神楽と縄文5

三上敏視

 

 

 

今回は古い神と言われるミャシャグチから宿神あたりのトピックをいろいろ取り出して神楽との関係、縄文との関係を考えてみたい。

ミシャグチはいろいろな説や見方があるが、柳田国男が大和民族に対立する先住民の信仰と考えていたり、この信仰を伝えている諏訪の守矢家には縄文時代の墓があったり、諏訪大社も本来の祭神がミシャグチ神とされ、柱を立てる御柱祭りは石棒との関連が言われているし、鹿や猪、兎などの頭を大祭の供物として並べて狩猟文化の色が濃いなど、やはりミシャグチと縄文の関係は深いと考えられる。

 

ミシャグチは、いろいろな音韻変化をしていてシャクジ、サクジ、ソクシなどたくさんの名前で伝承されており、東京の石神井もこのひとつとされ武蔵野一帯の神社でも裏手や片隅に小さな祠があり、ミシャグチ的な名前で呼ばれているという。そしてこれが諏訪や武蔵野にとどまらず、全国に「国家とは関係ない=古い」神、その土地に本来祀られていた神として広まっていたと考えられている。

 

このミシャグチ神信仰で特徴的なのは胞衣の存在で、「ミシャグチ神は胞衣をかぶって生まれてくる子供というイメージがあり、胞衣を通して存在の母胎と常に直接結び合っている童子(小さな)神として石棒と石皿の結合(陰陽不二)から産まれる神、絶え間なく生成される神なのだ」と中沢新一氏は『精霊の王』に書いている。

 

そしてこのミシャグチ、シャクジがシュクジとなり、宿神となる。

猿楽では守宮神、守久神などとも書き、細かいことは省いて簡単に言ってしまうと、金春禅竹の『明宿集』によればいちばん重要な翁は宿神であり、山王であり、星宿であり、天体の中心である北極星であるということだ。

また猿楽の祖の秦河勝は胞衣のような空船に乗り播磨の尺師(しゃくし)の浦に流れ着き、ここで大荒神になったと書いている。そして大荒神は胞衣の象徴であるとも言っている。

このあたりで縄文的な神のミシャグチに神楽が接近してきた。

 

神楽には荒神、宿神が重要な神として登場してくるが、神楽の芸能には猿楽が大きな存在であったはずで、筆者は廃絶した渡来の伎楽の生き残りに、やはり渡来の散楽から変化した猿楽、そして舞楽などの要素が太古からの祭りとの習合が続いて神楽になったと考えているが、世阿弥が申楽は神楽であると言っているように、芸能としては猿楽(申楽)の影響が一番大きかったのではないだろうか。猿楽自体はまた寺院での法会や延年、田楽や田遊び、曲舞、幸若舞などと言った芸能とフィードバックしあい、中世の連歌の文化などの影響でもともとの猿楽から猿楽の能が作られていったと考えられる。

 

ただ、なぜその後大成した猿楽の能と神楽の芸態が大きく違うのかと言えば、猿楽の能は観阿弥、世阿弥という天才とその後継者たちの才能と支配者の庇護によって芸術的に大成し、その後は武士の必修科目になりだんだん民衆との関わりが薄くなって芸能としては特殊な存在をしてきたことと、神楽には修験者の関わりも大きかったことがあるからなのだと思う。修験道は縄文からの山岳信仰や民間信仰に加え、当時としては先進の陰陽道、道教、密教などの渡来の呪術の技法や理論を編集して生まれた独特の宗教だが、本来は山での修行が中心である。しかし世俗化した修験者と言える里修験が、もともとプリミティブなアニミズム、シャーマニズム、祖先崇拝の要素が強かったこの列島の祭に関与するようになって神楽のスタイルを作り上げてきたのだろうと思う。

だから、各地にもともとあった祭りやその土地の信仰をうまく取り入れたために、全国に神楽が多様な姿で存在するようになったのだと思う。

 

さて、神楽での荒神、宿神だが名前は西日本の神楽に多い。宮崎では米良地方の尾八重神楽などで宿神が登場するが、これは地主神や山の神の性格を併せ持ち、最も重要な神として現れる。もともとミシャグチ的な神であったものが猿楽の影響で面形の神として登場するようになり、猿楽の宿神的性格ともまた融合したのではないだろうか。尾八重神楽の宿神面の風貌は猿楽の翁面とは違うが髭を蓄えた老人の面である。

宮崎県の綾町では地元の人の情報で宿神を祀る小さな祠を見つけることが出来た。そのあたりの地名も宿神なのである。

綾町は現在宮崎市の奥の内陸にあるが照葉樹林帯を大事に保護している町で、確認してみたらやはりかつては縄文時代は海辺だったそうだ。

 

やはり米良の銀鏡神楽には宿神社の氏神として宿神三宝荒神という神が現れる。この神も重要な神だが風貌は荒々しい鬼神面で室町時代のものとされている。神楽の鬼神面荒神面では舌を出しているものが多く、これについては現在、九州の神楽研究の第一人者である高見乾司氏は征服された民族の神の不服従を表す「あっかんべー」のような意味があると考察しているが、猿楽との関係を考えると金春禅竹が翁面について書いていることも関係があるのではないかと考える。

それは「面には眼耳鼻舌の七つの口があり、これは北斗七星である」という表現だ。眼にふたつ、耳にふたつ、鼻にふたつ、そして口の七つの穴のことだが、口と言わずに舌というのは視覚、聴覚、嗅覚、味覚の感覚では口ではなくて舌でなければならないわけで、これは般若心経の「無眼耳鼻舌身意」につながる仏教的な思想なのだろう。だから神楽の荒神面、鬼神面は翁の性格も併せ持つために舌を見えるように出しているのではないかと思うのだ。

 

ちなみに最近公開が再開された日光東照宮陽明門にあるおびただしい数の龍の彫刻もみな舌を出している。

猿楽と修験の間に実際にどのような交渉があったのかなかなかわからないのだが、どちらも縄文的な信仰を母胎にしていることで共通点があり、神楽にも縄文の信仰が最深部にあるのではないだろうか。

 

今回最後に紹介するのは高知県、土佐の本川神楽の「山王(やまおう)の舞」と兵庫県の上鴨川住吉神社神事舞の「御神楽」にしたい。

本川神楽の山王もこの神楽で一番重要な神とされていて一番最初に出てくる面で、この舞が終わると祭は宴会に入ることになっている。

そしてこの山王は赤い布をかぶってしばらく姿を現さない。中で唱えごとを唱え、それが終わると布を振り払って姿を見せ、舞う。まるで胞衣から出てきたようである。

 

金春禅竹は翁は山王(さんのう)でもあると言っていて、これが関係があるのかどうかわからないが、胞衣のイメージを感じるので関係があってもおかしくはないのだが、唱えごとの内容は禅竹の書いた内容と共通するところは見られない。

 

上鴨川住吉神社神事舞は分類では神楽でなく田楽だが、こういう神楽以外の祭にある「御神楽」という演目が実は古式を残している可能性があるのではないだろうか。

これは青年による直面の舞で、巫女舞の流れと考えられているが、舞い方が巫女舞とはぜんぜん違う。面白いのは葦のような草で編んだ船のような物(舟形のコモ」を持って土間の割拝殿の左側に入ってきて、最初、それにくるまって座りそこから出てきて裸足で膝を高く上げて舞う。

 

ここでも胞衣から生まれてきたようなイメージがあり、この舞に「御神楽」という名前がついているのだ。

ちなみにここは内陸の加東市にある神社だが住吉神社なので海神を祀る。禅竹は翁が神として示現する「第一は住吉大明神である」と書いており、ここにはほとんど動かない「翁」があり、鼻高面の王の舞の「リョンサン舞」があり、「田楽」あり、走り回るだけの「獅子舞」があり、散楽の「高足」などがあり、とても興味深い祭だ。

中世の「宮座」の組織が残っていてその宮座によって祭が行われているのが貴重だが、中世より古い要素もいろいろ考えられるのである。

 

 

次回は、今まで取り上げてきた要素を元に、おそらくこれまで考えられてこなかった視点から「神楽と縄文」を考えてみたい。

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日 本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別 冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシン グ)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオ ジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉 納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われて いる。多摩美術大学美術学部非常勤講師。