アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その13   

鎌田東二

 



18、「いのちの讃歌」を歌い続けた大重潤一郎

 

大重潤一郎のいのちが今にもこの世から去っていこうとする時に、埼玉県大宮の家で大重との別れの言葉を書きつけようとしている。いろいろなことを思い出すたびに目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。

 

今となって、わたしにとって大重潤一郎がどれほど大切な人だったかが身に沁みてくる。弁慶-義経とか、海賊と山賊とか、半ば冗談めかして、その実本気で言いたいことを言い合った。大宮のこの家にも何度か来て泊り、築地で仕入れてきた魚を捌いて家族5人にふるまってくれた。当時、猫が3匹いたから、家族8人前の大盤振る舞いだった。

 

大重潤一郎の豪胆なようで、本当に繊細な心をいつも感じていた。わかりすぎるほどよくわかるので、わざと感じないように鈍いそぶりをしたこともあった。

 

そんな片割れのような半身の「海賊」を喪うことは身を切るよりも辛い。いずれ向こうで会えるとは思っていても、今生でもう言葉も交わせないかもしれないと思うと、寂しさが募る。これまで父母を含め、どんな近親者が死去しても、寂しいと思ったことはないが、まだ大重潤一郎が死んでもいないのに、寂しいという気持ちが募って来て涙ぐんでしまう。

 

何だろうか、この感情は。かけがえのない友を失う。そうでもあるが、それ以上だ。そんな通り一遍の言葉では収まり切らない感情の塊。その塊が迫ってくる。

 

この3月初めだったかに調子が悪いと電話があった時、できるだけ早く行くからと3月末に沖縄に行く予定だったが、体調を崩し、40度近い高熱を出して1週間まるまる臥せったために予定が完全に崩れ、沖縄に行って大重潤一郎を会うことができなかった。またその時点で、「久高オデッセイ第三部 風章」の進捗を現場でチェックすることもできなかった。

 

結局、沖縄に渡ることができたのは、5月末の527日から30日までの34日だった。その内、2日間は、女優の鶴田真由さんや比嘉真人助監督や高橋あいさんや伊豆有加さんと久高島に渡ったので、正味2日、実際には3日一緒に話しをすることができた(1)。そして次が、621日(日)に久高島で行なった上映会の時。上映会を終えてすぐに大重のいる沖縄映像文化研究所に向った。その時、久高島での上映会の成功を伝えたのだった(2)。

 

そして7月5日の東京・両国のシアターΧでの島外初上映会。300席で満席のところ、316人の方々が観に来てくださった。最後の4日間は定員オーバーで予約お断りをせざるをえない反響だった(3)。

 

大重潤一郎は、シアターΧのスクリーンにスカイプでつないだ沖縄映像文化研究所の自分のベッド上で悠然と煙草をくゆらし、あまつさえビールを飲み干す余裕のパフォーマンスを見せた。観客は度肝を抜かれただろう。今にも末期癌で死にかけているこの69歳の男、201519日の沖縄タイムズで「余命1年」と大きく見出しに書かれ、74日、上映会前日の朝日新聞にも大きく今度は「余命半年」と書かれた男が、肺にまで癌が転移して死を目前にしながら悠然と煙草をくゆらしているとは。弁慶も顔負けの一世一代のパフィーマンスであった。

 

そしてそれは楽しげな笑いを誘い、大喝采を受けた。オオシゲ、いいぞ、がんばれ、と。そして、みんなそこで不屈の大重の魂の所在を感じとったのだった。大重潤一郎らしい、と思った。

 

その10日後の715日、大重潤一郎に、高木慶子上智大学グリーフケア研究所特任所長や島薗進上智大学グリーフケア研究所所長やスタッフのみなさんと相談して、103日(土)15時から「久高オデッセイ第三部 風章」上映会とシンポジウムを上智大学10号館1階の800人も入る講堂で開催することが決まったことを伝えた。すると大重は、「ありがとう。ありがとう。たのむ。かまっさん、でも、もう限界。明日あさってが。ゆるして。ゆるして。」と力ない声で言うのだった。思わず泣きそうになって、「ゆるすよゆるすよゆるすよ。あんしんして。もうずいぶんがんばったよ。大重さんのいいところは全部映画に込められているから、それをみんなに伝えていくよ。」と叫んでいた。もちろんわたしが「ゆるす」も何も、そんな大それたことは一切何もないのだが、またそんなことできるわけもないのだが、少しでも安心してほしいのでそのように言ったのだった。

 

716日朝、高木慶子シスターに大重潤一郎に電話してほしいとお願いした。安心するからと。高木シスターは1995年か96年かに大阪で『光りの島』(1995年製作)の上映会を開催してくれたのだが、そこに800人の人が観に来てくれたという。これまで『光りの島』の1回での上映動員数の最高記録ではないだろうか。

 

16日の昼に大重に電話すると、直接彼が出て、「高木先生から電話があった」と嬉しそうに語っていた。だが、前日の15日に一人息子の大重生さんが神戸から沖縄に渡り、赤十字病院で主治医から病状を確認すると、癌細胞が肺の別の場所と両あばら骨に転移しているとのことだった。そして、癌細胞が悪さをして呼吸機能や嚥下機能を低下させ、身体の痛みを増加させているとのことだった。

 

そのような事態の中での高木慶子シスターの電話は、大重の心に届いたと思う。高木シスターはわたしの「大姉様」であるが、電話の後、次のような2つのメールを送ってくれた。

 

<早速に、大重監督にお電話いたしました。すぐに取っていただき、長いご無沙汰にもかかわらず、昨日までお目にかかっていたような感じで、お話しできました。

「お祈り申し上げております・・」と申し上げましたら、「それが一番うれしいことです。お願いたします。・・」と何度もお言葉を繰り返しておられました。

「先生、向うで待っていていただけますか。私がそちらに参りましたときには、お迎えをお願いいたしませね・・」と申し上げましたら、「よろこんでお待ちしております・・」と。

「先生の映画は、出来る限り多くの方々に見ていただけるようにいたします・・・」と申し上げましたところ、「うれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。・・」とのことでございましたので、先生とのお約束は果たしたいと念じております。

とてもはっきりとした、明るいお声でしたので、ビックリするほどでした。

大重監督の志を私どもが継いでいきたいと、こころから願っております。>

<私にとりましても、今日は、特別な日となりました。先生から大重監督の病のことを伺ってから、毎日、今日はどうなのかな・・・と、考えておりましたので、ターミナルとは考えられない程の張のあるお声でしたので、私の方が、元気をいただいたように思っております。きっと大重監督も、私に心配を掛けないためのご配慮だったと思います時、胸が詰まってしまいました。

しかし、向うで待っていただく方が、また一人増えることを思います時、私も安心して逝っていけると、心を強められた思いでございます。鎌田先生、誠に貴重な機会をお与えいただきましたこと、深く感謝し、もっともっと神様が、大重監督を安らかにしていただけますよう、こころからお祈り申し上げます。>

 

本当にありがたいことである。グリーフケアの専門家で、筋金入りのカトリックの修道女の高木慶子大姉様から「祈り」を届けられたのだから。最後は祈るしかない。祈りしかないと本当に思う。かつて、山尾三省は次のように祈りの詩を書いた。

 

祈りのことばは

わたくしが 人間としてたどりついた

最初のことばにすぎないが

最終の ことばでもある

     「祈りのことば」山尾三省

 

大重潤一郎監督の記録映画に、『ビック・マウンテンへの道』2001年製作(ナレーション:山尾三省)がある。屋久島に住み、農を営みながら詩を書きつづけた霊性の詩人・山尾三省(1938年-2001年)は、NPO法人東京自由大学立ち上げから20018月に亡くなるまで、東京自由大学の顧問を務めてくれた。わたしは1997年夏だったかにゲーリー・シュナイダーたちと共に行なった女神シンポジウム終了後、山尾三省に初めて逢い、翌年行なった「神戸からの祈り」の顧問になってもらったのだった。

 

そして山尾三省を大重に紹介し、アメリカ先住民のナバホ族とホピ族の聖地「ビック・マウンテン」を護るおばあちゃんたちを支援する運動のドキュメント『ビック・マウンテンへの道』のナレーションが完成したのだった。その後わたしは2003年に武蔵丘短期大学を退職した退職金で、その大重の映画『ビック・マウンテンへの道』をDVDにした。2004年、大重が「小川プロ訪問記」を引っ提げて、ベルリン国際映画祭正式招待に応じる前のことだった。もちろん、大重が脳内出血で倒れる前のことだ。大重映画を世界に発信したいと思ったのだった。

 

今、NPO法人東京自由大学では毎年10月に山尾三省を顕彰する「三省祭り」を実施している。もしかしたら今年は「三省・大重祭り」になるかもしれない。そして103日の上智大学での上映会も「大重祭り」の一環となるかもしれない。

 

大重とのことでしばしば思い出すのが、「神戸からの祈り」の寄附を集めにあちこちを頭を下げて回った時のことである。1998年の夏のことであった。某出版社の某社長にお会いして寄附をお願いしたが、京都駅まで炎天下を歩いたことである。その時、1970年に二人が、当時大阪大学医学部学生の共通の友人であった長谷川敏彦の世話になっていたことが判明し、京都駅前の道路脇の公衆電話ボックスから長谷川敏彦に直接電話して、大いに盛り上がった。あの暑い夏のことをしばしば思い出す。わたしたちには金は一銭もなかったが、志と情熱と行動力だけはあった。そして数百人のボランティアが集まって、「神戸からの祈り」と「東京おひらきまつり」が実現した。神戸の実行委員長を大重が務めてくれた。1998年、夏のことだった。

 

1970年、大重は阪大医学生の長谷川敏彦の主催で処女作『黒神』(1970年製作)を上映した。同年5月、わたしは大阪心斎橋で「ロックンロール神話考」と題する芝居を作演出していたが、そこに長谷川敏彦が何度も観に来てくれて励ましてくれていた。以来、長谷川敏彦にはいろいろとお世話になったのだった。その長谷川が二人の大切な友人であったことを1998年の炎天下の京都で気づき、「縁」というものは本当に不思議なものだと思ったのだった。

 

そんな大重潤一郎との「縁」が新しい段階に入るのだろう。もう、この世での海賊・山賊コンビの「楽しい世直し」はこれ以上果たせないかもしれないが、この17年間、大重と出逢って、わたしは面白く、楽しく、愉快に、豊かに、幸せに過ごすことができた。ありがとう、ありがとう、ありがとう、大重潤一郎。さようならを言う時が近いかもしれないが、しかし、いつもそばにいることに変わりはない。深い縁は切ろうとしても切ることができないのだ。それがこの世であっても、あの世であっても。その縁に心から感謝する。そして、大重の一貫した生き方に心からの敬意と愛を捧げる(4)。

 

  時が来て生の汀に打ち返す

    君がいのちの引き潮を見る

 


1528日から30日までの大重潤一郎の様子や久高島訪問のことは、モノ学・感覚価値研究会HPhttp://mono-gaku.la.coocan.jp/「研究問答」欄をご覧いただきたい。

530

鎌田東二:沖縄・久高島訪問、および「久高オデッセイ第三部風章」制作報告

528

鎌田東二:久高島訪問

528

鎌田東二:大重潤一郎監督作品「久高オデッセイ第三部 風章」制作 沖縄からの報告1


2621日(日)の久高島での初上映会のことは、同じく次のモノ学・感覚価値研究会HPhttp://mono-gaku.la.coocan.jp/「研究問答」欄をご覧いただきたい。

621

鎌田東二:621日(日)久高島での『久高オデッセイ第三部風章』初上映会報告


375日(日)の両国シアターΧでの島外初上映会のことは、同じく次のモノ学・感覚価値研究会HPhttp://mono-gaku.la.coocan.jp/「研究問答」欄をご覧いただきたい。

76

鎌田東二:75日、「久高オデッセイ三部作」上映会+シンポジウム報告

(閲覧の便のために、以下に貼り付けておきます)

みなさま

昨日の東京両国のシアターΧで、「久高島オデッセイ」三部作上映会とシンポジウムを開催しました。

300席で満席の会場で、4日前からすべての申し込みをお断りせざるを得ない凄い反響で、当日は320人ほどが観てくれました。

スタッフやパネリストを入れると350人近い人が「久高オデッセイ第三部 風章」を観てくれたことになります。有難くも、嬉しいことです。心より感謝申し上げます。


当日配布したパンフレットに、久高中学校の社会科担当の宮良孝先生が「この映画を観たらいじめもなくなる」と書いてくれていますが、わたしもその通りと思います。なぜかというと、映画を通して、おのずと、いのちというものの奥深さ、雄大さ、力強さ、美しさ、そしてかけがえのないはかなさを感じとることができるからです。今後は「久高オデッセイ第三部 風章」を基軸に、大重映画を、日本国内はもとより、世界中に発信していきます。各地・各機関・各大学で自主上映もしてほしいので、その募集もしています。よろしくお願いします。

シンポジウム「大重映画と『久高オデッセイ』が問いかけるもの」のパネリストは、島薗進(『久高オデッセイ第三部 風章』制作実行委員会副実行委員長、東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長・宗教学)、新実徳英(音楽家・作曲家・桐朋学園大学院大学教授・『久高オデッセイ第三部 風章』作曲・音楽)、堀田泰寛(映画カメラマン)、阿部珠理(立教大学教授・アメリカ先住民研究)、宮内勝典(作家、大重潤一郎とは高校時代からの親友)の5名。

みなさん、「久高オデッセイ第三部 風章」を大変高く評価してくれました。その完成度の高さ、クォリティ、テーマ、詩情。何よりも、ここには「いのちの讃歌」があり、「いき(息・生き・呼吸)・いぶき(息吹)」と「いろけ(色気・エロス・エロティシズム)」と「いのり」と「いたみ」があります。

上映会+シンポジウムは大成功でした。そのことは、朝10時から、「久高オデッセイ第一部 結章」「久高オデッセイ第二部 生章」、そして、「久高オデッセイ第三部 風章」とシンポジウムをすべて観・聴いてくれた株式会社サンレーの社長佐久間庸和さん(一条真也さん)が、以下に超神速で2つもブログを書いてくれたことで証明できます。

http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150706/p1 (「久高オデッセイ」)
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20150706/p1 (「久高オデッセイ」上映会&シンポジウム)
ぜひこの2つのブログをご一読ください。わたしはこの「久高オデッセイ第三部 風章」最初に観て3分経った時、この映画の成功・成就を確信しました。その3分間の中に、この映画の主題とも通奏低音ともいえるシーンが2つ、はっきりと映像そのもので示されていたからです。言葉は必要ありませんでした。

1つは、イノー(珊瑚礁地)の珊瑚礁の大地に大きな割れ目があり、そこに白波が押し寄せて来ては引いていく1分ほどの場面でした。その場面に、鶴田真由さんのナレーションがしみじみと被ります。「島の東海岸に広がるイノー(礁池)。内海と外海が接するところで、大地は呼吸をしています。」この中に、大自然の息吹き、いのち、呼吸がすべて表現されています。

2つめは、その少し後の同じイノー(珊瑚礁地)で、貝を拾う島の女性が拾った貝を頭の上に掲げてほんの少し頭を下げるシーンです。その何気ない仕草の中に、日常生活の中に「いのちをいただいて生きている、活かされている」という生命・生活倫理がありました。一切の言葉も説明もなく、ただの無意識的な振る舞い・行動として。

祈りと共に在る、ということは、こういんことなんだよな~、ということをしみじみと感じさせてくれました。冒頭3分内で、この2つのシーンを観た時に、わたしはこの映画の成功を確信すると同時に、この1時間35分の映画のクォリティを確信をもって「すばらしい!」と思ったのでした。そして、何度観ても、この2つのシーンにはこころを打たれます。

阿部珠理さんがいみじくも指摘してくれました。「大重さんは命を削ってこの映画を作ったのではなく、久高島からいのちをいただいてこの映画を完成させた」のだと。その通りです! 阿部はん、あねさんは、凄いぜよ! よう、わかっとるわい。

そう、感心しつつ、しかし、やはりこの映画編集・制作の集中力は心血を注ぎこみ、命を削りつつ注入する作業であったと思わざるを得ません。それは常人には成し遂げ難い集中と強度です。大重さんはそれを成し遂げた。比嘉真人助監督やスタッフたちと共に。そのことを、何よりも歓び、祝い、快哉を叫びたい! すばらしい! おめでとう! と。

7・6 鎌田東二拝


475日、両国シアターΧの上映会当日パンフレットに次のような文章を寄せた。

<大重潤一郎が「久高オデッセイ」三部作を完成させることができた。2004年に脳内出血で倒れ、さらに肝臓癌で17回もの手術をしながら、文字通り命懸けでいのちを削って完成させた三部作である。その完成を心より祝福し、またありがとうとお礼申し上げたい。

19982月だったか、大重潤一郎と初めて出逢って以来、弥次喜多道中のようにこの時代の荒波に呑み込まれながら、ここまで必死で泳ぎ渡ってきた。阪神淡路大震災の犠牲者を鎮魂するイベント「神戸からの祈り」や「久高オデッセイ」三部作の製作などなど、大重とは同志以上の間柄だと言葉にならない因縁を感じている。また大重の沖縄映像文化研究所の活動とNPO法人東京自由大学の活動は兄弟姉妹の深く親密な間柄である。互いに切磋琢磨し協力し合いながら一歩一歩進んできた。

大重は東京自由大学設立発起人(1998年設立、99年始動)でもあり、NPO法人東京自由大学となってからは副理事長となって沖縄から支えてくれた。その意味で、大重の映画「久高オデッセイ」三部作は、「沖縄自由大学」ともいえる「沖縄映像文化研究所」のオオシゲ・スクール、オオシゲ・コミュニティ、オオシゲ・ファミリー、大重組の特産品でありながらも、東京自由大学の精神性・霊性の具体的な発露でもあった。

その大重の真骨頂は、何よりも、空気の描写であり、風の描写である。海の描写であり、花の、植物の描写である。大重映画の中ではいつも主人公は自然である。その自然の中に慎ましくけなげに、しかし逞しく生きている人間がいる。そのことをデビュー作「黒神」(1970年製作)から一貫して追求してきた。その大重映画の一貫性に敬意を表したい。

わたしもそうであるが、大重潤一郎は「究極のワンパターン」である。1970年以来、一貫して自然への畏怖・畏敬といのちの豊かさとかけがえのなさを訴えてきた。道徳的なメッセージとしてではなく、自然との感応道交ムービー、モノのあはれとして。

「久高オデッセイ 第一部 結章」(2006年製作)の中に海亀が出てくる。その海亀はイノー(礁地)の中で海に戻れずどうしていいかわからず戸惑っているように見えた。そして新作「久高オデッセイ第三部 風章」(2015年製作)の最後の方で出てくる海亀は涙を流しながら産卵を終え、後ろ足で盛砂を固め、わが子である卵を保護して堂々と久高島の東の浜を後にした。それを観てこみ上げてくるものがあった。

大重は海亀のようにこの「久高オデッセイ」三部作を無事産卵し、堂々と彼の好きな海に出ていく、還ってゆく。大重の魂はこの映画の中に、彼の映画人生の全作品の中に一つ一つの卵=魂子として生き続け、後続する者に新鮮ないのちの水と風と空気を惜しげもなく絶やすことなく与え続けるのである。

「究極のワンパターン男」大重潤一郎は不滅である。〉

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト