境界をめぐる冒険

辻 信行

 

 


Ⅰ プロローグ

 

 

「いったいどういうことだ?」

「われわれにもわかりません。どうもおかしなことです。」

「子どもを見かけた場所は?」

「それなんです。われわれのまるで知らない地区だったんです。」

「そんな地区があるはずはない。」と、本部は断言しました。

「ところがそうじゃないようです。まるで ― どう言ったらいいでしょうか ― その地区は時間の境界線ぎわにあるみたいで、子どもはその境界線にむかって行きました。」

                                    ― ミヒャエル・エンデ『モモ

 

 

ずいぶん遠い所に来てしまったものだ、とぼくは思う。

荒涼としたロッキー山脈の尾根を歩いたときも、ヴルタヴァ川の上流でカワセミの歌を聞いたときも、こんな気持ちにはならなかった。

 

成人式の夜、ぼくは懐かしい友人たちと再会して、いまはその帰りだ。

急行渋谷行きの電車内は、頬を紅潮させた新成人と、たいくつそうに顔を曇らせたサラリーマンで混雑している。

 

「それで、最近あなたは何に興味があるの?」

吊革につかまったぼくを見上げて、中学時代の理科のおばさん先生が訊ねてきた。

 

この種の質問が、ぼくはとても苦手だ。

「最近あなたは何をしてるの?」なら答えられる。「あなたは何に興味があるの?」も大丈夫。しかし、「最近」と「興味」がくっついたとき、ぼくの頭は真っ白になってしまう。なぜだろう?よく分からない。

 

しかし、その日は違った。やはり成人式の夜は特別なのだ。

 

「境界です」とぼくは答えた。

「境界?」

「はい、時間の境界とか、生と死の境界とか。たとえば今ぼくは、子供と大人という時間的な境界にいます。成人式の直後なので、すでに境界を越えて大人になってしまったけれど、今日は間違いなく境界ですね。それにこの境界は、生と死の境界でもあります。いまでも先住民のイニシエーションでは、新成人の青年が火あぶりにされたり、蜂の巣に手を入れさせられたりしますね。子供として一度死んでから、大人として再生する。まさに生と死の境界ですね」

 

よくもまあ、恩師にむかってこんな説教じみたことを言えたものだ。しかし、あのときぼくは、何かに憑りつかれたように、すらすら言葉が出てきたのだ。

 

そしてあれ以来、ぼくは「境界」にとらわれ続けている。

とにかく、大学院に行ってまで「境界」を研究しているのだから、やはり成人式の夜は恐ろしい。もしあなたが20歳以上であるならば、成人式の夜のことを思い出して頂きたい。そこには、その後の人生に大きな影響を及ぼし兼ねない不思議な鍵が、落ちているかもしれない。

 

……

 

今回から2年にわたって、ぼくは「境界をめぐる冒険」を綴りたいと思う。これまでぼくが歩いてきた、そしてこれから歩いてゆく、子供と大人・昼と夜・この世とあの世・男と女・自己と他者などの境界を、ゆらゆらと彷徨ってみたい。

 

けれどその前に、そもそも「境界」とはなんなのか、少し確認しておいても良さそうだ。凡庸なアイデアではあるけれど、手元の辞典を紐解いてみよう。

 

まずは『広辞苑』。「境界」と引くと、「 ①さかい。②区域。」と出てくる。これではあまりにシンプルで、さっぱり分からない。そこで、『哲学・思想事典』『世界宗教大事典』『日本民俗学事典』『民俗学辞典』『佛教語大辞典』で調べてみる。しかし、「境界」という項目はなんとどこにも見当たらない。最後に手にした『文化人類学事典』を引いてみて、やっと見つかった。

 

ここでは、「境界」に1ページ近くの紙面が割かれ、とても詳しい説明がなされている。それによると境界のもっとも抽象的な意味は、「自然状態のままでは連続していて区切りのない現象に対して、人工的に現象を分断するものであり、同質的なカテゴリーに区切るもの」であるという。そして説明は続く。

 

「境界の理解は第1に、明確な社会的単位を構成する集団の境界維持機構の理解でなければならない。… 社会集団には、最も包括的な公分母として境界があり、境界維持機構としての体系を保持している。… 境界とは本来文化的シンボルでありカテゴリーであるので、人びとはかならずしもつねにこのシンボルを意識しているとはかぎらない。…集団を区切る境界、あるいはより一般的な意味における現象を分断するものとしての境界は、上記のような実証主義的・機能的次元の境界のみならず、論理主義的・構造的次元における意味をあわせもったものである」

 

つまり境界は、集団を維持するための実証主義的・機能的次元のものであるから、そのことを第一にふまえよ、というわけだ。

 

しかし、とぼくは思う。

そんなこと言われたって、困ってしまう。文化人類学的には素晴らしい説明だろうけど、結局「境界」がなんであるのか、ますます分からなくなってきた。

 

そう言えば、生まれて初めて辞典の引き方を教えてくれた小学校の先生は、こんなことを言っていた。

 

「気になる言葉があったら、辞典で調べてごらんなさい。そこには説明が載っている。でも、『答え』はないわ。答えは、あなたが自分の足で、とりに行くしかないものなのよ」

 

そのときぼくは、「答え」が松茸みたいに生えているのを想像した。いや、土中に埋まったトリュフだったかもしれない。

 

しかし、いまのぼくはこう解釈する。「答え」なんて、本当はどこにもありはしない。無理やり「とる」と錯覚することによってしか、「答え」は見出せない。

 

もしそうだとしても、とぼくは思う。やっぱり自分の足で歩いてみなくてはならないだろう。だってそれは、とても楽しいことだから。どんな結果に辿りつこうと、その体験はきっと滋味豊かな智慧となる。

 

……

 

そこでぼくは、再び駅へ向かった。

どこへ行く時もそうするように、ぼくは最寄駅から東横線に乗り込んだ。それはまたしても渋谷行きの電車だ。先頭車両から車窓を眺めていると、水色のスーツを颯爽と着こなす見ず知らずのおばさんが、ぼくに話しかけてきた。

 

「わたしとあなたは、よく似ているわね」

 

 

<つづく>

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。