アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて 23
天河大辨財天社御造営30周年記念例大祭・奉祝祭と大重祭り
鎌田東二
1、天河大辨財天社御造営30周年記念例大祭・奉祝祭
2018年7月16日(月)と7月17日(火)の天河大辨財天社の例大祭の宵宮祭と本宮祭に参列し、その後円空仏を祀る栃尾観音堂を参拝した。天川村の住民の人たちも、このところの気候は、天河でもこれまでにない暑さで異様だと言っていた。もうずいぶん前から異常気象が云々されているが、最近の異常気象はこれまでの予兆的なものからいよいよ異常本番に入ってきたようで大変不気味であり、本当に何が起こるか分からない。そんな危機感を折に触れて表出し、NPO法人東京自由大学も含め、「楽しい世直し」を訴えてきたが、間に合わないかもしれないと深刻な危機感を抱いている。
詩人の故山尾三省さんも、故大重潤一郎監督も、その危機感と「自然に属する、自然の基盤の上の中でようやっとつつましく生きられるひとつのいのちとしてのにんげん」の位置を訴えてきたが、もう手遅れ、という気もする。
だがしかし、仮に手遅れであったとしても、吾らは今日を、明日を、あさってを生き抜かなければならぬ。そのためにどうしていくか。どう生きていくかが問われている。日々の暮らしと未来につながる実践が。
例大祭の時、社務所では、天河大辨財天社の柿坂神酒之祐宮司さんとわたしとの共著『天河大辨財天社の宇宙~神道の未来へ』(春秋社、2018年7月17日奥付)が置かれていた。この日のために、御造営30周年記念出版として出そうとしたので、間に合って本当によかった。春秋社のベテラン名編集長の佐藤清靖さんにも大感謝!
例年、この暑い時期に京都では祇園祭が行なわれるが、山鉾巡行のクライマックスの7月16日・17日が奈良県吉野郡天川村坪ノ内鎮座の天河大辨財天社では例大祭の日に当たる。そのためわたしは祇園祭の山鉾巡行を見たことがない。祇園祭の宵宵宮祭は何度か見たことがあるが。祭日・行事日が重なっていて残念とは思わないが、そのような運命だと受け止めている。加えて今年は、天河大辨財天社が御造営30年という節目の年なので、何としてもその時には参列しなければならぬ。
振り返ってみれば、平成元年、1989年7月16日・17日の例大祭が現社殿の竣工祭であり遷座祭であった。天河ではそれを「正遷宮」として祝った。その前の遷座は287年前の江戸時代初期であったという。その頃はもちろん、神仏習合の修験道の75靡きの54番目が弥山に当たっており、里宮としての天河大辨財天社も賑わっていたはずだ。
その天河に大転換が起こったのが、明治元年(1868年)以降の神仏分離令の政令発布と廃仏毀釈の運動であった。村の人たちも、神仏習合の神社や仏像を壊したりしたので、柿坂神酒之祐宮司さんの何代か前の宮司であった社家の柿坂位太郎氏は「ハラワタがちぎれるほどくやしかった」と言い、その「遺訓」を代々子孫に言い継げと伝えたという。その「遺訓」は間違いなく子孫である現第65代宮司柿坂神酒之祐氏にも伝わっていることだろう。
その「遺訓」を胸に刻んで生きてきた柿坂神酒之祐宮司さんと今回の御造営30周年に合わせて『天河大辨財天社の宇宙~神道の未来へ』(春秋社)を編んだのだった。
わたしが1984年4月4日に初めて天河を訪れて34年が経った。34年という年月にこれといった感慨はない。が、成るべくして成った、というご縁を感じている。天河はわが67年の人生のちょうど半分であり、わが半生は天河大辨財天社と共に在ったということになる。ということは、柿坂神酒之祐宮司と共に在った、ということになる。吾が人生の前半生は、天河知らず人生、後半生は天河ヒジリ人生ともいえる。
その天河大辨財天社の祭礼の夜、ふと、「現代のエンの行者」になろうと決意したのが1985年のことであるから、今から33年前のことであった。現代の「エンの行者」は修験道を厳しい修行をして験力や呪力を身に着けるのではなく、「縁の行者」として、人々を「縁つなぎ」すればよい、そんな「つなぎ」のワザをどこまでできるか、それこそが修行であると思い定めたのであった。それが、NPO法人東京自由大学の結成や、猿田彦神社の「おひらきまつり」(1997年~2008年)や「神戸からの祈り」(1998年8月8日)「東京おひらきまつり」(平成10年10月10日)などの「祭り」の創成にもつながっている。わが後半生の人生は、そのような「現代縁の行者道」であったと総括できる。それは、ある意味では、出雲神道の縁結び道と、役行者の出た葛城神道の修験道との合体統合を企図した鎌田神道・鎌田修験道でもあった。
そんな「神道」や「修験道」の根底に何があるのか? 柿坂神酒之祐宮司さんの言葉を拾えば、「お掃除」であり、「ふとまに」であり、「かがみ」である。それが自然天然の声を聴くことに通じる。これには、故山尾三省さんも故大重潤一郎さんも相槌を打つだろう。それが「いのちの素の感覚」や「野生の感覚」を磨くことになるのである。問題は、それがどこまで出来ているか、磨かれているか、だ。「お掃除」の大苦手なわたしには困難至極の難行苦行である。この「お掃除道」は。天然自然は、自然に、「お掃除」している。天と地の動きはそれ自体が「お掃除・浄化」である。
だが、人は、違う。人間は「お掃除」の反対。さまざまなものを汚す。だから、意識して「お掃除」しなければならぬ。その「お掃除道=ふとまにかがみ道」を柿坂神酒之祐宮司から懇切丁寧に伝授されたはずなのに、なかなかできぬ。
2、2018年7月22日(日)、天河大辨財天社での「大重祭り」
2018年7月22日、1週間にわたる天河大辨財天社御造営30周年記念例大祭の奉祝行事がすべて終わった。その初日と二日目と、最後の二日の7月21日(土)から23日(月)まで奉祝行事の最後に参列した。
7月21日(土)、京都の修学院からから天河大辨財天社に向かい、途中丹生川上神社下社を参拝して、天河大辨財天社にお昼ごろ到着して、講演準備をし、「アメノウズメと辨財天~女神のちから」と題する1時間余の話をした。その最後に「弁才天讃歌」を歌った。この歌は、1999年2月2日の節分祭の夜に作った歌である。講演の最後に2曲、この「弁才天讃歌」と「神」という曲も歌いたかったが、残念ながら時間の関係で省略した。埼玉県大宮から京都経由で螺鈿が埋め込まれた愛用のギターを運んだ。
講演を終えて、特別昇殿参拝し、後先になってしまったが、その後に弥山川中流で真裸になって禊をした。弥山(1985m)から流れ落ちてく冷たい清流が心地よい。
夜、柿坂神酒之祐宮司監修によるミナル川西宏子さんたちの「アメノウズメの舞」の奉納があった。アメノウズメの舞と斬新な音楽(現代音楽とクラシック・オペラ)のコラボレーションだった。堂々たる立派な舞であり、奉納だった。拍手喝采だった。
曲は、初めの4分ほどのピアノ曲は山本氏の作曲。それに乗せ、ミナルが「ひふみよいむなやこと」の唱えごとを朗唱しつつ軽やかにかつエネルギッシュに舞う。2曲目男性声楽家の歌でシェーンベルクの「Dank」、次に女性声楽家の歌でヘンデルの「Dank sei dir, Herr(神よ、あなたに感謝します)」。すばらしいコラボレーションだった。
7月22日(日)最終日の朝9時から祭典が行なわれ、斎主祝詞奏上の後に、小嶋さちほさんたち6名+太鼓・五十鈴演奏の「アマノマイ」の奉納があった。
その冒頭で、沖縄本島南城市在住の音楽家・小嶋さちほさんの奉奏する石笛に、能舞台の隅からコラボレーションした。
10時から、故大重潤一郎監督の遺作「久高オデッセイ第三部風章」(95分、2015年制作)の奉納上映を行なった。大重潤一郎さんのこと、大重さんと沖縄との関わり、そして「久高オデッセイ」三部作の簡単な紹介をしてから、法螺貝を吹いてスタート。大重さんの想いと「久高オデッセイ」三部作の説明をしながら、大重さんが死去してまる3年が経ったのだと思った。その3年目が、天河大辨財天社御造営30周年記念例大祭・奉祝祭の最終日に当たり、柿坂神酒之祐宮司さんと柿坂匡孝禰宜さんに提案して、天河で「大重祭り」を行なうことができるようになった。小嶋さちほさんたちの「アマノマイ」の奉納もその縁で実現したのだった。
そして、昼食を挟んで、13時から大重潤一郎監督が1991年に制作した「水の心」(27分)を上映する。ヒマラヤから流れ落ちる水とバリ島のアグン山から流れ落ち、棚田を潤す水とその流域で暮らす人々の暮らしが描かれる。淡々と「水の心と暮らし」を描く名品である。大重さんの心とエロスが最も瑞々しくシンプルに表現された傑作だと思う。この27分の小品の「水の心」の最後の3分ほどの間に「サラスヴァティ」という言葉が3回ナレーションで語られている。
「水の心の神サラスヴァティが人びとの祈りを聴き届ける」
大重さんは、この映画を制作する以前に天河大辨財天社に参拝したことがなかったが、天河大辨財天社の辨財天の「水の心」を感受していた。その妙縁と不思議を感じる。
「水の心」の映画上映後、1時間、大重映画の3作品(「縄文」「ビックマウンテンへの道」「大台ケ原」)の音楽を担当した岡野弘幹さんと柿坂神酒之祐宮司さんと共に「水の心と祭りの心」をトークする。
「水の心」とは? それを感受した大重潤一郎の心とは? そして、「祭りの心」とは?
岡野弘幹さんは、「まつり」とは、「間を詰める」、関係や距離を近づけることだと語った。柿坂神酒之祐宮司さんは、「まつり」の「ま」は「空間・融通」、「つ」は「集い・集合」、「り」は「ことわり・法則」であると語った。わたしは、「まつり」の語源説は、待つ、奉る、服(まつ)ろう、真・釣り合いの4説あるが、それらはいずれも「祭りの心」を表していると述べた。祈りは基本的に一人の「心」の中で成就するが、祭りは一人では達成できない。祭りは協働性を本質とする。集いと関係。その結集。「祭りの心」とは、そのような寄り集い協働するところにあるのではないか。
15時からの「終宴祭」を終えて、最後の岡野弘幹さんたちの音霊奉納があった。その前に、昨日同様、弥山川で禊した。
音霊の奉納は、音楽家の岡野弘幹さんたちが、吉野で殺害された鹿の皮をネイティブアメリカンの「メディスンドラム」として作り、鹿の心といのちを「メディスンドラム」に再生せしめたドラムを合奏するのをメインとする。その鹿皮ドラムの合奏で、祭りの最後の花火にスピリットを吹き込んだ。その鹿皮を借りて叩きながら、演奏を見守った。
岡野弘幹さんたちのグループの音霊奉納の最後に、柿坂神酒之祐宮司さんと柿坂匡孝禰宜さんの挨拶があり、その後、柿坂匡孝禰宜さんによるカウントダウンで、花火が打ち上げられた。天川の夜、見事な花火が打ち上げられ、山間に「オンソラソバテイエイソワ」の弁才天の真言のように力強く鳴り響いた。
すべての奉祝行事が無事、身心魂を込めて修せられたことに、合掌再拝。この30年の歩みと響きが次のステージにどうつながっていくか、共に見守り、共に祭り合っていきたい。どうか、大重はんも見守ってたもれ。
鎌田 東二/かまた とうじ
1951
年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、