ポケットに燕石を

1章 対馬の雨

辻 信行

 

 

 

「この辺に夜這いはあったんですか?」

「あったあった。昔はなぁ、それが一番の楽しみでよ」

 
日本中どこへ調査に出掛けても、現地の人と少し仲良くなると、決まって上記のようなやり取りが交わされる。もっと年上の民俗学者になると、「酒の入ったおじいさんの話すことは、夜這いしかない」と言うほど、これは全国にありふれた習俗だった。

 

しかしながら、今回の対馬の調査では事情が違った。それは対馬では夜這いが行われていなかった、というのではない。同行した調査員に生まれてこのかた「夜這い」なる単語を聞いたことがない、という貴婦人がいたのだ。御年62歳の元教員、N調査員。

 

それを知った対馬のおじいさんの鼻息は、俄然荒くなる。

「奥さん、夜這いというのはですね、若い男がですね、真夜中に年頃の娘の家に忍び込んでですね、手籠めにするということでしてねぇ」

 

「はぁー」と神妙な面持ちで聞き入るN調査員。

果たして「手籠めにする」という一番肝心な部分の意味が伝わったか不安になるが、そんなことまで確認していられないので、放置しておくことにする。

 

これが対馬で迎えた初夜であった。

ぼくが離島へ民俗調査に行くときは、いつも1人でと決まっているが、今回は対馬に渡島したい人が身近に3人おり、みんなで一緒に行くことになったのだ。メンバーは以下の通り。

 

Y先生   女性 61歳 韓国籍

N調査員  女性 62歳   日本籍

D調査員     女性   28歳   中国籍

自分    男性 26歳 日本籍

 

なかなか珍妙な取り合わせである。性別は男一人、年齢は20代と60代できれいに二分され、国籍は「国境の島」を訪れるに相応しく、日韓中の三つ巴である。

 

そして自動車の免許を持っているのは、ぼくを含めて3人。今回はラクだなぁと油断していたら、レンタカー会社のカウンターでY先生が、「ごめん。わたし免許の期限、切れちゃった」と衝撃の告白をする。それに続いてN調査員、「わたし運転に自信無いの。40年間、自宅と職場の往復しかしなかったから」と調子の良いことを言い出す。

 

「ぼくの生まれるずっと前から運転してるんだから、自信無いなんて言わないでくださいよ。それにぼくだって自信無いです」

「わたしほんとに自信無いのよ。それに車の運転は男性のほうがいいと思うわ」

「いやいや、そんな科学的根拠に乏しい俗説を信じないでください」

「俗説じゃないわよ。40年間運転してきた名ドライバーの私が言うんだから、揺るぎない定説よ」

 

なんだか訳が分からなくなってきたが、とにかく運転したくないらしい。よって対馬での運転は、ペーパードライバーのぼくに一任されることとなった。ちなみにこの島は89%が山地であり、起伏の激しい道ばかりである。

 

さっそく空港のある島の中央部から、本日の宿泊先、島の南端に位置する豆酘(つつ)集落を目指す。途中、何度も山越えをする。車一台がやっと通れる狭くて曲がりくねった山道を走っていると、突然目の前に猛スピードのワゴンや、あろうことか大型ダンプカーが現れたりする。そのたびに「ぎゃあーーーー!!!」と断末場の叫び声を上げるのは、決まってN調査員。後部座席にて大層お楽しみのご様子である。

 

とは言えN調査員が67回叫び終わった頃には、湾の開けた集落に到着した。ここが豆酘集落だ。腰を抜かしてよろめくN調査員、「なんで死なずに済んだんだろう」と真顔でつぶやくD調査員、何があっても悠然と構えるY先生を先導しながら、さっそく多久頭魂神社へ歩いてゆく。

 

多久頭魂(たくづたま)神社は、島の北部にある天神多久頭魂神社と対になった天道信仰の聖地である。対馬の天道信仰は独自の神話(1)を持っていることで知られる。そもそも対馬の神社の分布は特殊であって、延喜式内社(2)の数がやたらと多い。全国に延喜式内社は3132座あり、このうち九州には対馬を除いて54座ある。しかし対馬は単独で29座もあるのだ。いわばこの島は、日本列島の神社が朝鮮半島からもたらされ、それらの基盤には天道信仰があることを示す、神社の故郷なのだ。

 

当然、多久頭魂神社も延喜式内社の一つだ。我々が訪ねた逢魔が時の境内は、鬱蒼として怪しく、木々のざわめきと鳥たちの警鳴で満ちていた。我々は吸い寄せられるように、本殿裏にある樹齢600年の楠と対峙した。木肌がボコボコと節くれだち、全体が苔むして柔らかい。曲線的でボテッとした様相は、木というより妖怪と言ったほうが相応しい。

多久頭魂神社の楠
多久頭魂神社の楠

 

初日の宿は、民泊ごんどう。話芸に達者なご主人の権藤悦教さんと、料理自慢の令子さんご夫妻が温かにもてなしてくれる。宿の玄関や廊下には、伝統芸能や祭りの写真、民芸品なども飾られている。悦教さんの話によると、中沢新一、黒田福美、港千尋、樫尾直樹といった文化人も数多く泊まったそうだ。

 

民泊ごんどうのある豆酘集落は、温暖なので作物がよく実り、沖の潮流が良く漁獲量も多いという。夕食に並んだ魚はどれも絶品で、特にカツオのたたきは、鮮度と脂の乗りが信じられないほど素晴らしかった。デザートのミカンと柿も甘い。夏にはビワもたわわに実るという。そしてそれらの花の蜜をたっぷり吸った天然の蜂蜜も名物だ。試食させて頂くと、幾層にも重なった濃厚な旨みが後を引いた。

 

そもそも豆酘という地名の由来は、単に「津々」(港)が「豆酘」の字に変わったという説もあれば、海人のシンボルである蛇を表す「筒」に由来するという説もある。この地は天道信仰の聖地を有し、豆酘美人の言い伝えもあるように、他の集落から一目置かれていた。

 

夜中、ぼくの部屋をドンドンと叩く音がする。その音はいつまでも鳴りやまない。一体誰だろう。目を開けてみると、なんだ強風で雨戸が軋んでいるだけだった。雨も相当降っている。明日は大丈夫だろうか。

 

翌朝もあいにく雨だった。優しい甘みのサトイモの味噌汁を啜っていると、「これでは八丁郭に行けんかもしれんですねぇ」と悦教さんが言う。八丁郭とは、龍良山の山中に位置する天道信仰の聖地である。別名「卒土山(そとやま)」と呼ばれ、その中心にはピラミッド型に積み上げられた古い石積みの石塔が建つ。龍良山は天道山の一つであり、対馬の天道信仰のなかで最も重要な聖地と位置付けられている。古くから「おとろしどころ」とみなされ、罪人が逃げ込んでも追補できないタブーの地であった。対馬の天道信仰で崇められる天道法師の墓と言われるが、祭祀場であったという見方が強い。周囲を取り囲む森は「シゲ(神籬)」と呼ばれ、石塔は「カナグラ(磐座)」と呼ばれることから、聖地の古典的概念の典型とされている。

 

昨晩、八丁郭に行きたいと話していたら、少し分かりにくい場所にあるのと、独特の参拝方法があるからと、悦教さんが案内してくれることになったのだ。とは言え今朝は雨が強く、山中を歩くのは危険だと言う。「一応入り口までは案内しますね」。我々は参拝に必要な米とお神酒を買い、浅藻にある八丁郭を目指した。すると幸運にも、その途中で雨が弱まったのだ。

 

「これは行ってもいいということかも分かりません」。悦教さんに先導されて、我々は八丁郭の最初の鳥居をくぐった。龍良山の山中は、多種多様な植物が生い茂っている。しっとりと湿りを帯びた原生林には霧が立ち込め、草木の一本一本に細やかな雫が宿っている。巨木や奇木、地面ごと剥がれるように横たわった倒木を掻い潜りながら、我々は八丁郭に辿り着いた。「この鳥居から先は、決して後ろ向きにならないでください。磐座に背を見せるのは、失礼になりますから」

 

我々は最後の鳥居をくぐると、八丁郭の石塔のしたに米と酒を供え、二礼二拍手一礼で参拝し、しばしその場を満たす聖性に身を浸した。そして、背中を見せないよう後ずさりしながら元来た道を引き返した。

浅藻の八丁郭
浅藻の八丁郭

「いやぁ、案内できて良かったです」。悦教さんとは民泊ごんどうの前で別れ、前日行けなかった赤米神田へ向かった。もう収穫が終わって更地になっているけれど、ここでは今も赤米を栽培している。とりわけ神事に使う赤米の田は、女性の立ち入りが禁じられているという。

 

そこから歩いて、高御魂神社の境内を散策する。この神社は、前日行った多久頭魂神社のすぐ隣に位置する。昨夕は暗くてよく分からなかったが、二つの神社に向かう途中の参道には、梵鐘が吊るされている。神仏習合だった時代の名残だ。高御魂神社の境内のお堂には「瑠璃堂」「普陀山」「毘沙門」と書かれた額も残されており、この地が廃仏棄釈の荒波をもろにかぶらずに済んだことを示している。

 

我々は豆酘を後にし、北上して島最大の市街地である厳原へ向かった。「昨日より運転上手くなったんじゃない?」とN調査員。おだてておけば後部座席に安住していられるという算段か。しかし実際、上手くなったかもしれない。運転なんか要は慣れである、ということにしておこう。

 

再び雨が強まる。そこで我々は対馬歴史民俗資料館を見学することにした。ここには、亀の甲羅を焼いてそのヒビ割れによって吉凶を占う亀卜神事の資料や、元禄時代につくられた対馬国の精密な地図などが展示されており、朝鮮通信使記録を含んだ宗家文書も収蔵されている。学芸員の山口華代さんに、対馬における廃仏毀釈やキリシタンへの弾圧について話を伺った。それにしても、次から次へと韓国からの団体客が押し寄せる。ガイドが早口でまくし立てるように説明し、ベルトコンベアー式に退館してゆく。資料館の近くには免税店も建っており、ここも団体客でごった返している。

 

昼食は近所にある「味処 千両」で、サツマイモが原料の麺で作られた郷土料理「ろくべえ」を食した。こげ茶色で長さ3cmほどの短い不思議な麺と、アゴだしの滋味豊かな汁がよく合っている。

 

午後は北上して豊玉町に入り、和多都美神社を参拝する。海上に建つ2つの鳥居がシンボルの神社である。この鳥居から直線上にある社殿は森に囲まれ、森の奥には豊玉姫の墳墓と伝えられる磐座がある。また、三柱鳥居によって「磯良エベス」と呼ばれる神石が守られている。これは京都の木嶋神社に存在する三角鳥居と酷似している。2年前に和多都美神社の三柱鳥居を見た鎌田東二先生は、秦氏との関連性を想起したと報告メールに書いている。

和多都美神社の海上鳥居
和多都美神社の海上鳥居
三柱鳥居
三柱鳥居

今宵の宿に行く道中、峰町歴史民俗資料館があったので立ち寄ることにした。厳原にある歴史民俗資料館より展示の見せ方が優れている。古代遺跡の発掘物から近現代における海女の実態、さらに豊富な民具の展示には目を見張る。また峰町では2012年、国指定の重要文化財「銅造如来立像」が韓国人に盗難される事件があった。その経緯は入り口のパネルに書かれており、係員の女性がわざわざそこだけ丁寧に説明してくれた。

 

峰町から1時間強走り、我々の泊まる梅屋ホテルのある上対馬町比田勝に入った。ここは対馬の最北端に位置している。ホテルの駐車場に車を停め、夕食の店探しをするが、どこも予約で一杯だ。この比田勝、韓国・釜山からフェリーのやってくる港があり、土日はどこも凄い込みようだ。三軒目に入った「炉ばた焼 ひでよし」のおばちゃんは、「あんたたち、観光?うちは時間かかるよ!それでもいいの?」とやたら挑発的である。売られた喧嘩は買ってやろう、ということで入ってみることにした。

 

店内の壁には、おばちゃんの子供たちが小学生の時に描いたという似顔絵や風景画が飾られ、「撮影禁止!」と張り紙がしてある。お世辞にも上手な絵とは言えないのだが、なぜだろう。さっそくY先生が質問すると、おばちゃんは即答した。「写真に撮って、転売するのがいるんだよ。みんな韓国人!頭に来ちゃうよね!」

 

確かに韓国人のお客さんも目立ち、「まだって言ってんでしょ!まず隣のテーブルのお客さんが先!」とおばちゃんがどやしつけている。すごい迫力だ。

 

思ったほど待たずして、我々のカウンターに「とんちゃん焼」が運ばれてきた。これは特性のタレに漬けた豚肉を焼いたもので、韓国のカルビが発祥だ。戦後間もなく、対馬北部で在日朝鮮人の人々が広めた料理とされる。近年、対馬の青年会が島おこしの名産品として積極的に取り上げ、有名になった。全国規模のB級グルメの祭典、B-1グランプリでも2012年に準優勝を獲得している。キャベツと一緒に炒めてあるのが特徴で、醤油ベースの甘辛のタレと絡まって、バランスの良い味わいだ。

 

「あんたたち、観光客って感じじゃないのよね。なんかねぇ、家族みたい!」と、おばちゃんは我々の顔を見比べて笑う。一体どういう家族構成を思いついたのか気になるが、突っ込むとしばかれそうなので、とりあえず同意しておくことにする。するとおばちゃんは、気さくにあれこれ話してくれるようになった。韓国からお客さんが来てくれるのはありがたい。しかしマナーはしっかり守って欲しいと、おばちゃんは強調する。

 

まぁまぁ、国によってマナーは違うんだし、それにとんちゃん焼だって元は韓国のカルビなんだし、そこは寛容に。なんて思うのだが、そんな上っ面の綺麗ごとでは済みそうにない。異文化が直接交わる最前線には、やはり厳しい現実がある。確かに店内に貼ってある絵を無断で転売して稼ぐのは、マナーの違い以前の問題であるだろう。おばちゃんのおかげで、三つの国籍を有する我々一家は、ホテルに帰ってから議論に花が咲くこととなった。

炉ばた焼 ひでよし
炉ばた焼 ひでよし

翌朝、やはり雨が強い。とは言えめげずに、五根諸の石塔へ向かうことにした。この石塔は、岬の突端にある祭祀場に自然石を積んだものだ。しかしこれがなかなか見つからない。舟志湾の五根諸漁港までは辿り着いたが、その先が分からない。この雨では人っ子一人歩いていない。そこでY先生が車を降り、個人宅を一軒一軒周ることになった。ようやく見つけたおじいさんに場所を聞くと、親切にも案内してくれるという。我々はまたしても幸運に恵まれた。そして五根諸の石塔の入り口に着くと、不思議と雨も弱まったのである。

 

荒々しい岩場を慎重に歩いてゆくと、足元一面がクリーム色の明るい岩の上に出た。その辺りだけ平らになっていて、岸壁近くに大きな石積みが2つ、門のように建っている。案内人によると、この石塔自体は昭和に入ってから子供たちが積んだものらしい。しかしこの場所は、古来祭祀場であったと考えられている。

五根諸の石塔
五根諸の石塔

続いて、南下して佐護町へ。佐護小学校の横を通りかかると、色づいた銀杏と古い校舎が目にとまったので、寄ってみることにした。元教員のN調査員が嬉々としている。説明の看板によると、佐護小学校は1891年に創立されたという。しかしいま、校舎の中はもぬけの殻で、外には背の高い雑草が生い茂っている。なんでも去年廃校になったそうだ。隣接する中学校も同様に、生徒数の減少によって運命共同体となった。立派な校舎とグラウンド、体育館が残されている。「なんだか寂しいねぇ」と一行はため息をつく。

 

続いて、天神多久頭魂神社を目指す。そしてまた道に迷う。今回はヒッチハイクスタイルで、通りがかる車に手を振って止め、尋ねてみることにした。3台目の車が止まってくれ、乗っていた地元の老夫婦が、神社の前まで案内してくれるという。天神多久頭魂神社は、豆酘の多久頭魂神社と対になった天道信仰の聖地である。古代から社のない神社として知られ、天道山を遥拝する祭祀場として機能してきた。境内は石垣で囲まれ、中央の両脇に2基の石積みの塔が建っている。この石塔は神を迎える門と考えられ、さきほどの五根諸の石塔と同様の機能を果たしている。中央の祭壇はいくつかの岩を固め、一個の石板のようにしており、子どもが生まれるとここに寝かしつけるのだという。泣き始めるまで置いておき、天道の加護を得るのだと、案内人の原美千代さんが教えてくれた。天神多久頭魂とは、天道大菩薩、つまり日神崇拝におけるカミ(テンドウ)のことを指している。    

天神多久頭魂神社の祭壇上にて
天神多久頭魂神社の祭壇上にて

せっかく来たんだから寄って行った方がいいよと、原さんは神社の近くにある対馬野生生物保護センターも案内してくれた。ここは、ツシマヤマネコをはじめとする島内の希少野生生物を保護している施設である。充実した展示施設も兼ねている。ツシマヤマネコは、日本では対馬にしか生息せず、約10万年前に当時陸続きだった大陸から渡って来たベンガルヤマネコの亜種である。現在、対馬には70100頭しかおらず、交通事故による減少も深刻化している。このセンターで飼育展示されているのは11歳のオスで、人間でいえば既におじいさんだ。丸々と太っているが、動きは思ったより俊敏で若々しい。

ツシマヤマネコ
ツシマヤマネコ

原さん夫妻と別れ、南下して昨日訪れた峰町に入る。まずは海神神社を参拝した。海神神社は伊豆山を神山としており、豊玉姫を祭神とする対馬の一ノ宮である。参道は長い石段からなっており、周りの木々が清澄な空気を醸し出し心地良い。頂上の本殿は古い木造様式で風格がある。

 

海神神社の麓にある御前浜では、毎年6月にヤクマ祭りが行われる。25歳の男子を頭として2基の石塔を積み上げ、麦の穂と麦酒、魚を供え、祝詞をあげて礼拝する。このときつくった石積みの石塔が、木坂のヤクマの塔である。古来この祭りは、麦の収穫祭(穀霊崇拝)であった。

木坂のヤクマの塔
木坂のヤクマの塔
木坂のヤクマの塔の近くにある藻小屋
木坂のヤクマの塔の近くにある藻小屋

最後に、今回の行程の締めくくりとして、和多都美神社近くにある烏帽子岳に上った。晴れた日には頂上の展望台から大パノラマを臨める。しかし今は弱まったとはいえ雨空なので、期待できないだろう。が、諦めるのは早かった。えっちらおっちら階段を上って眼下を見渡すと、そこには小さな島々からなる多島海の眺望が開けていた。そして後ろを振り向くと、紅く色づき始めた山々と、その谷間を満たす霧のコントラストが、さながら神仙世界にやってきたようだ。雨天ならではの光景に、我々はひたすら息を呑む。そして10分もしないうちに、辺りはたちまち闇に包まれてしまった。

烏帽子岳からの眺望
烏帽子岳からの眺望

そして今回起こった幸運な出来事は、これが最後でなかった。我々は東京への帰り道、一つ心配していることがあった。福岡空港での乗り継ぎ時間が短い。しかも対馬から福岡まではANAだが、福岡から羽田まではJALなので、他社便への乗り継ぎでは、融通が利かない。そしていま対馬空港のロビーで、福岡への到着時間が遅れると告げられた。絶体絶命である。対馬空港のANAカウンターで事情を説明すると、福岡空港のスタッフに連絡してくれるという。「なんとか便宜を図るよう依頼しますが、万一間に合わなかった場合は、ご承知おき下さい」

 

我々を乗せたプロペラ機が福岡空港に到着すると、タラップの下にはバスとワゴン車が一台ずつ待機している。「JALで羽田空港へお乗り継ぎされる4名様は、こちらのワゴン車へお乗りください!」

 

こうして我々は「特別輸送車」によって、これまでの運続きのつけを払うため、福岡拘置所に強制送還、ではなく、JAL便が待機している搭乗口へお運び頂いたのである。

 

福岡を飛び立ったJALの機内で、ぼくは港千尋さんが書いた次の文章を反芻していた。

  それにしても対馬は、本当に古代以来の自然と歴史が凝縮された島で、話題には事 

 欠かない。たとえ短い滞在でも、そこで見聞きしたことは一生分にも値しよう。

―「対馬」『美術手帳』vol.65 NO.987

 

たしかに一生分かもしれない。と納得できるのは、今回の短い滞在で、我々の世界に対する見方は少なからず変容してしまったからだ。たとえば対馬の天道信仰は、自然と人間を媒介する信仰の原型を、「シゲ(神籬)」の森と「カナグラ(磐座)」の石塔を通していまに教えてくれている。対馬の神社は、「日本固有」と説明されがちな神道の核心が、実は朝鮮半島から伝わったことを静かに示している。そして対馬の人々は、「国境の島」というロマンティックなイメージの裏側には、異文化対立の生々しい問題が山積しており、彼らがその状況下を強かに生きてきたことを背中で見せてくれている。

 

つまりこの島を訪れた者は、自身の自然観・宗教観・日本文化観・領土観を揺さぶられ、一生分の宿題を持ち帰ることになるのである。そう書くと、対馬に行くには相当な覚悟がいるように思えるかもしれない。しかし、そんなことはないだろう。たとえば対馬の雨に降られてみるだけでもいい。原生林を湿らす生命の滴、聖地に入ろうとすると弱まって、ミストシャワーのように微細化する対馬の雨に、あなたも迎えられてみてはいかがだろうか。

 

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対馬の天道信仰では、次のような太陽感精神話が伝えられている。ある日、豆酘に住む女が排尿していると、日光に感精し、男の子を出産した。その子は天道と名付けられ僧侶に成長し、上洛して霊亀2年(716年)に元正天皇の病を霊力で癒し、褒美として対馬の年貢を許された。天道法師は行基を連れて対馬へ戻り、行基は滞在中に6体の観音像を刻んだ。のちに天道法師は浅藻の「卒土山」に入り山中で読経、ここに入定した。

2  延喜式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十において、「官社」と指定された神社のこと。


 
 辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学をふまえ、離島でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。