EFGその17 内モンゴルからロシアまでの2016年の夏

鎌田 東二

 

 

 

A : 内モンゴルの旅

 

NPO法人東京自由大学第Ⅰ期最後の夏合宿を行なった。行き先は中華人民共和国の内モンゴル。83日から9日まで丸1週間。わたしにとっては初めてのモンゴル体験だった。

確か、1986年頃、突然、当時の國學院大學の吉川学長に呼び出された。内モンゴルの首都のフフホト大学に2年間、日本語と日本文学を教えて行ってくれないかという話だった。とても行ってみたいと思ったが、息子が3歳位で、帰国した後、仕事があるかどうか、家族を養って行けるかどうか、まったくわからなかったので、泣く泣く諦めた。あの時行っていたら、ずいぶん中国と内モンゴル通になっていたのにと思う。モンゴル語も話せるようになっていたかもしれない。だが、今、中国語もモンゴル語もからきし駄目である。

今回の夏合宿は、主に、オーラ(阿古拉)、ハイラル(海拉)、フルンボイル大草原、ロシアとの国境の満州里などを回った。この旅は、18年続いたNPO法人東京自由大学の第1期最後の第18回夏合宿内モンゴル研修の旅であった。

1998年に設立したNPO法人東京自由大学は、本年3月から、東京の自由ヶ丘に移転して、新たな体制に入っている。今回は、旧体制(第1期)最後の夏合宿が今回の内モンゴルの旅だった。

 

今回の内モンゴル研修でわたしが見出した問題は次の3つである。

 

1. 子安貝問題
第一に、なぜ、海のないモンゴルシャーマンが、シャーマン衣装にこれほど多くの「子安貝」を身に着けているのかという問い。わたしにとってハイラルのフルンボイル民族博物館でもっとも衝撃を受けた展示が子安貝であった。女陰の形態を持つ子安貝は、安産や豊饒の象徴である。それは生命の容れ物として母胎のメタファーとなる。その子安貝が信じがたいほど大量に内モンゴルのシャーマンの衣装に縫い付けられていたのだ。なぜ海のないモンゴルシャーマンがシャーマン衣装に「子安貝」をこれほどたくさん身に着けるのか。その量とデザインの美しさと見事さに圧倒された。

シャーマンの衣装の子安貝    

シャーマン衣装の子安貝と金属銅鑼と鈴    

実に見事な子安貝の集積であった。胸部に子安貝、胴体下部に金属器。それを揺すって、ジャラジャラと音の鳴らす。それによりトランス状態に参入し、「身心変容」する。この仕掛けとなるスピリチュアルデザイン。
「子安貝」は神霊の受信機であり霊的アンテナである。その「子安貝」が神霊音波をキャッチし受信する。このシャーマン衣装を見ていると、その身心変容技法の意味と作用がよくわかる。
中国古代の殷の時代の遺跡から大量の子安貝が出土している。そこには、青銅器や玉石も大量に含まれているが、子安貝は単なる貨幣や装飾以上の呪術性を帯びている。甲骨文を遺した殷では、卜官による天帝に神意を質す祭祀が行われていたので、その時代の祭祀に青銅器や玉器のみならず、子安貝も用いられていたことは間違いない。この子安貝が投げかけた問いは今も深く深く沈殿している。

 

2. 鳴鏑問題

2つ目は「鳴鏑」問題。これが「比叡山の神のルーツ」とつながる。「鳴鏑(なりかぶら)」という語は『古事記』上巻に3度出てくる。スサノヲノミコトのいる根の堅州国に到ったオホナムヂ(大国主神)に、スサノヲが「鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき」とあるのが、その初出である。スサノヲが「鳴鏑」の矢を放ってオホナムヂにその矢を取って来くるように命じ、オホナムヂが矢を採りに野に入った時、火を放って焼き殺そうとする。すると鼠がやってきて、「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言ったので、その地面を踏みしめると、そこの土が落ちて穴倉のようになったので、そこに入って、野火が通り過ぎるのを待っていると、「鼠、鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき」、つまり、鼠がその「鳴鏑」を口に銜えて持って来て、オホナムヂに捧げ、助けたというのだ。

『古事記』上巻での3つ目の「鳴鏑」の表記は、スサノヲが大山津見神の娘の神大市比売を娶って生んだ「大年神」の神裔として出てくる。比叡山と関連して、特に重要なのが「鳴鏑を用()つ神ぞ」と、比叡山の神を名指しで説明している点だ。すなわち、「大山咋神(おほやまくひのかみ)、亦の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」という一節である。

この、比叡山に鎮座する「大山咋神」は、別名「山末之大主神」と言い、「近江」の「日枝の山」(比叡山の古事記表記)に鎮座すると同時に、「葛野の松尾」すなわち松尾大社に鎮座し、「鳴鏑」を持っている「神」である、と言うのである。

 

 

 

 

その「鳴鏑」を、ハイラルのフルンボイル民族博物館の展示物の中に見出したのだ。

 

中国内モンゴル・ハイラルのフルンボイル民族博物館に
展示された子安貝(左)と海螺(中)と鳴鏑(右)
 
  

この「鳴鏑」は、通常、矢の先端に付けて、弓で射て音を鳴らす道具である。木や鹿角や牛角や青銅などで「蕪」の形に作り、中を空洞にし、周りに四個ほどの小さな孔を穿つ。「鳴鏑」は弓で射られて飛んでいく際に自然にその孔から空気が入いって高い音を鳴らす。
中国北部を遊動していた匈奴は「鳴鏑」を用いていた。東北アジア一帯でも「鳴鏑」は用いられた。古代日本にその匈奴~鮮卑系の「鳴鏑」文化が入ってきていたことは間違いない。それを、スサノヲ~オホナムヂ~オホトシ~オホヤマグヒという「出雲系」の神々が担っているのだ。そして、秦氏が斎いた松尾の神すなわち「大山咋神」が「鳴鏑」を持つ神であると『古事記』は明言している。

こうして、「鳴鏑」と「子安貝」を通して、古代日本と古代中国、そして古代内モンゴルとの密接なつながりが見えてくるのだった。


3.
マンモス問題とサイズ問題

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つ目はマンモス問題。満州里のマンモス公園に行った際、これらの巨大なマンモスに人はいかにして近づくことができたのかを問いかけた。恐れずにマンモスの腹の下に潜り込むその心は? マンモスに近づくためのその技法は?
当然ながら、ブルブル震えることなしにマンモスに近づくことができなければ、マンモスの急所を突いて射止めることはできない。マンモスはたいへん巨大だ。人間の10倍以上は優にある。その巨大なサイズに人間サイズでどう立ち向かうことができるのか? マンモスに旧石器人や新石器人が彼らの手にした石の武器でどのように立ち向かっていったのか? その石器人の「身心変容」と「身心変容技法」を考えさせられたのだ。

それがサイズ問題となる。残念ながら巨大なマンモス種は滅びた。なぜか? 気象異常による食料の減少が原因であろう。その問題の根幹は、サイズだったと思う。恐竜もそうだが、彼らのサイズは大きすぎた。その大きすぎることが絶滅をもたらした。
このことは、国にも民族にも人類という種にも言えるのではないか。中華人民共和国もロシア共和国も大きすぎる。それはマンモスや恐竜以上だ。内モンゴル自治区だけでも、日本の国土の56倍はある。わたしたちは、ロシアとの「国境大通り」を260キロ走破し、右手にロシアの街と山河を望みながら、ひたすら大草原地帯を走り続けた。この巨大なサイズの「国境」。
自然が生み出した川や山が自然の連続線とも切断線ともなっているが、人間はそれを踏まえつつも人工的な「国境」を定め。そしてやがて「万里の長城」を築いたり、国境警備隊を置いたりしながら、自国防衛網を確かなものとし始めた。そんな「国境」がなぜ生まれたのか? 自然界には生物種の棲み分けや行動や食物連鎖によるボーダーはあり、動植物に北限種も南限種もあるが、「国境」などというものはない。人間だけに「国境」がある。
この人間サイズと自然サイズと国サイズの関係性と対照性、差異性。バランスが崩れるとヒトも間違いなく滅びる。サイズから考えると、人類は滅びの道に近づいているのかもしれない。そんなことを、中ロ国境、内モンゴルの「国境」線上で考え続けた。

 

B:ロシアへの旅

 

919日から23日までロシアを旅した。923日(金)19時から、モスクワ音楽会館演劇ホールで『古事記』公演をする。毎年開催されている日本文化を紹介するフェスティバル「日本の秋」に公式参加して。そこで、拙訳『超訳 古事記』(ミシマ社、2009年)を元にした東京ノーヴィ・レパートリーシアターの『古事記~天と地といのちの架け橋』(演出:レオニード・アニシモフ)が上演されたのだ。

http://www.ru.emb-japan.go.jp/jautumn/kodziki-event.html

500人の会場が満員だった。ロシア人にとってはまったく未知の『古事記』。だが、古代の死生観をテーマにし表現した『古事記』の生命感と死のイメージの世界は普遍的な問題に突き刺さっているので、必ずや伝わるものがあるはずだ。次々に神々が生まれ、そして死んで、また生まれる。その変転し躍動する生命感。

アニシモフも、舞台の後半が始まる直前に、「何度死んでも産まれ変わる、その生命力を伝えて来い」と指示出ししたという。そして、舞台公演の最後の最後、天岩戸が開いて天照大神が現われ、世界に光が戻り、歓びの歌と共に終幕すると、観客から「ブラヴォー!」の声と拍手喝采が。

 

わたしは、『古事記』の物語の具体的事例は特殊日本そのものであっても、そこで語られているテーマと本質は生命普遍・宇宙普遍・世界普遍性があると主張してきたので、ロシアの観客のみなさんと共にその「感情」を共有できたような気がして大変嬉しく思う。アニシモフさんと東京ノーヴィ・レパートリーシアターの俳優のみなさんに心よりの敬意と感謝を申し上げたい。

 

東京ノーヴィ・レパートリーシアターの役者で通訳者の上世博及さんが次のように『古事記』公演の報告を送ってくれた。

 

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取り急ぎ、古事記公演の報告です。

会場はほぼ満席でした。公演では字幕は使用せず、配布したロシア語パンフレットにあらすじを記載し、公演中、場面の切り替わりのところで通訳の遠坂先生が場内アナウンスのマイクで詩を朗読するようにそのシーンの意味を観客に伝える形で上演しました。

私のロシア留学時代のロシア人同級生の感想を元に公演中の様子を描きますと、1幕は、ロシア人には全く馴染みのないゆっくりとしたメロディー、歌、音、そしてほとんど動かない俳優たちに相当戸惑ったようです。ですが、客席全体が一体となって、その初めて体験する世界を何とか理解し、感じ取ろうと集中して観ていました。

結局何もわからないまま一幕が終了し、休憩に入りましたが、この休憩が1幕で観たもの、体験したものをそれぞれが咀嚼し理解する時間になったようで、2幕を見るにあたり意識の調律ができたそうです。

そして2幕、イザナギが黄泉の国へイザナミに会いに行くシーンから始まりますが、もうそこでは一気に舞台で繰り広げられる日本神話の世界に入り込み、舞台、客席が一つのエネルギー体となって一緒に神聖な儀式に参加し、言葉は分からないのにすべて心で理解し感じ取れる、不思議ながらも非常に心地よい神秘体験をしたそうです。

終演後はブラボーの掛け声もあり、スタンディングオベーションで拍手喝采を受けました。

 

翌日に創造的交流会があり、東京ノーヴイから俳優が10人、ロシア側から俳優や演出家のほかに、ジャーナリスト、心理学者、教育者など20名ほどで感想のシェア、我々の創造活動についての意見交換などが3時間ほどありました。

ロシア人たちの共通した意見としては、言葉では伝えられない人類共通の叡智を体験し、非常に高度な精神世界に導かれ、自然、宇宙、神をこれほど感じることができる舞台作品は過去にはなかったであろう。俳優がその世界を創り出すのに全身全霊を捧げ、芸術に奉仕している演劇集団もいまやどこにもない。言葉の壁を完全に超越した人類共通の世界を描いている。

40年前にアニシモフが初めて旗揚げしたロシアの劇団で共に演劇活動をしていた女優は、当時目指していた人の心、魂、精神にまで「魔法をかける演劇」が、40年かけてついに日本の俳優たちによって実現したと言っておりました。

どのようにして、あのような世界を作り上げたのか、そこに至るまで東京でアニシモフ氏と共にどのような活動をしていたのかなどの質疑に劇団の俳優たちが応答しましたが、とにかく3時間の交流会がロシア側からの賛辞の嵐で、我々も本当に嬉しい限りでした。また、是非モスクワで再演をして欲しい、ロシア中で公演をして欲しいとの声もいただきました。

 

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有難くも嬉しい報告である。

 

わたしは、ロシア功労芸術家のロシア人演出家で、東京ノーヴィ・レパートリーシアターの芸術監督を務めているレオニード・アニシモフと、彼が率いる東京ノーヴィ・レパートリーシアターの劇団員総勢40名と共にこの地にやってきた。アニシモフとは、来る2016年12月18日(日)に、本身心変容技法研究会主催の国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」を開催する。

 

ロシアのウラジーミルという街は、かつてウラジーミル大公国の首都であった。この町は、京都によく似ている。京都は奈良に次ぐ日本第二の古都であるが、このウラジーミルもキエフに次ぐロシア第二の古都でなだらかな丘の上にある。街全体が丘陵の上にあるので、遥か遠方を眺め渡すことのできる眺望のよい地点が各所にある。どこか、京都と横浜戸を合体させたような。

特に世界遺産となっているウスペンスキー寺院のバロックイコン画は、バロック美術をイコン画として収めたキリスト教寺院として世界一で、伊藤若冲の相国寺に匹敵する。類例のない見事かつ荘厳な装飾的イコン画。イコン・マンダラ。バロック曼荼羅。

だが、面白いことに、この街で出会った衝撃はモンゴルであった。1164年に造られという黄金の門には表にキリストのイコン、裏に聖母マリアのイコンが描かれていた。だがその後、13世紀初頭に、モンゴル・タタール軍に攻撃され、何年にもわたる激しい戦いの後、終に、1239年、ウラジーミル大公国はモンゴル軍に屈し、その後、ロシアの中心首都機能は、キエフ、ウラジーミルに次ぐ第三の首都モスクワに移ったという。

大変興味深いのは、日本がモンゴルに侵攻されたのが、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度だったこと。この時、蒙古軍は台風に襲われて、その「神風」に当てられて退散したとされている。その40年ほど前に、モンゴル軍がウラジーミル大公国を撃破し、モスクワにまで進軍していたのだ。この騎馬軍団モンゴル軍の驚嘆すべき東西への拡張の意志とその戦闘能力と持続性の凄まじさ。「元寇」とされている事態が世界史を大きく塗り替えたのだ。13世紀世界革命、モンゴル兵士はユーラシア大陸を、いや、地球を、震撼させたのである。ロシアに来て、改めてモンゴルに出会い直すとは!

モンゴル軍が使っていた「鳴鏑の付いた矢」をスサノヲノミコトが使っていた。と、『古事記』は告げる。その「鳴鏑の矢」が大国主神に委譲され、さらに比叡山の神・大山咋神にも引き継がれたのだった。その「鳴鏑の矢」と行使しながら、モンゴル軍はロシアに攻め入り、まず、ウラジーミルを占拠し、キエフを占拠し、モスクワを占拠した。つまり、ロシアを支配したのだ。ロシア第一の古都キエフ、第二の古都ウラジーミル、第三の古都モスクワを。ロシアに黒髪で黒目の人が結構いるのも、この時のモンゴル軍の侵攻と支配の名残である。

モンゴルは、ユーラシア大陸を貫通した。ロシアから日本までを串刺しにした。「鳴鏑の矢」を射ながら。13世紀モンゴルとその背後にある騎馬民族の歴史と文化を踏まえて、もう一度日本史と世界史を総点検してみる必要がある。

これからも、やるべきことは山ほどある。「楽しい世直し」も。「楽しい学問」も。「楽しい表現」も。自由自在に探究し、展開せねば! ウォッス!

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、京都大学こころの未来研究センター教授を経て、201641日より上智大学グリーフケア研究所特任教授、放送大学客員教授、京都大学名誉教授、NPO法人東京自由大学名誉理事長。文学博士。現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト