歴史のなかの神道(2)

島薗進

 

 

 

宗教に対する理解が深かった歴史家、安丸良夫は『近代思想大系5 宗教と国家』(岩波書店、1988年)の解説「近代転換期における宗教と国家」で、「近代の日本国家は、制度的にもイデオロギー的にも、基本的には世俗国家の類型に属するとしてよい……」と述べていた(289ページ)。「世俗国家」とは神道を含め、宗教と国家の結びつきがない国家ということになる。

 

明瞭に神道を導入した明治国家体制を、どうして「世俗国家」と見るのか、私にはよく理解できず、何度か話し合ったことがある。安丸はこの考えを次第に修正していき、明治維新以後の体制が神道を基盤としたものであることを認めていく(「明治維新は世俗的変革か?--安丸良夫の国家神道論と宗教論の展開」『現代思想 臨時増刊号 安丸良夫--民衆思想とは何か』青土社、2016年9月号)。だが、1980年代末の段階に、このすぐれた歴史家が明治維新を世俗主義的な変革だと見ていたことは覚えておいてよいことだ。

 

また、社会人類学者のタラル・アサドは2003年に原著が刊行された『世俗の形成』(みすず書房、2006年)で「宗教的では少しもなかった20世紀の残虐きわまりない強権体制」について述べているが、そこでは、ナチスドイツ、スターリンのロシア、クメール・ルージュ、毛沢東の中国とともに、「日本帝国」をあげている(131ページ)。多くの欧米の学者が見落としてきた「宗教」概念の西洋的な偏りを鋭く批判してきたこの学者が、明治維新から第二次大戦へと至る時期の日本を「宗教的ではない」と見ていたことも興味深いことだ。今から顧みると不思議な気がする。

 

明治維新とは「祭政一致」を掲げた変革であり、神道を国の中核にすえるべく、明治初期に多くの変革がなされたことは揺るぎない事実である。だが、ここで注意すべきなのは、「神道」というとき、神社だけを思い浮かべないことだ。近代の神道は神社に鎮座するものとしてだけ、人びとに広められたわけではない。皇室、学校、軍隊といったものが神道と深く結びついていたことを忘れてはならない。国家と神社の関係ということだけに注目していると、近代日本における神道の位置がどんなものだったか、見えなくなってしまう。

 

一例として「神道国教政策の挫折」という捉え方について見てみよう。明治初年の「国家と宗教の関係」を論ずるとき、「神道国教政策の挫折」や「信教の自由・政教分離」による大きな転換があったと捉えられることが多かった。一例として、東北帝大の歴史学教授となった豊田武(1910-80)は、『日本宗教制度史の研究』(厚生閣、一九三八年)を見てみよう。豊田はこの本のその七「皇道宣布運動の進展とその意義」で、神祇官体制、神仏分離、氏子調(宗門改めにかえて氏子調うじこしらべを全国民に及ぼそうとするもの)など「神道宗門の鼓吹」の政策を「神道国教化」政策と捉えている。とくに氏子調を取り上げ、「これ明らかに強制的に神道を信ぜしめんとする意図の現れであり、ここに寛文以来長く踏襲されて来た徳川幕府の仏教国教政策は完全に終滅し、新神道たる大教が仏教に代つて国教的待遇をあたへられることゝなつたとする(豊田武『宗教史 豊田武著作集第五巻』吉川弘文館、1982年、194ページ)。

この論考は明治維新後の宗教政策の展開を、「神道国教政策(1867年から72年初め頃)」から「皇道宣布運動=教部省時代(1872年から77年頃)」への変化として叙述したもので、以上の引用は「神道国教時代」の政策をまとめたものだ。ここで「大教」とあるのは、1870(明治3)年の「大教宣布の詔」などに用いられているもので「祭政一致」と不可分のものと捉えられている。豊田は「大教宣布の詔」から、「列皇相承、継之述之、祭政一致、億兆同心、治教明于上……」とある一節を引いている(190ページ)。
ところが、1872(明治5)年を転機として宗教政策の大きな転換が起こり、それは神祇省(1868年に復興された神祇官が1871年9月に神祇省に格下げになたもの)の廃止と教部省の設立という、同年3月の宗教行政の体制転換によって明確となる。教部省は仏教も含めて諸宗門を管轄し、大教院の下で教導職の資格を得た宗教者が神仏合同で「三条の教則」に則った布教を行うという体制である。この過程を豊田は「神道国教政策の転換」という節でくくり、「単一的神道主義から総括的皇道主義」への転換と特徴づける。

 

 乍然、かゝる単一的神道主義は、たとひそれらが当時に於ける一部の人々の理想であり、維新政府の性質上、当然考へ得るところであつたとしても、なほ民衆の間に仏教の信仰が極めて深く浸み込み、耶蘇教的信仰まだ次第に起らんとする当時、一概にこれらを無視し、押へつけてまで極端なる神道主義を振りまはすことは策の得たることではない。加ふるに明示四、五年より起つた諸種の社会状勢は此事情と共に、維新政府の指導理念を単一的神道主義より総括的皇道主義に移らしめ、その機関を神祇官より神祇省、教部省へ、宣教使より大教院―教導職へと変へて行つた。(194ページ)


ここで注意しなくてはならないのは、「神道国教政策」とか「神道主義」とかいう場合の「神道」は何を指すのか、また「皇道主義」というときの「皇道」は何を指すのか、ということである。
「神道」というとき、無自覚に神社などの施設や神祇を尊ぶ宗教集団や宗教者が意識される。これは「神道」の語に「神道宗門」と近い概念内容を盛り込んで用いる用語法だ。宗教行政の文脈ではこうした用語法が好んで用いられる。しかし、「神道」とは元来、思想・信仰や実践の体系を指すものとすれば、この用語法とは一致しない。皇室祭祀や祭祀の主体である天皇への崇敬を神道でないとする者はいないだろう。
では、皇室祭祀と天皇崇敬を押し進める施策は、教部省体制において抑制されたのだろか。そうではない。たとえば、前節で述べたような皇室祭祀の整備と祝祭日の制定・普及は、この時期に協力に進められていく。豊田は教部省・大教院体制(1872-75年)の下での施策を「皇道宣布運動の組織」「教導の内容とその効果」という2つの節にまとめている。

 

そして「教導事業の内容」については、「皇道宣布の根本方針は、3年(1870)正月3日の大教宣布の詔勅であり、旧神祇省制定による三条教則であつた」(2-3ページ)。「三条教則」については多くの論ずべきことがあるが、ここでは「皇道」の内容を理解するという点から「大教宣布の詔勅」に注目する。この文書に先立って、1869(明治2)年5月に「皇道興隆の御下問」という文書があることからも明らかなように、「大教」と「皇道」はほぼ同義のものとして用いられている。

 

(うやうや)しく(おもん)みるに、天神・天祖(きょく)を立て(とう)を垂れ、列皇相()け、之を継ぎ之を述ぶ。祭政一致、億兆同心、治教(かみ)に明らかにして、風俗(しも)に美なり。而るに中世以降、時に汚隆(おりゅう)有り。道に顕晦(けんかい)有り。今や天運循環し、百度()れ新なり。宜しく治教を明らかにして、以て惟神(かんながら)の大道を宣揚すべきなり。因つて新たに宣教使を命じ、天下に布教せしむ。(なんじ)群臣衆庶、其れ()の旨を体せよ。


ここに「惟神の大道」とあるように、「大教」「皇道」は神道と重なり合う概念だ。それはまた、「祭政一致」を核とするものとも理解されている。皇室神道の祭祀を国家の基軸に置くというものだ。そうだとすれば、教部省体制においても「神道国教」政策は引き継がれたことになる。確かに氏子調制度の構想や宣教使制度は取り下げられたが、「祭政一致」等の国家的な「神道」強化政策はますます前進させられていった。ただ、ここでいう「神道」は「神道宗門」ではない。むしろ皇室祭祀や祭祀の主体である天皇への崇敬を促す神道である。皇室祭祀や天皇崇敬と関わるものとしての神道を重視し、「宗門」については多様性を容認するというのが「皇道」理念の一面である。

 

 

 

(付記) 連載第2回の今回は、島薗進「明治初期の国家神道――神社と制度史中心の歴史的叙述を見直す」(島薗進他編『シリーズ日本人と宗教――近世から近代へ』(高埜利彦・林淳・若尾政希と共編)「第1巻 将軍と天皇」春秋社、2014年9月)の一部を用いている。

 

 

 

島薗 進しまぞの すすむ

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。