「君たちの先生は、どこにいるのか?」
辻 信行
大学教員になって14年、一度も講義らしい講義はしてこなかった。「演壇」という権威の象徴を使って講義するのも、今日が最初で最後だと言う。
去る12月18日に明治学院大学で開催された高橋源一郎さんの最終講義「学ぶこと、教えること、教わること」に参加した。横浜キャンパスの講堂は、500人の来場者ですし詰めだ。
世界で最も美しい講義は、ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』であると高橋さんは語り始めた。自作を含め、毎回3本の映画を観ながら進められたアドリブの講義で、ゴダールは吃り続けた。
「映画とは……おそらく映画とは………偶然の……何かなのかもしれない」
ゴダールは、知識を積み上げすべてを知っている講演者が教えを与えるスタイルではなく、聞き手と一緒に迷い、漂流した。映画を最も愛しながら、どこまでも映画の部外者。それは自作について語るときですら変わらなかった。
高橋さんがゴダールのことを思い出したのは、前日、作家の赤坂真理さんと会ったからだ。注意欠陥・多動性障害であると語る赤坂さんは、ラジオの収録でも落ち着かない。「どう思いますか?」と意見を尋ねても、数秒間の沈黙がある。分かったことや知識を語るのではなく、堂々と自分の考えに耽っている。と思った次の瞬間、スマホを取り出し高橋さんの写真を撮ったりする。このような赤坂さんの振る舞いを、「とても好ましいこと」と高橋さんは感じている。
「人々は多くの場合、結論を持っています。だから他人の話はたいして聞きません。決まったボールを投げ、「会話のキャッチボール」をした気になっているだけ」
赤坂さんの小説『東京プリズン』は、アメリカの片田舎の高校に留学している16歳の女子高生マリの物語。天皇の戦争責任についてクラスでディベートすることになり、マリは天皇を擁護する側に回るよう指名され、葛藤する。
天皇のことも戦争のこともほとんど何も知らなかったマリは、アメリカに行って初めて日本の歴史と向き合うことになる。高橋さんは「何かを新しく知ることは、知らなかった自分を傷つけること」と語る。
歴史に無知なマリは、等身大のわたしたちだ。学校では大切なことを教えてくれない。それでは、と高橋さんは言う。「君たちの先生はどこにいるのだろう?君たちの知らないことや、大切なことを教えてくれる先生は、一体どこにいるのだろうか?」
それはね、と高橋さんは諭す。「君たち自身です。君たちの先生は、君たち自身。他にはいません。それが私の辿り着いた結論です」
いよいよここから、講義は本題に入る。この結論に辿り着いた経緯を、高橋さんは半生を振り返りながら語り始めた。
1951年1月1日、広島県尾道市に生まれた高橋さん。最初の記憶は、1枚の家族写真を見たことに始まる。向かって左に、普段笑わない父親が満面の笑みを浮かべて立っている。その右横に割烹着姿の母親が立っている。二人の背後には、目に鮮やかな菜の花畑が広がっている。この写真が撮られた後で父と母は別居した。だからとても貴重な一枚だ。
このエピソードをあるところに書いたら、高橋さんの弟が「兄ちゃん、あんな写真あったっけ?」と訊いてきた。後日、実家のアルバムを片っ端から調べてみたが、弟の言う通り、その写真は見つからない。しかも高橋さんの記憶ではカラー写真だが、当時はモノクロ写真が一般的で、高橋家のアルバムにもモノクロ写真しか残っていない。
「あれは写真ではなく、現実の光景だったのだ」と高橋さんは気が付いた。よくよく思い出せば、あの写真は下から見上げるアングルで、幼い高橋さんの目線そのものだった。にこやかな父と母に愛され、平穏無事を実感できたほんのわずかな瞬間を、写真のように記憶しているに過ぎなかった。
4回の夜逃げを含め、これまで51回も引っ越しを繰り返してきた高橋さん。小学校時代はいつも「転校生」で、学校で何かを学んだ記憶はない。いつも窓の外を眺めてばかり。早く授業が終わることを切に願っていた。
しかし、中学校は超進学校に通った。同級生たちは、自分の力で学びの門を開こうと奮闘していた。中学2年でリルケをドイツ語で読み、ランボーをフランス語で読む同級生たち。「えっ!? 高橋くんは日本語で読んでるの?」とたしなめられながら、なんとか同級生たちに食らいついてゆくことが、中学2~3年のミッションだった。
谷川雁の思想や、「人に分かるのは恥」という難解な現代詩をめぐる議論に参加しながら、中学2年のある夏休みの午後8時、高橋さんは一人の同級生とうどん屋に行った。食べ終わった直後、いきなり同級生の彼は、詩を朗読し始めた。
まったく意味が分からなかったにも関わらず、高橋さんは感動のあまり動けなくなってしまう。この詩はすごい、ただそれだけのことが分かったと言う。
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「異数の世界へおりてゆく」 吉本隆明
異数の世界へおりてゆく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわるときの快感をしらなかったことに
けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうえで支配者にむかって
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとって逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである
無関係にたてられたビルディングと
ビルディングのあいだ
をあみめのようにわたる風も たのしげな
群衆 そのなかのあかるい少女
も かれの
こころを掻き鳴らすことはできない
生きた肉体 ふりそそぐような愛撫
もかれの魂を決定することができない
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていったが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである
秘事にかこまれて胸を ながれる
のは なしとげられないかもしれない夢
飢えてうらうちのない情事
消されてゆく愛
かれは紙のうえに書かれるものを恥じてのち
未来へ出で立つ
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うどん屋で不意に読まれた吉本隆明の軍国少年時代を回想した詩が、何の経験もない戦後生まれの少年の胸を撃ち抜いた。あらゆる優れた作品は、不意打ちの効果がある、と高橋さんは言う。恐れとともに感動する。たとえ意味が分からなくても、人は感動することができるのだ。
高橋さんにとって大学は単に通過するところだった。まったく通うことなく、8年間で満期退学。その頃、逮捕されて10カ月拘留され、マクシム・ゴーリキーの自伝『私の大学』を読んだ。ゴーリキーは大学に入学せず、カザン地方に出向き、下層階級の人々と深く交流。社会主義運動に邁進した。この時の体験がもとで、ゴーリキーは作家となる。生前「私の大学は、カザン大学」と語っていた。
自分を教えることのできる先生は、自分しかいない。しかし、自分自身に水をやり、成長させないと、自分を教えることはできない。「大学」は自分に水をやり、成長させる場である。けれど「大学」も人それぞれで、ゴーリキーのカザン大学のように、既存の大学ではない場合もある。
高橋さんは1981年に作家デビューし、それから紆余曲折を経て2005年に明治学院大学で教員になった。はじめて学生たちを前にして、彼ら彼女らを「知っている」と思った。それは作家として、読者を前にしたときとよく似た感覚だった。
作家と読者の間には、上下関係がない。それと同じように、教師と学生の間にも、上下関係はない。作家が読者に「ぼくはこう思う。君は?」と問いかけるように、高橋さんは教師として学生に問いかけた。知識としての言葉を教えるのではなく、学生の中に埋もれている答えを一緒に探し、成長するための手伝いをする。「もっとも、ぼくにはそれしかできなかったんだけどね」と、照れくさそうだ。
しかし、目の前の学生たちに未知との出会いをもたらすこと。14年間、高橋さんが授業で徹底してきたことだ。たとえば次のような文章との出会いである。
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四十五ねんのあいだわがままお
ゆてすミませんでした
みんなにだいじにしてもらて
きのどくになりました
じぶんのあしがすこしも いご
かないので
よくやく やに
なりました ゆるして下さい
おはかのあおきが やだ
大きくなれば
はたけの コサになり
あたまにかぶサて
うるさくてヤたから きてくれ
一人できて
一人でかいる
しでのたび
ハナのじょどに
まいる
うれしさ
ミナサン あとわ
よロしくたのみます
二月二日 二ジ
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この遺書を書いたのは、木村センという明治24年生まれの群馬の農婦だ。彼女は64歳で大たい骨を骨折するまで、農婦としてただひたすら馬車馬のように働き続けた。骨折してから寝たきりとなり、とつぜん孫から字を習い始めた。そして間もなく、首つり自殺をした。後には、この一通の遺書が残された。
誤字だらけであるものの、言わんとすることはよく分かる。「四十五ねんのあいだ」とは、嫁いでからの年数である。みんなに大事にしてもらったが、足が少しも動かないからイヤになった。墓地のそばに木が立っているが、そのままでは畑の邪魔になるし、自分が入る墓の上にかぶさるのがイヤだから、切ってほしい。そこから調子が変わり、労働の合間に歌っていた和讃の一節が書かれ、あとはよろしく頼みますと結ばれる。
センの遺書が、こんなにもわたしたちの胸を打つのはなぜだろう。家族に宛てられた一人の農婦の遺書を通して、なにかとても大切なことを教わっている気がするのはなぜだろう。
「センは遺書を書くために、どうしても字を習う必要があった」と高橋さんは指摘する。「孫から無心で字を学んだセンのように、みんなが無心で学べたらいいのに」
高橋さんはこの14年間、自分が学生に教えたことより、学生から教わったことの方が多いと振り返る。よそ者としての役割を期待された明治学院での教員生活は、「ぼくの黒字」だったと。ちょうどこの14年間は、子育ての時期と重なった。いまでは中学生となり高橋さんの背丈を越えてしまった息子2人は、遠くから見れば、どちらが親だか分からないと笑う。
なぜ子どもは言葉を覚えるのか。息子2人を育てることで、高橋さんはその理由を見つけ出した。それは、みんなに喜ばれたいから。ママにママって言うと喜ぶ。パパにパパって言うと喜ぶ。でも、ママにパパって言うと大ブーイング。逆もしかり。このようにして、子供は言葉を覚えてゆく。「息子2人は、この世界からのぼくへの贈り物です」。
かつて高橋さんは、子育ても大学で教えることも、作家としては無駄な時間だと思っていた。しかしそれは違ったと言う。逆に作家としての生命が延びたと実感している。
とは言え、生き延びることにマニュアルはない。常に現場での判断を要求される。大学を離れると「ちょっと待った」はない。だから、本能でより生き残る方を選び取れるようになって欲しいと高橋さんは言う。「それが学生に対する、全ての教員の願いじゃないかな」。
しかし、何が起こるか分からないのが、人生の希望だと付け加え、高橋さんは最後に自作『さよならクリストファーロビン』を朗読した。登場人物たちは生き延びるため、小説のなかで自分たち自身によって物語をつくり続ける。しかし結末で意外な選択をし、その結果を読者に想像させる。高橋さんは最後に、詰めかけた来場者に語りかけた。
「作家として、教員として、親として、みんなに未知のものを届けたいと思ってやってきました。しかしこの14年間は、学生たちから受け取るものの方が多かったように感じています。
もうすぐわたしは、大学を去ります。しかしこれからも作家として、わたしは100年後の14歳に向けて書き続けたいと思っています。うどん屋にいたかつてのわたしがそうだったように、100年後の14歳もまた、親と教師からの圧力、友達との軋轢に悩み、最も感受性が鋭いゆえに、最も孤独に苛まれているかもしれない。そんな14歳がわたしの書いたものを読んで、「よく分からないけど、生きていこう」と思ってくれたら、作家になった甲斐があると思うのです。
それにしても、明治学院で過ごした教員生活ほど、楽しいことはありませんでした。もうこんなに楽しい時間は、やってこないんじゃないかと思います。みなさん、14年間、本当にありがとうございました」
満場の拍手が沸き起こり、花束を持った卒業生たちが演壇の下に駆け寄った。懐かしい顔を見つけ、高橋さんも嬉しそうだ。長蛇の列をなす彼ら彼女らは、高橋さんにとって学生であり、読者であり、子どもたちでもあるのだろう。100年後、14歳の彼ら彼女らのひ孫たちは、高橋さんの作品を、どのように受け止めるのだろうか。そのとき世界は、どうなっているのだろうか。講堂から外に出て、寒天にまたたく星々を遠く見やった。