きはじめ、実に長文のFAXが白熊が白い長い舌(そのような舌であるかどうか知らないが)を出すような感じで届いた。もちろん、それを読んだわけではないが、大きな字だったので、最初の一部が眼に入った。そこには、「おじいちゃんが悪かった」というような文言が大きな字で書かれていた。

梅原賢一郎さんには三人のとても立派に育った息子たちがいる。その一番上の梅原密太郎君(京都大学理学部・大学理学研究科で量子物理学を学び、研究者となっている)が最初の男の子の孫だったようで、梅原猛氏は目に入れても痛くないほどにかわいがっていた。その孫への愛情が溢れ出しているようなFAXで、とても微笑ましくも共感が持てたことをはっきりと覚えている。

そのようなことを通して、梅原家とは親交を深めたが、しかしわたしは長い間、梅原猛氏の著作のよい読者ではなかった。一種敬遠していたようなところもあった。その理由の一つに、梅原猛氏とわたしは誕生日が同じで、血液型も同じだった。大正14年、三島由紀夫と同年の1925320日、梅原猛氏は宮城県仙台市で生まれた。数奇な運命を辿った梅原猛氏は、叔父さん夫婦に引き取られて、愛知県の知多半島で育った。そこはわたしの先祖の鎌田正清が殺されたところでもあったので、そのことを知った時には大変複雑な思いがしたものだ。梅原猛氏は19454月に京都帝国大学文学部哲学科に入学し、その直後に徴兵。9月に復学し、戦後の混乱がいまだ続く19483月に卒業。大学院に進み、研究者の道に乗り出す。古代ギリシャ哲学、ハイデガー哲学、ニーチェ、実存主義などを学んだり親しんだりしたが、そこから飛躍して笑いの研究から仏教の研究へ、そして古代日本文化の研究に参入していく。その梅原古代学と言われるものをわたしは何冊か読んでいた。中上健次さんとの対談集『君は弥生人か縄文人か』や深層縄文文化論も読んだ。

それが何に拍子か、数年前に梅原猛氏の最初の著作の『美と宗教の発見―創造的日本文化論』(筑摩書房)を読むことになった。その本は、19671月に出版された。梅原猛氏の処女作と言っていい。その半年後の19666月に『地獄の思想――日本精神の一系譜』を上梓しているが、この二つの著作が梅原猛氏のその後の全てを創ったと言っても過言ではない。その後の梅原氏の仕事のすべての種子がこの二冊の中に詰まっている。とりわけ、『美と宗教の発見』は革命的な問題作だと思う。

そこで立論と批判の対象となっているのは、鈴木大拙、和辻哲郎、丸山真男、正岡子規、柳宗悦、創価学会、牧口常三郎、戸田城聖、国学(賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤)、水戸学(藤田東湖)、国家神道などであるが、その批判が的確で容赦がない。もちろん、それぞれの論者の長所や良い点も挙げられている。その意味では、言葉は悪いが、持ちあげて貶すという形になるが、その貶し方が凄い。梅原猛氏の著作で一冊だけを推薦してくれと言われたら、わたしは一にも二にもこの『美と宗教の発見』を推す。

今、島薗進学長が追及している国家神道論も論じられている。主に、日本仏教の再検討を中心にしながら、神道やアニミズムや日本的美意識や日本的宗教感情の問題が独自の観点から考察されていて、面白く、かつ大変示唆的である。そこで展開される錚々たる大家に対する批判は鋭く容赦がないが、それは単なる批判のための批判ではない。梅原猛氏が愛する日本の美と宗教の持つ創造的力のまさに「発見」のための批判であり、考察である。国際日本文化研究センターの設立を含め、梅原猛氏の仕事の全容がそこに予告され、織り込まれている。一種の梅原予言書のようなものだ。

わたしはなぜ最初にこの本を読まなかったのか。その問題意識、対象とする領域、鋭い着眼点と明確な論旨、苛烈な批判精神とそれに基づく日本の宗教と芸術に対する深い洞察と悲願のような愛。渾身の力と透徹したまなざしで日本文化の光と闇、苦悩と救い、創造的展開を大胆に解き明かしている。後年、アニミズム思想の止揚とも言える「草木国土悉皆成仏」の命題を人類哲学と未来文明に寄与しうる日本思想の真髄と主張したが、その論点も明確にこの『美と宗教の発見』の中に先取りされて論じられている。その日本文化を串刺しにする洞察力は大変優れていると思う。

そんな梅原猛さんの仕事の凄味と創造性に心からの敬意を親愛を抱く。梅原さんが亡くなった今、素直に梅原さんの情熱と論理に触れることができるように思う。梅原猛さん、本当にありがとうございました。これまできちんとあなたの本を読んで来ず、ごめんなさい。これから全著作を読んで、じっくりと受け止めていきます。

 

2 中島和秀君の死

 

平成も後10日ほどとなった422日、中島和秀君が死去した。享年69歳。食道癌だった。

その知らせが届いたのは、翌日の423日だった。京大俳句の事務局の宮本さんが知らせてくれた。驚くというか、青天霹靂というか、想定外というか、まったく予感も予測も何もない無防備な状態だったので、言葉が出なかった。

残念無念には違いないが、悔いが残った。彼の死の傍にいられなかったことが。大重潤一郎さんの死去の時は息を引き取るその時もそばにいることができた。しかし、18歳の時に出会って以来友人であり続けた中島君の死去の傍にいることができなかったなんて。それも同じ京都の左京区に居ながら。

なんてことだ! 嗚呼!

 

中島君に初めて会ったのは、196910月か11月のことだった。寺山修司が大阪で加藤ヒロシと組んで「A列車で行こう」という詩劇を上演することとなり、その主演者となったのが中島和秀君で、招かれざる異物となったのがわたしであった。中島君19歳。わたしは18歳だった。中島君は「A列車で行こう」の冒頭、全裸で「あなたはしあわせですか?」という寺山修司が用意した詩を唱えながら、一人一人の観客に問いかけていった。寺山修司らしい外連味たっぷりのあざとい演出だ。そう思っていた生意気なわたしはその劇が終了した直後に「こんな演劇は嘘っぱちだ!」と叫び、飛び入りでJACS(歌:早川義夫)の「からっぽの世界」のテープを鳴らしながら自作の詩を朗読した。

観客はそれも寺山修司の演劇の一つの演出と思っただろうが、そんなことがあった。一日目はそれで済んだが、ご丁寧に二日目も同じことをしたら、関西学院大学の学生でウッドベースを弾いていた長身の荒木君が殴り掛かって来て喧嘩になった。三日目はなかった。

そのようなことがあったが、翌年19705月から6月にかけて、わたしが作演出して『ロックンロール神話考』を大阪心斎橋で上演したが、その時の主演男優が中島和秀君、出演者の一人が荒木君であった。19歳のわたしはその演劇集団の中で一番若いわけではなかったが(一人だけわたしより一級下の18歳の女の子がいて主演女優をしてくれた)、ほぼ皆年上の大学生や社会人だった。思い起こせば、よくまあそんなことができたなあと思うが、考えてみると、わが人生はそんなことの連続だったので、よくまあ性懲りもなくやってんなあ、ということになる。

中島和秀君は、その後少し舞踏をし、俳句を作り始めた。永田耕衣に私淑していたが、結社に入ることなく、独自の作句活動を続けていた。彼がその後種智院大学に入った時、『僧兵』と『(マー)()』という同人雑誌を作って、わたしも同人の一人になって詩やエッセイを寄稿した。それを確かすでに親しくなっていた若き宗教学者の島薗進さんに送って批評してもらったりした。その『魔羅』にわたしの処女作となる『水神傳説』を発表した。

その意味で、中島君とわたしは、同志的な創造仲間であり、もっとも深くお互いの精神世界を理解し合っていたのではないかと思う。もう一人、一緒に『ロックンロール神話考』を中心になって作った音楽家・ミュージシャン(中川五郎のヴァギナ・ファックや後藤人基のアケトのドラマー)の戸田君がいたが、青春三馬鹿大将とも三銃士とも言える同志であった。その二人も今はこの世にいない。

中島君は父親は警察官だったが、自身はやさぐれていて、とても花が好きで、京都の「花政」の花職人となり、その後、京都大学理学部・農学部の植物園の庭師となった。そして、わたしが京都大学こころの未来研究センターにいた8年間は、同じ京都大学職員として働いていた同僚でもあった。

不思議な縁の仲間である。彼とは東北一周無銭旅行をして、佐渡ヶ島や男鹿半島や下北半島の恐山に行った。わたしが初めて恐山に行った時は中島君と一緒だった。まだ雪の中の恐山に歩いて行ったのだった。

思い起こせば、いろいろと尽きせぬ思いが湧いてくる。その中島君が癌であることを一言も知らせずに逝ったのだ。彼は知友の誰にも自分が癌であることも知らせず、京都市左京区の銀閣寺の近くにあるバプテスト病院で死んだ。

辞世の句は、

 

  生理食塩水は涙の味がする

 

だった。最後に会ったのは、1年前、我が家に来てもらい、二人で造った経本仕立ての奇書『阿吽結氷』(夜桃社、1984年)という二人句集を借りていたのを返し、一緒に夕食を食べた時だった。その時、彼が癌になっているとはまったく分からなかった。好きなお酒もおいしそうに飲んでいた。中島君とは話をしたかったことがまだまだ山ほどあった。そんな18歳の時から60年付き合ってきた本当に縁ある親しい男が平成の時代の終りに独りで死んでいったのだ。かなしく、さびしく、くいる。

 

  友去りて見上げた空に暗黒星

    行方不明の兄のたましい

 

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、京都大学こころの未来研究センター教授を経て、201641日より上智大学グリーフケア研究所特任教授、放送大学客員教授、京都大学名誉教授、NPO法人東京自由大学名誉理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)『世直しの思想』(春秋社)『世阿弥』(青土社)『日本人は死んだらどこへ行くのか』(PHP新書)など。鎌田東二オフィシャルサイト