「神の島」に寄せた熱い心

―大重潤一郎監督との記憶を辿るー

堀 信行

 

私は、2018(平成30)年722日、大峯本宮天河大辨財天社の奉納上映会で、長年の夢であった大重潤一郎監督の作品「久高オデッセイ第三部 風章」と「水の心」を鑑賞した。鎌田東二先生を中心に企画されたこの上映会は、3年前に大重監督が69歳で亡くなった命日でもあり、監督に再会できた日でもあった。

これまで大重監督の映画を観る機会を失ったままだった私にとって、今回は「長年」の夢が叶えられた日でもあった。「長年」とは、大重監督が「久高オデッセイ」三部作の製作を開始したとされる2002(平成14)年以来の年月のことである。というのは、私が大重監督と初めて出会ったのは、16年前の2002(平成14)年1116日のことであった。思えば、監督が「沖縄映像文化研究所」をこの年の1014日に設立されて、ほぼ一か月後のことである。

出会いのきっかけは、現在「大地の再生」家として全国的に活躍されている矢野智徳氏との縁であった。矢野氏とは都立大の地理学科の縁もあって、各地の環境改善に私も微力ながら関わっていた。矢野氏が大重監督を知り合ったのは、矢野氏が久高島を歩いている時に偶然出会い、そこで矢野氏が、環境への取り組みを説明したという。それを聴いた監督は、いたく感動したことに始まる。その後間もなく私は矢野氏から大重監督のことを聴き、久高島でお会いすることになったのである。初めてお会いした日の光景が今も忘れられない。

大重監督が写真に見るように、とてもお似合いの青いシャツに白いズボン姿で、カメラを片手に、我々の方に向かって歩いて来られる光景は、一コマの映像を見るようであった。初めての出会いであったが、お互いに、会いたい人に会えたような興奮がそこにはあった。瞬く間に大重監督ならではの人間的な空気に包まれていった。私は、サンゴ礁地形を中心に自然地理学の研究をしていることを手短に自己紹介した後、すぐイシキ浜の南端の海岸に出た。すると、すぐに監督から、この島の自然地理学的特性を説明して欲しいといわれ、語り始めると、監督はすぐさま至近距離で手持ちのカメラを廻し始めた。私は、普段カメラを頻繁に使うことには慣れていたが、撮られることには不慣れなため、一瞬戸惑い、私の声も潮騒の音にかき消される感じがした。

その後、カルスト地形を活かした土地利用に、畑周辺の草木の風通しを良くするアブシバライという作業の様子(写真左)などを撮影した。「久高オデッセイ」の第一部と第二部を観たことがある矢野氏によれば、その時の映像の一部が出てくるとのことであるが、私はそれ以来ずっとその場面を見てみたいと思っている。不思議なもので、お会いしてすぐに監督のカメラの中に撮りこまれたためか、自分が大重監督の世界の一郭を構成しているような錯覚に陥ることがある。

この出会いの後、那覇の事務所に三回程伺い、旧交を温めた。また2013(平成25)年112日には、目黒区の生涯学習機構である「めぐろシティカレッジ」の講座「生きる知恵:古今東西」の講師としてお招きし、「生きる知恵:私の場合」という表題の講義をしていただいた。車椅子から声を絞り出すように語られる監督の姿を脇から眺めながら、講義を気持ちよく引き受けていただいた監督に感謝しつつ、私は感無量であった。この時も発病後の監督は、何回目かの手術を兼ねて上京されていたと思う。

以下当日の大重監督の言葉の断片を幾つか挙げてみよう。

 

「病気で倒れた時、ありありとある風景を見た。自分の祖先が出てきて「何とお前は自分勝手なことをしているのか。お前には俺たちもいるんだぞ。」と言った。」

「ある日、比嘉康雄から電話があった。「俺はもう死ぬ」と。…そして「血と肉を剥ぎ、骨だけにしてくれ」と比嘉は言った。…それを泣きながら編集した。」

「彼は言った。「男はウミンチュ、女はカミンチュ」「男は効率を求め、女は命を残し、命を繋ぐ」「争い中心の男、命中心の女」と。」

「沖縄を去ろうとしたら何かおかしい。本土と繋ぐ人が要る。私は去れないと思った。妻にも相談せずに沖縄へ行ってしまった。」

「私は脳の(?)がやられている。右半身激痛が走る。脳が勝手につくっている痛み。脳がいかに大切かとしみじみ思う。」

「(倒れて)最初の4・5年は話しても通じなかった。諦めないで努力して今に至っている。」

「美味いもの食べて、…つまり刺激を与えて蘇った。薬で治ったわけではない。」

「医者で半分。あとは自分で治さないといけない。…刺激が大切。実際の生活が一番のリハビリである。」

「自力本願だ。特に感覚は自分で治すしかない。」

「命の全うが重要。命の巡り、先祖からの流れが大切。」

「人頼みにするな。自分でやれ。無関心はいけない。」

「病気をすると、心の病気がついてまわる。」

 「感動というものがある。『禁じられた遊び』を観て感動し、映画に走った。そして感動の背後に自然がある。小さい頃桜島を見てそう思った。」

 「今の異常気象も罰が当たっているのではないかと思った方がよい。」

 「大地は天からの授かりもの。」

以上、当日の大重監督語録の一部である。

 

さてここで、「久高オデッセイ第三章 風章」の映像に戻り、大重監督との記憶の終章へと向かいたい。映像の中で、サンゴ礁の内海である礁湖(または礁池)を「イノウ」という表現を使っての説明が出てきたときは、初めて出会った日に監督に説明した会話が懐かしく思い出された。一通り撮影が終わった後、港近くのお店で、早速杯を酌み交わした。飲むほどに監督との波長が合い、心地よい。久高島のことから沖縄の自然観や文化論へと話題は尽きなかった。

その中で私は聞きたかった疑問を監督にぶつけた。「なぜ久高島なのですか」と。監督は、この島に人生を奉げ、貴重な記録写真を残した比嘉康雄氏のことを述べ、そして12年ごとに行われてきた島社会の根幹にある祭祀「イザイホー」が途絶えて久しいことを挙げた。「だから、この島がこれからどのように生きていくのか、また新たに何が生まれるのか、再生する久高島を見届けたい。」と、大重監督は力を込めて、熱っぽく語った。人間が人生をかけて決意し、そのために生きる気高さを感じ、私は感銘を受けた。大重監督には、人ともにある場所(地域)の総体が生き物のように見えていることを実感し、地理屋としての私の心情も同じだ、と述べて共感しあった。

「久高オデッセイ第三部 風章」の最後の場面で、祭祀の最重要な施設、カミアシャゲの中でノロが泣きながら祈る姿が、微かな音声とともに、映し出されている光景は衝撃的である。その映像を受けて監督自身、いやそれだけでなく監督の心の中で消えることのない比嘉康雄の声も重なって、ゆっくりと絞り出すような口調で、12年間待っていた島の姿を確認した。」と語った瞬間、私の目頭は熱くなり、思わず声に出そうになりながら心の中で呟いた。

「監督、願いが叶いましたね。久高島は息づいていましたね。まことにご苦労様でした。よくぞこの瞬間を映像として記録していただき、それを私たちに伝えてくださいました。凄いです。長年の監督の思いがこの一瞬の映像に結実しましたね。本当にありがとうございます。」と。

私自身も16年前の監督の言葉を思い出しながら、納得し、久高島への思いが、沖縄をはじめ南の島々への思いとして広がり、そして我々の文化の基層に流れ続けている水脈をこの映像が見せてくれているのだと実感し、身震いすら覚えた。この作品の完成後まもなくお亡くなりになった監督は、この映像の瞬間を一つの「命」の区切りとして納得されてニライ・カナイへと旅立たれたのだと思えた。 合掌。

 

 

 

堀 信行/ホリ ノブユキ

1943年生まれ。東京都立大学(首都大学東京)名誉教授。広島大学卒業後、東京都立大学理学部地理学科助手。広島大学総合科学部講師・助教授。東京都立大学理学部助教授・教授。2007年退職後、奈良大学文學部地理学科教授。2014年退職後、同大非常勤講師。専門は自然地理学、環境地理学。おもな研究地域は日本、アフリカ、南太平洋でサンゴ礁地形や自然環境の変遷史の研究を行う一方、人間と自然の関係性に注目した景観論や風土論を展開。

また研究活動の傍ら目黒区の生涯学習機構「めぐろシティカレッジ振興会」(http://megurocc1995.wix.com/megurocc)の会長(兼学長)として長年関わっている。