永劫なる命 大重潤一郎

高橋 あい

 

 

 

このWeb magazineを始めたきっかけは、留学先のアメリカからでも自由大との間で出来ること、そして、その当時進行中だった「久高オデッセイ」の制作に協力出来ることを模索し、大重潤一郎監督の言葉を発信する場所をつくりたいという想いからだった。

毎朝アメリカと沖縄の間でスカイプをし、監督と直接話し、体調や撮影の様子を聞きメモを取っていた。日本にいた時よりも密に連絡を取っていた。立ち会えない手術があると「どうか手術が成功しますように」と心から祈った。正直、あの頃は映画が完成する前に監督が亡くなってしまうのではないかとも思っていた。きっと、その半信半疑な気持ちは私一人ではなかったはずだ。

 

2015年6月21日、「久高オデッセイ[第三部 風章]」の完成上映会を、久高島交流館で島の人々を対象に行った。島民総出で集まってくださった。そして感動の感想の声がどっと伝わってきた。島がふくらんだ気がした。その一ヶ月後の7月22日、大重監督は息を引き取った。


 

大重監督と知り合ったのは2002年、文京区シビックホールでの上映会のときであった。そのとき、大重監督は最後のトークで比嘉康雄さんの写真集を紹介しながら「これから12年かけて久高島を撮影します」と宣言した。上映会を2回企画し交流が深まった頃、大学で助手の仕事をしていた私に「港先生(当時の私の担当教授)の助手を終えたら、いずれ私の助手をしてください」という言葉と共に、久高島の情報や新聞記事を届けてくれた。

その手紙のことはすっかり忘れていた。先月、映画資料を作成するため過去の資料を読み返していたら、偶然その手紙が見つかった。いまから振り返ると、私は監督が求めていたことのわずかしか力になれなかったように思う。

 

 

亡くなる数日前の7月19日から21日まで、私は監督の入院する沖縄日赤病院の病室にいた。着いた日、監督はほとんど眠っていた。起きると痛みだすので、すぐに鎮痛剤か精神安定剤を入れる。呼吸器を付けていて、本人が無意識に管を外すと体内の酸素が一気に低下するので、側には必ず誰かが付いていた。目が覚めると、「水が飲みたい」、「身体の位置を変えたい」、「タバコ(電子タバコ)を吸いたい」、「腕を引っ張ってほしい」などと様々な注文があり、一度言い出すと落ち着かない。ストレスが溜まってパニックになると酸素値が低下し、一度下がるとなかなか上がらず窒息死する可能性もあるので、付き添うときは常に酸素値をチェックしていた。

20日、鎌田東二先生が到着すると水を得た魚のように嬉しそうな表情になった。弁慶と義経、山賊と海賊とお互い呼び合い、懐かしい話を交わしていた。「久高オデッセイ」は、関わった人の誰が抜けても出来上がらなかったが、その最たる存在は鎌田先生であった。

21日、夜中に3時間くらい仮眠をとって起きると、大重監督は起きていて息子の生さんに注文を言い続けていた。「変わるから休んで」と私が付き添いに入る。それから私が病室を去るまでの6時間以上、ほぼ休まずに「身体を起こしたい。引っ張ってほしい。」と言い続けた。「監督、歩きたいんだろうな」と察するものの、たとえ車椅子に座らせても腰の力がないのでずり落ちることは想像の範囲内であり、支えて立てるとしても大人6人以上の支えが必要だった。

わずか7ヶ月くらい前まで、自分一人で歩き、アパートの四階の階段を上り下りをし、病院でのリハビリも欠かさなかった。

その監督が、「歩けない」という事実を受け止められない姿を見るのは本当に辛い時間であった。けれど、その姿もつかの間、私が病院を後にした数時間後には昏睡状態になり、22日15時50分、息を引き取ったと連絡が入った。監督は昏睡状態に入る直前、「聖者の行進」をしたいと言い、そのまま自由な足取りで、ニライカナイへと向かっていった。

 

 

1年半前、私にとって大重監督と同じくらい大切な存在である加島祥造さんが脳梗塞で倒れた。91歳になったばかりだった。病院の先生も親族も半ば諦めていたが、加島さんのパートナーと私は交代で看病を続けた。反応がない日が続いていたが、あるときからコミュニケーションがとれるようになった。毎日毎日、反応が違い、私たちはその反応を愛おしく思っていた。その最中、お世話になっている和尚さんから電話があった。「近況は?」と聞かれて事情を話す。「病気の方の姿というのは、人間の最も尊い姿ですから、今の時間を大切にしてください」と言われた。他人の力を借りないと生きれない赤子や病気の人は、生命の根底が一生懸命に動き、まさに生長点そのものなのだと気付いた。その言葉は大重監督の姿にも重なった。病気になってからの監督は、不可能を可能としてきた。最大限の力を出し、諦めることはなかった。

 

 

久高島は監督の姿そのものだ。

人間が作る苦しみ、それを包み込む母のような暖かさ、自然の輝き、命の往来。

 

 

監督の病気と共に過ごせた時間は、監督と関わる人に多くのことを教えてくれた。「いつか亡くなる」という予兆故に、関わるものは真剣に耳を傾けていた。

 

寂しくないというのは嘘になる。けれど、いま監督は、沖縄という地理的に遠い場所ではなく、私たちの心の中にいる。

 

 

大重潤一郎様、

魂の父、

いつまでも私が帰る場所でいて下さい。

 

 

心より感謝を込めて、合掌。

 

 

2015年7月31日

 


 

高橋 あい/たかはし あい

東京自由大学セカンドステージメンバー。写真家。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。東京芸術大学修士課程修了。沖縄大学地域研究所特別所員。ポーラ美術振興財団の助 成を受け、2012年9月から1年間、アメリカ合衆国・インディアナ大学にて写真作品制作と研究を行い、2013年10月に帰国。現在は飛騨古川を拠点とし、株式会社美ら地球に勤務。東京自由大学では、主に 「大重潤一郎監督連続上映会」の企画を行っている。また、このウェブマガジンの発案者である。ホームページ