歴史のなかの神道(6)

島薗 進

 

 

 

皇道思想から国家神道へ

 

戦前の神道界の思想的リーダーの一人、今泉定助(1862-1944)は、「日本は神社中心でなければならぬ。神社の内容と国体の内容とは一緒のものである」と述べている(日本大学今泉研究所編『今泉定助研究全集 第三巻』日本大学今泉研究所、1970年、491ページ)。これは1937年に刊行された今泉の論文集『国体精神と教育』(三友社)に収録された「国運発展の教育」の一節だ。

また、1942年から43年にかけて連載された『神道の歴史と将来』では、神道を三つの様態に分け、教派神道(宗教神道、宗派神道)以外の神道の二つの様態、すなわち「神社」と「皇祖皇宗の遺訓」が統合されるべきものであることを前提に、次のように述べている。

 

それで神道を説きますにも、大要三通りの別があります。今申しました宗教神道の方から説きますもの、これが一つ、又神社神道とでも申すべき神社を中心にして神道を説きますもの、これが一つ、それから神道といふ字を使ひますけれども、いわゆる国民道徳、教育勅語を主として説きます神道の三つであります。

要するに神道といふことは前にも申しました通り皇祖皇宗の遺訓でありますから教育勅語で尽してあります。これを出世間の道のように思ふは大きな間違でありまして、日常の行事皆神道ならざるはないのであります。(同前、612ページ)

 

ここで「宗教神道」(教派神道)と区別されて用いられている二つの「神道」と、同時期に今泉が盛んに用いた「皇道」とよばれるものは意味の違いがほとんどない。たとえば、1934年の「皇道の真髄」ではこう述べられている。

 

従来皇道と云ったり、神道と云ったり、乃至我が国体などと云へば世間知らずの時代遅れと嗤はれてゐたが、近来は盛に皇道とか、神道とか、国民精神とか、日本精神とか、ないしは我が大日本帝国の建国の精神などと呼ばれるを聞くに至った。是は誠に嬉ばしい現象である。(同前、183ページ)    

 

「神道」というときに狭く神社神道を指すのではなく、神社神道を包含しつつも明治初期に「皇道」とよばれたような側面を主体として広く捉える今泉の立場は、すでに1921年に公表された「拡充される神道の意義」で明確に示されている。

 

然らば吾人の今日いふ所の神道とはそも如何なる意義のものであるか。今之を率直にいへば皇祖皇宗の遺訓、教育勅語にいはれてある斯道に相当するのである。具体的にいへば教育勅語の御精神が即ち我が神道の精神であるのである。(同前、97ページ)    


このような「神道」の用法は当時としてはまだ一般化していなかった。だから、この一節を含む文章は「拡充される神道の意義」とよばれている。だが、ここで用いられているような「神道」は、明治維新以後、「皇道」と「神道」の双方の語が補いあいつつ用いられることによって、すでに実在が強く意識されてきたものである。だから、「拡充される神道の意義」の「解題」を執筆した高橋昊(この漢字は、「日の下に天」ではなく「且の下に大」)は、「今泉先生は……自らは明治以来の国家神道的立場に立って、神道の意義を教育勅語にいう「斯ノ道」に外ならぬものとして立て」たのだ(同前、8ページ)と述べている。「国家神道」という語にあたるものを、今泉は「皇道」「神道」などの語で意識的に名指してきたと捉えられている。

「明治以来の国家神道」がどのように形成されていったかについて、筆者は『国家神道と日本人』(2010年)や2001年以来公表してきたいくつかの論文で考察を進めてきている(島薗進「一九世紀日本の宗教構造の変容」島薗進他編『岩波講座近代日本の文化史2 コスモロジーの「近世」』岩波書店、2001年、同「国家神道・国体思想・天皇崇敬――皇道・皇学と近代日本の宗教状況」(『現代思想』第35巻第10号、2007年)、同『国家神道と日本人』岩波書店、2010年)。
その論旨の一つは、「皇道」としての神道が広められつつそこに神社が組み込まれるような形で形成されていった、高橋のいう「国家神道」が、近代日本の宗教史上、巨大な影響力をもったということである。今泉定助は1920年頃には、すでにそのような意味での「神道」をさらに国民に広めようとする意欲を表明していた。戦後に村上重良らによって定式化される「国家神道」とおおよそ重なり合う現象を、明確に「神道」と名指す用例である。

今泉はこの意味での「神道」は明治維新によって「復興」したと述べる。「神道の歴史と将来」(1942年)の一節を引こう。「すなはち明治維新は、久しきに亙って単なる学問思想の範囲を出なかつた神道が、現実の施設制度として顕現され始めた時であり、神道が真の神道として古に復し活躍しはじめた出発点であるといふことができる」(同前、694ページ)。では、明治維新において、この意味での「神道」はどのように「復興」してきたのか。また、この意味での「神道」の「復興」を導いた思想はどのようなものだったのか。

今泉はそこで、復興神道が決定的に大きな役割を果たしたという。

 

我が国体の本義に基いて、君民一体の実現を妨げてゐた幕府政治を排し、天皇の御親政と万民の翼賛といふ、肇国以来本然の体制を顕現した明治維新は、大稜威の然らしめたものなることは言を俟たないが、或は垂加神道の流れ、或は水戸学の流れ、又頼山陽、吉田松陰等の勤皇思想によつて、国体を自覚した志士達の赤誠による翼賛の結晶でることも亦忘れてはならない。それ等の勤皇思想の中でも特に本居翁平田翁等の所謂復古神道は維新の実現完成に与つて大いに力をなしたのであるが、それは皇政復古の大精神の基準を、建武の中興に非ず、延喜天暦の時代に非ず、大化の改新に非ずとして、神武天皇橿原の御代とすべきであると論じた玉松操が、平田翁の門下たる大国隆正に教を受けたばかりでなく、亀井玆監、福羽美静も大国翁に師事し、矢野玄道翁も。丸山作楽翁も平田翁の門下であることからも推察される。故に明治維新及びその後に於ける国体的な施政は悉く復古国学者の影響によるといふも過言ではない。(同前、694ページ)

 

 

復古神道の主導性を強調したこの見解は、戦後の多くの研究の成果と整合しない。筆者は「一九世紀日本の宗教構造の変容」(2001年)、「国家神道・国体思想・天皇崇敬――皇道・皇学と近代日本の宗教状況」(2007年)の2論文と著書『国家神道と日本人』において、先学の戦後の諸業績に学びながら、明治維新後の「神道」を方向付けていく皇道思想は、国学とともに儒学の伝統に多くを負っていることを示してきた。    
復古神道の主導性を強調したこの見解は、戦後の多くの研究の成果と整合しない。筆者は「一九世紀日本の宗教構造の変容」(2001年)、「国家神道・国体思想・天皇崇敬――皇道・皇学と近代日本の宗教状況」(2007年)の2論文と著書『国家神道と日本人』において、先学の戦後の諸業績に学びながら、明治維新後の「神道」を方向付けていく皇道思想は、国学とともに儒学の伝統に多くを負っていることを示してきた。    


(付記) 連載第6回の今回は、島薗進「国家神道の形成と靖国神社・軍人勅諭——皇道思想と天皇崇敬の担い手としての軍隊」、明治維新史学会編(高木博志・谷川穣担当編集)『講座 明治維新11 明治維新と宗教・文化』有志舎、2016年3月、129−159ページ、の一部を修正して用いている。

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。