アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて  

鎌田 東二

 

 

 
1. 大重潤一郎氏との出会い~その伏線

 


わたしが大重潤一郎氏と初めて会ったのは、1998年2月のことであったと記憶する。
埼玉県秩父市で行なわれた「光りの島」(1995年製作)の上映会でのことであった。上映会場でお会いし、大重氏たちと2次会の会場に赴いた。だが、その年の1月6日からあれほど好きであった酒を飲まなくなっていたので、同じく酒好きの大重さんと盃を酌み交わしたことはない。残念なようでもあるが、これでよかったとも心底思う。わたしが昔のように大酒飲みであったら、2人はもっと早くこの世を去っていたかもしれない。
わたしたちは、大重さんのライフワーク「久高オデッセイ」の仕事を完成させるために出会ったのかもしれないと時に思う。

だが、これよりずっとずっと昔、わたしたちはある共通の友人を通じて、お互いの消息と情報を得ていたのである。
1970年、それがわたしたちの出会いの伏線になる。
この年、大重さんはデビュー作「黒神」を持って全国を自主上映しつつあった(注1)。
同じ1970年の5月、わたしは大阪市心斎橋の「エルマタドール」というクラブの2階を借り切って、1ヶ月間、「ロックンロール神話考」(鎌田東二作・演出、戸田克文音楽・中島和秀主演)を上演した。それを観に来てくれたのが、大阪大学医学部4回生の長谷川敏彦さん(注2)だった。最初に、わたしたちのへんてこな「神芝居」を最初に高く評価してくれたのがその長谷川さんだ。その次に評価してくれたのが、大阪在住の作詞家、もず唱平さんだった。
そして、長谷川敏彦さんは、大阪大学医学部の大学祭で大重さんのデビュー作「黒神」を自主上映したのだと、確か長谷川さん自身から聴いていたような記憶がある。
だが、わたしは19歳で、心斎橋を裸足で歩き回る「フーテン」(和製ヒッピー)だったので、気ままだった。今もなお現役「フーテン」であるが、世相は騒然としており、また、自分が生きていくことだけでもせわしなく、長谷川さんがやろうとしていた「黒神」を観に往く余裕も時間もなかった。この時、大重さんとわたしはニアミスしていたが、出逢うことはなかった。
だが確実に、後に日本医科大学教授となる長谷川敏彦を通して、大重潤一郎と鎌田東二はつながっていたのだ。1970年のことだった。

 

2. 大重潤一郎氏との出会い~その時

 


1998年2月、秩父で私たちは出逢った。その仲介をしてくれたのが、現在NPO法人東京自由大学の運営委員長をしてくれている気功家の鳥飼美和子さんだった。
この「東京自由大学」は、1998年に「神戸からの祈り」という阪神淡路大震災後の死者と社会の鎮魂を祈る催しを実行している最中に胚胎した。その「神戸からの祈り」の神戸実行委員長が大重潤一郎さんで、実行委員会全体の代表がわたしだった。
大重さんとの出会いは、先に記したように、秩父での「光りの島」の上映会においてであった。わたしは秩父在住の画家の横尾龍彦さんと一緒に大重さんの映画を観た。この時、横尾龍彦さんの瞑想絵画と共通する「風」と「光」と「気配」を感じとった。

そしてその後、「東京自由大学」(注3)を立ち上げた時、学長・理事長を横尾龍彦さん、副理事長を大重潤一郎さんとわたしが務めるかたちで、1999年2月20日に東京自由大学が西荻窪のスタジオWENZで産声を上げたのだった。その初回のシンポジウムは「ゼロから始まる芸術と未来社会」というものだった。
横尾龍彦学長の瞑想絵画は、自分(自我)が描くのではなく、非自我あるいは超自我ともいえる「風が描く」「水が描く」という絵画で、まさに「ゼロから始まる芸術」であり、わたしたちは「ゼロ」になる身体技法として横尾氏指導の禅瞑想を実修したのだった。
出会うべく出逢ったと思うのは、大重さんの映画もまた、同じように、「風が描く」「水が描く」という非自我・超自我ゼロ芸術映画であったことだ。

大重さんの作品にインドとバリ島を舞台に描いた「水の心」(1991年制作)という30分ほどの小品があるが、それは風と光と水の「心」の行方を探り、訪ね、瞑想する、たいへんエロティックな映像で、大重さんの真骨頂が全篇にみなぎっている。
そんな大重さんが2002年から神戸を離れて、沖縄の那覇と久高島に住み着き、脳内出血で半身不随になりながらも必死でそこから抜け出して「久高オデッセイ」第一部「結章」を完成させ、2005年3月26日に国際宗教史・宗教学会で本邦初特別上映し、シンポジウムも催し、翌2006年11月24日にNPO法人東京自由大学でも青山ウイメンズセンターで上映し、併せて東京大学教授の宗教学者島薗進さん、立教大学教授のアメリカ先住民研究者の阿部珠理さん、作家の宮内勝典さんに参加してもらって、シンポジウムを行ったのだった。
この第一部「結章」はしかし、「久高オデッセイ」としては序章である。それに続くものが、2009年3月7日、東京大学理学部小柴ホールで初上映された第二部「生章」であった。
わたしは、1998年の「神戸からの祈り」以来、大重さんと苦楽を共にしてきた。沖縄と東京と持ち場は離れていても、常にその風と光と水を共有してきた。第一部では、わたしは監修として関与し、第二部では製作に回った。

わたしは、1985年頃から「現代のエンの行者」たらんとしてきた。「現代のエンの行者」の最大の仕事は「縁結び」である。「エンの行者」とは金集めの「円の行者」ではない。自然と人間、人間と人間、存在と存在を結び直す「縁の行者」のことである。
そんな「縁の行者」としての仕事をこれからも縁の流れに従ってしっかり進めていきたい。臨機応変に。神ながら式に。犬も歩けば棒に当たる式に。

このEFGの連載も、そんな「縁」のままに書き進めていきたい。

 

 

------注釈------

※注1

市東宏志氏執筆ブログ:映画 ランダムソート  より

 

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今まで文章だけで「黒神」について語ってきただけなので、まだ全貌が良く判らんと思われる方もいらっしゃるのではと考えまして、証拠物件というわけではありませんが前売券、チラシ、新聞記事の切抜きなどをお見せいたすことにします。

まずチラシと製作開始前の朝日新聞の記事です。

製作協力券の表と裏です。

全国上映展開時の朝日新聞の記事

広島上映時の中国新聞の記事

京都上映時の手書きのわら半紙B4版ガリ版刷りのチラシの抜粋
かなり難解な自主上映アプローチ論は省略し結論部分のみ抜書きします。
私たちの自主映画とは、現在を変革し、情況を作り上げようとする「主体」と「支柱」を発見し続けることであり、自主上映、批評活動とは、その「主体」を実践することにほかならない。
「黒神」・前述の自主映画運動を現実化、物質化するものとして、私たちは映画「黒神」において登場したスタッフ30名と、自主協力者8千名にも及ぶ~「自 主たち」~は、その映画製作活動の中で、黒神に土着し、自然と対峙せんが故に人類の持つ限りのあらゆる能力への開眼を明示し、人類のエネルギーの根源を追 求する作業で持って、自然を現実社会を変革していこうととする「主体」を提案していくと同時に、黒神より離村し都市へと巣立たざるを得ない流浪とを並列さ せる中から「土着の情念」と「流浪の怨念」といった、新たなる情況を作り上げていこうとする「二重主体」を情況社会の中にぶち込み、その主体を実践してい こうではないか。

今考えると当時はこういった檄文調で観客を呼び込んだのですね。まあ良く来てくれました。

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※注2

長谷川敏彦氏プロフィール

 

参考資料:医師不足の本質から日本の医療を考える(PDF)
1972年、大阪大学医学部医学進学課程卒業。1981年、米国ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程卒業。1986年、厚生省健康政策局計画課課長補 佐。同年、国立がんセンター運営部企画室長。厚生省大臣官房老人保健部老人保健課、健康政策局計画課、九州地方医務局次長等を経、1995年、国立医療・ 病院管理研究所医療政策研究部。2002年、国立保健医療科学院発足、政策科学部長。2006年、日本医科大学医学部医療管理学教室主任教授。日本国・米 国ミシガン州・米国ウィスコンシン州・米国マサチューセッツ州医師免許取得、米国外科専門医資格 【近著】「医療を経済する」(編著・医学書院 2006.3) 「医療安全管理辞典」(編著・朝倉書店 2006.6)

「うべっちゃ::isadocafe - 座談会で「うべっちゃ」を紹介!」に次のようにある。

・長谷川敏彦氏(日本医科大学教授) もともと医師で、JICAや厚生労働省を経て、国立病院管理研究所〜国立保健医療科学院の政策科学部長だった方です。たとえば今走っている保健政策「健康 日本21」の総論部分などは彼の仕事ですが、医師需給問題などではやりだまにも上がっています(半分ぐらいは誤解と思われますが…)。20年来の付き合い (というか腐れ縁)で、僕にとっては、めちゃくちゃ切れ者だけれどけったいなおっちゃんという感じ。ため口をたたける関係です。

http://ubesns.jp/blog/blog.php?key=2546&com_mode=1

 


※注3

東京自由大学設立趣旨 (1998.11.25)

21世紀の最大の課題は、いかにして一人一人の個人が深く豊かな知性と感性と愛をもつ心身を自己形成していくかにある。教育がその機能を果たすべきであるが、さまざまな縛りと問題と限界を抱えている既存の学校教育の中ではその課題達成はきわめて困難である。
そこで私たちは、私たち自身を、みずから自由で豊かで深い知性と感性と愛をもつ心身に自己形成してゆくための機会を創りたいと思う。まったく任意の、自由な探求と創造の喜びに満ちた「自由大学」をその機会と場として提供したいと思う。
私たちは、特定の宗教に立脚するものではないが、しかし、宗教本来の精神と役割は大変重要であると考えている。それは、それぞれの歴史的伝統と探求と経験 から汲み上げてきた叡知にもとづいて、人間相互の友愛と幸福と世界平和の希求と現実に寄与するものと考えられるからである。私たちはそれぞれの宗教・宗派 を超えた、「超宗教」の立場で宗教的伝統とその使命を大切にしたいと願う。そして、人格の根幹をなす霊性の探求と、どこまでも真なるものを究めずにはいな い知性と、繊細さや微妙さを鋭く感知する想像力や感性とのより高次な総合とバランスを実現したいと願う。
そのためにも、何よりも自由な探求と表現の場が必要である。自由な探求と表現にもとづく交流の場が必要である。
そして、その探求と表現と交流を支えていくための友愛が必要である。探求する者同士の友愛の共同体が必要である。私たちが生活を営んでいるこの大都市・東京のただ中に、魂のオアシスとしての友愛の共同体が必要なのである。
かくして私たちは、この時代を生きる自由な魂の純粋な欲求として「東京自由大学」の設立をここに発願するものである。
「東京自由大学」では、「教育とは本質的に自己教育であり、自己教育は存在への畏怖・畏敬から始まる。教師とは、経験を積んだ自己教育者であり、それぞれ を深い自己教育に導いてくれる先達である」という認識から出発する。そして、(1) ゼロから始まる、いつもゼロに立ち返る、(2) 創造の根源に立ち向かう、(3) 系統立った方法論に依拠しない、いつも臨機応変の方法論なき方法で立ち向かう、をモットーに、勇気をもって前進していきたい。組織形態、運動体としては NPO(非営利組織)法下のボランタリー・スクール法人として運営および活動をしていきたいと準備している。また地震など、災害・事件時のボランティア的 な互助組織として機能できるように行動したい。自由・友愛・信頼・連帯・互助を旗印に進んでいきたい。
みなさんのご参加を心待ちにしています。     

1998年11月25日 鎌田東二


● 設立発起人(10名、肩書きは当時のもの)
鎌田東二(東京自由大学教頭、武蔵丘短期大学助教授・宗教哲学)
横尾龍彦(東京自由大学学長、画家)
福澤喜子(東京自由大学顧問、香禅気香道、感性塾主宰)
長尾喜和子(東京自由大学顧問、ギャラリーいそがや元代表)
池田雅之(早稲田大学社会科学部教授)
宮内勝典(作家)
大重潤一郎(映画監督)
原田憲一(山形大学理学部教授)
川村紗智子(陶芸家)
平方成治(東京自由大学事務局長、西荻WENZスタジオ代表)

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など鎌田東二オフィシャルサイト