境界をめぐる冒険

エピローグ 

辻 信行

 

 

 

ゆっくり、どことなく厳かな雰囲気をまといながら、その人は壇上にのぼってゆく。マイクを手にすると、大教室を埋める学生たちに問いかけた。

 

「北海道から来た人、手を挙げてください!」

3~4人の学生が恐る恐る手を挙げる。

 

「ほぉ。では、東北地方から来た人!」

さっきより多く、20人ほどの手が挙がった。

 

その人は、関東・中部・近畿・山陰・四国・九州・沖縄・海外を順番に訊いてゆく。ときにパラパラと、あるときはドドーッと挙手する学生たちの表情は、新年度最初の講義を迎える期待と緊張感で引き締まっている。

 

入り口に近い教室の隅の方で、一人不安そうに座っていた女の子は、四国のところでおっかなびっくり指先を持ち上げ周りを見渡すと、同郷の仲間を見つけたようで、少し肩の荷が下りたようだ。

 

一通り出身地を訊き終ると、その人は大教室の巨大な黒板に、白いチョークでおおまかな日本地図を描き始めた。次に赤いチョークを手に持つと、その地図をバッサバッサと四分割した。そして最後に青いチョークで真っ直ぐな縦線と横線を描き、すべての線が本州のちょうど真ん中で交わるようにした。

 

「日本列島は、四枚のプレート上に載っています。そしてそれが交わる中心の近くにありのが、諏訪大社。縄文時代から信仰されており、七年に一度行われる御柱祭が有名ですね。もう何年も前ですが、わたしのすぐ隣でこの祭りを見物していた男性は、巨大な御柱がこっちに転がってきて、逃げ切れず死にました。死者が出ても、この祭りは絶えることなく続けられるのですよ」

 

大教室は水を打ったように静まり返る。

 

「今日、この教室に集まっているみなさんが多様なDNAを持つように、宗教にも多様性があります。そしてみなさんがそうであるように、共通性があります。この講義では、宗教における多様性と共通性を明らかにしていきたいと思います。では、まず『風の谷のナウシカ』を見てみましょう」

 

見事な滑り出しだった。地方から、あるいは海外から、ここ早稲田大学に入学し、正真正銘この講義で大学生活をはじめる学生もいる。また、都会育ちでそこまで肩ひじ張らず、ワクワクした面持ちでこの講義に臨む学生もいる。そんな彼らに自らのアイデンティティーと、教室に居合わせた仲間たちのアイデンティティーを認識させ、それを講義のテーマと結び付けてゆく。ダイナミックな知のモーションが、いまここで生成されている。

 

これが、鎌田東二先生と出会った瞬間だった。大学3年生の新学期。しかし、ぼくは早稲田の学生ではない。中央大学に在籍しながら、自分の大学の講義とバイト時間の合間に、他大学の講義に潜り込み、豊かな知の源泉に触れることを、愉しみにしていた。

 

訪ねて行ったのは、多摩美術大学の中沢新一・安藤礼二・鶴岡真弓・平出隆、首都大学東京の宮台真司・大杉重男・西山雄二・何彬、早稲田の宮沢章夫・小沼純一・竹内万里子、学習院の赤坂憲雄、明治学院の辻信一、などである。ぼくは「有名な先生と仲良くなりたい」とは思っていなかった。「これだと思う叡智に触れたい」という一心で、知の巡礼を続けていたのだ。

 

早稲田のネット上のシラバスで、空いていた金曜の午後の講義を検索し、膨大な数の講義一覧を見てゆくと、「比較宗教学01/鎌田東二」というのが目にとまった。なんとなく気になる。比較宗教学が面白いことは知っていた。既に自分の大学で保坂俊司先生の講義を受けて、この学問の持つダイナミックさと、同時代の世界を読み解くうえで極めて重要な視点であることに気付いていた。

 

しかし、まだ鎌田先生の本は一冊も読んだことがない。名前だって聞いたことあるかな程度だ。とは言え、どうしても聞きに行かなくてはならない、というどこからか湧き出る衝動に突き動かされたのだ。

 

鎌田先生は初めての講義の終わりに、映画『2001年宇宙の旅』を見せた。この映画はぼくも好きだ。キューブリック監督は、『時計仕掛けのオレンジ』と『博士の異常な愛情』も傑作だと思う。だから講義が終わったら鎌田先生に話しかけなくてはならない、と思った。けれどぼくはシャイな方で、初対面の人には緊張して気が引ける。おまけにいま目の前にいる先生は、全身緑のコーディネートでサングラスときている。しかし、やはり話しかけたくてしょうがないのだ。

 

「先生、ぼくも『2001年宇宙の旅』、好きです」

「そう、嬉しいね。ぜひ最初から最後まで観てごらん」

「はい、もう全部観ました」

「そう。この映画はいいよねぇ」

「はい!」

 

教室を出て階段を下り、廊下を歩いて校舎の外に出るまで、自分が宗教学に関心があること、中央大学の学生であることなどを話した。

 

その後、ぼくは鎌田先生の講義に淡々と出席し続けた。講義が終わった後、質問しに行くということを、ぼくはあまりしない。質問は自問自答するのが好きであって、90分の講義を終えて疲れ気味の先生にパッと聞いてパッと答えてもらおうとは、思わないのだ。

 

だからこの次に鎌田先生と話したのは、前期の最後の講義のときだった。

「先生、ぼくは後期、自分の大学で必修科目があるので、鎌田先生の講義には来れないんです」

「別にかまわないよ」

「先生は早稲田の後、國學院で夕方に講義してますよね。教室番号を教えてください」

「えっ?」

 

そして夏休みを終え、後期は國學院で鎌田先生の講義を聞いた。

「きみ、熱心だねぇ」

性懲りなく最前列に居座るぼくに先生は言った。実は最前列に座って講義を聞くというのも、ぼくはあまりしない。教室全体のライブ感が分からなくなるので、もう少し後ろに座るのだけど、鎌田先生の講義は最前列で聞きたいと思った。

 

そうして國學院でも後期の最終講義を迎えた。

「きみ、もしこのあと空いてたら、一緒に夕食を食べて、東京自由大学の運営委員会にオブザーバーとして出席してみない?」

 

願ってもないことだったが、これはあまりに恐れ多い。まず大学教授(と言っても、鎌田先生ほどこの肩書きが似合わない人はいない。しかし、こういう人こそ、大学教授に相応しいとぼくは思う)と二人きりで食事をするということ自体、はじめてだったし、その後の「オブザーバー」とやらは何だろう?よく分からないが、ついて行ってみることにした。

 

「きみは、どこ出身なの?」國學院の渋谷キャンパスを歩きながら、鎌田先生が訊く。

「横浜です」

「横浜のどこ?」

「神奈川区の神大寺(かんだいじ)ってところです」

「えっ!わたしは、神大寺に住んでたんだよ」

「え~~~!!??」

 

あまりの驚愕でアゴが外れそうになる。話によると、鎌田先生は大学・大学院の9年間を神大寺で過ごしたという。横浜の神大寺から渋谷の國學院まではそれなりの距離がある。しかし東横線への憧れが強く、東横線に乗って大学に通いたいという願望があったのだという。そのことは、一条真也さんとの往復書簡にも書いている。

 

ぼくにとっては東横線は「銀河鉄道」で、元町から石川町や山手は一番心の落ち着くところだった。外人墓地の前に「シベール」というレストラン・カフェがあって、そこでよくテキーラやマティーニを呑んでたな。酔っ払ったら港の見える丘公園で海を見ながら潮風に当たって。

鎌田東二「シンとトニーのムーンサルトレター第9信」

 

そしてぼくも、鎌田先生の故郷である徳島の阿南には、10歳のとき親を連れて行った。ぼくがどうしても四国を一周したいと言いだし、10歳ではさすがに一人旅というわけにもいかず、親を連れてゆくことになったのだ。とくに小高い山の上にある津峯神社には、感銘を受けていた。

 

鎌田先生は頻繁に津峯神社へ登り、毎日津峯神社のある山に向かって遥拝していたという。ぼくが阿南を訪れたときは、たまたま案内標識を目にして吸い寄せられるように上ってゆき、境内を満たす儼乎たる御神気に圧倒された。

 

神大寺と津峯神社。お互いにとって、あまりに身近で、あまりに大きな影響を受けた聖地を、ぼくたちは共有していた。

 

とはいえ、じつは神大寺という寺は、存在しない。初めてこの町名を目にした人は、さぞや立派な寺があるのだろうと想像するが、町内には名前に関わらず、寺すら一つもない。しかしこの町には、「神大寺伝説」が語り継がれている。

 

1525年(大永4年)、小机城主の笠原越前守信為(かさはらえちぜんのかみのぶため)が亡き父、笠原能登守信隆(のとのかみのぶたか)の追善供養のため、龍が潜む「龍池」があったとされるこの地に、「神大寺」を建てた。寺は二代目住職の天叟順孝(てんそうじゅんこう)の代に落雷によって全焼。それにより寺は小机に移転し、寺の名前を変え、現在は「雲松院」となっている。もとあった町には寺が無くなり、しかしその寺号が地名として残ったのだ。

 

「神大寺」のあった地点は定かでなく、資料も発見されていないが、町の中央付近にある「塩嘗地蔵」の周辺の畑から、太平洋戦争中に骨壷と六文銭が発見された。これがもし笠原氏のものであるなら、この近辺に存在したと推測できるが、骨壺は戦後の混乱で消失したため、いまではそれすら分からないのだ。

 

この「神大寺伝説」が伝わる地で、鎌田先生はどのような学生時代を送ったのだろうか。その記録を読んでみよう。

 

神大寺に住んでいた時は、歩いて、六角橋にある神奈川大学によく行きました。そこの生協で本を買ったり、学食で安い定食を食べたり。お金に困って、六角橋の質屋に質を入れたり。そうそう、何の脈絡もありませんが、「ウララウララウラウララ」の山本リンダさんは、六角橋中学の出身だとその頃聞きました。大学院時代に六角橋の進学塾で国語講師のアルバイトをしましたから、六角橋中学の生徒も教えたのです。その中学生が言っていた・・・。

鎌田東二「Tonyのムーンサルト独りレター第5信」

 

ちなみに、ぼくも六角橋中学校の卒業生なのだ。あと30年早く生まれていれば、「塾の先生は鎌田東二」ということになっていたかもしれない。なかなか想像できないが、ぼくの先輩には確実に、その該当者がいるのだ。

                                         

そしてもう一つの聖地、阿南の津峯神社は、標高284mの津乃峰山山頂に実在する神社である。国家鎮護・延命長寿の神として賀志波比売命(かしはひめのみこと)を主祭神とし、相殿に大山祇命を祀る。724年(神亀元年)、神託によって創建されたと伝えられ、式内社に数えられている。津乃峰山には大小の洞窟があり、かつては断食参篭の行場であった。頂上から眺める黄金色に色づく田園と、「阿波の松島」と唄われる橘湾のおだやか風景は、眺めているだけで涙がこぼれそうになる。

 

「へえ~!神大寺の人が津峯神社に来たの。すごいねえ、奇遇だねえ」

そう言いながら、鎌田先生は神田の地下食堂で牛舌丼のおかわりを注文している。ぼくも同じものを食べているけれど、さっきから頭がクラクラして、なかなか喉を通らない。なんとか水で流し込もうとするが、自分の舌と牛舌が絡まり合って、うまくいかない。それでも完食すると、二人で東京自由大学へ向かった。

 

「わたしは阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件のあと、世直しの必要性を強く感じて、1999年に東京自由大学を立ち上げたんだよ。日本には、どんな一宗一派にも捉われないで、宗教について考える学校が不足している。それに、宗教・芸術・学問の三つの分野を創造的につないで探求してゆく視点も必要だと思ったんだ」

 

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のあった1995年の冬、ぼくは5歳だった。しかし意外にも、この二つの出来事に対しては、テレビを通して生々しい記憶が残っている。

 

なぎ倒された高速道路、切断された高架橋からいまにも落ちそうな電車、そして、「お父さんがまだ埋まっているんです」とレポーターに涙ながらに訴える制服姿の女の子

 

地下鉄サリン事件の方は、当日の騒然としたニュース映像はもちろんだが、その数か月後、横浜駅でも異臭騒動が起こり、ものすごい数の消防車と救急車、パトカーが我が家の横を通過し、上空を旋回するヘリコプターが、いつまでも爆音を立てていたことの方を、克明に記憶している。

 

そのころ、ぼくは祖父と電車にのって出かけるのが好きだった。車内の床に落ちているピニール袋をみつけては、「じいちゃん、あれ、サリンじゃないの?」と面白半分で大きな声で言い、周りの人がビクッとするのを見兼ね、祖父がまた大きな声で、「なあん、あれはただの袋じゃ」といちいち真面目に返してくれる会話を、楽しんでいた。

 

そして、事件から13年後にぼくが入学した中央大学総合政策学部は、オウム真理教事件と無縁でなかった。地下鉄サリン事件が教団による犯行だと分かると、それまでオウム真理教に寛容な姿勢を見せていたとして、中沢新一教授(当時)へのバッシングが苛烈化し、その批判の矛先は、ときとして学部そのものへ向けられるようになった。故・渥美東洋学部長(当時)は、冷静な見地から世間の批判(「中沢教授を更迭せよ」という意見を含んだ)に対処し、中沢教授を中央大学に引き留めた。大学入学後、この話を耳にしてから、オウム事件はとても身近に感じるようになり、自分でもいろいろと調べ始めているところだった。

 

この事件をきっかけの一つとして生まれた東京自由大学とは、どのような所なのだろう?すでにインターネットでその存在は知っていたが、実際に訪れるのは初めてだった。神田駅近くの雑居ビルに入ると、階段を上って2階にゆく。そこは小さな事務所のような空間で、折り畳み式の机を囲んでいすが並べられ、会議をしている最中だった。

 

「ねえねえ、聞いてよ。彼の地元の神大寺は、わたしが学生時代9年間住んでたところなんだよ。それで彼は10歳のとき阿南の津峯神社に来ていてね、それはわたしの地元なんだよ」

「へぇ~、面白いですねぇ」と会議中の人たちが異口同音に言う。

 

これが2010年12月10日の出来事で、これ以来、ぼくは東京自由大学のスタッフとして講座の企画や運営に携わるようになった。この小さな空間が実は教室で、これまで「漂流教室」のように引っ越しを重ねながら、美輪明宏・細野晴臣・松岡正剛・姜尚中・茂木健一郎・立松和平といった人たちを、講師に招いてきたのだという。

 

ぼくが初めて東京自由大学に行ってから3か月後、東日本大震災が発生した。大地は揺れ轟き、津波は万物を呑みこみ、放射能はこの世界を汚染し続けている。震災直後に予定されていたシンポジウム「シャーマニズムの未来」を、東京自由大学は予定通り開催することで、鎮魂と一筋の希望を見出そうとした。シャーマンは見えないモノを見、聞こえないモノを聞くことで、人間と超越的なモノたちを媒介し、人間がその業によって世界の均衡を崩さないよう、保ってきた。それがいま、崩壊している。

 

このシンポジウムの最後で、中野ZEROホールを埋めた満場の人たちに、パネリストの一人、鶴岡真弓さん(ケルト研究家・多摩美術大学教授)は次のように語った。

 

「いま、ここに集まっているわたしたちは、もう5分後には散会して、それぞれの居場所へと戻ってゆきます。ここにいる全員が、全く同じメンバーで、再びこのように集まることは、もう二度とないでしょう。だからこそわたしは皆さんへ、まるで危険な場所へ船出する旅人を送り出すように、いままでわたしが教わってきたこと、自分でみて感じ、考えたことを、老婆の智慧のように授けたいと思いました。それが必ずしもうまくいったとは思わないけれど、ぜひみなさんも、危機に直面しているそれぞれの居場所で、今日このあとすぐ、そして遠い将来にわたって、ご自分の言葉で、ご自分の方法で、伝えて頂ければと思います」

 

それから4年の歳月が経ち、日本社会の進む方向は、大きく進路を誤っているように思う。福島の原発事故はいまだ収束が見えないにも関わらず、政府はそれを隠ぺいし、各地の原発の再稼働を急ぎ、輸出まで画策している。それと同時に、憲法の「解釈変更」という暴挙に打って出て、第二次世界大戦で日本が「敗戦」した事実に目を向けず、アジア諸国で、パールハーバーで行った残虐な大量殺戮行為にフタをして、再び戦争へと向かおうとしている。

 

いまこそ、オルタナティブな学校として、東京自由大学の真価が問われる時だと思う。タコツボ化した従来の学問領域の境界をしなやかに超越し、「大学/社会」という不毛な二項対立の境界に立ち、両者に深くコミットしながら、ゆるやかに統合してゆく試みを、より一層展開してゆく時に差し掛かっている。

 

あるとき鎌田先生は、境界論を研究しているぼくに、こんなことを質問した。

「きみは、境界をつくろうとしているの?それとも結ぼうとしているの?」

ぼくはとっさに、「結ぼうとしています」と答えた。近代化とは、人工的な境界を明確につくり、社会を精密なシステムで統御してゆくものである。だからぼくは、為政者にとって都合よく引かれた境界(国境、国籍、性別、生死など)のあり方を揺さぶり、その境界領域の存在の豊かさに目を向け、結んでゆきたい。

 

しかし境界を結んだその後で、ふたたび境界をつくって分類する必要が出てくるだろう。なぜなら、赤ん坊が言葉を覚え、万物に差異を認めてこの世界を認識してゆくように、人間は世界に境界を設けて分類することによってしか、物事を認識できないからだ。

 

とは言えぼくは、レヴィストロースのように「分類はいかなるものでも渾沌にまさる」(『野生の思考』より)とは考えていない。その分類によって不利を蒙り、差別される存在が生じるならば、混沌のままであった方が良い。しかし最も理想なのは、自然を含めすべての存在が、心地よく生きてゆくことのできる無理のない境界によって、分類が成り立っている社会であると思う。

 

成人式の夜、東横線の車内から始まった「境界をめぐる冒険」は、渋谷の猥雑な夜から、プラハのユダヤ人墓地、バラナシの熱を帯びた幻想、六波羅珍皇寺から身延山へ続く道、勝五郎の道と勝四郎の家、喜界島の海と洞穴、病院の無機質な待合室を通り抜け、いま新たな次元に入ろうとしている。いつの日か「境界」という概念にも捉われず、「境界とは何か?境界はどのようにあるべきか?」という問いに答えられたらと思う。

 

そんな日がやってくるかは分からない。しかしこれは遠い将来まで、ずっと抱えてゆきたい問いであるのだ。なぜならそれを授かったのが、子供と大人の境界を、東横線という名の銀河鉄道で超えた夜だったのだから。

 

<おわり>

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。